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新井潤美「ノブレス・オブリージュ——イギリスの上流階級」

第9回 ステイトリー・ホーム観光(下)

 アッパー・クラスの人々は、次々に所有するカントリー・ハウスの一般公開に踏み切ったが、バース侯爵、モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵やベッドフォード公爵はそれだけでは満足せずに、もっと積極的に観光客を惹きつけるアトラクションを用意した。ロングリート・ハウスを公開したバース侯爵は、オープニングの日に自ら玄関の外の階段に立って観光客たちを迎えた。入場料を払うと彼らは侯爵夫人が書いた、バース侯爵家の家系図や写真の入ったガイドブックを渡され、ガイドの話を聞きながら家の中の肖像画や調度品を見て回った。モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵の『玉に疵――カントリー・ハウスに住みながらお金を稼ぐ方法』には、ロード・モンタギューとロード・バースの対談が含まれているが、その中でロード・バースは次のように回想している。

私たちがオープンしたときには自分たちでいろいろ決断しなければいけませんでした。他に相談する人がいませんでしたらからね。それでガイドを雇うことを決めたんです。村の婦人会や英国在郷軍人会とか、そういった人たちは家族についての面白い逸話を聞きたがるんじゃないかと思って。率直に言うと、彼らはレンブラントやヴァン・ダイクの絵にそれほど興味がないのではと思っています。でもたとえば第一代バース侯爵が、訪問客を嫌がって家の中のどこに隠れていたかと言った話を喜ぶんですよ。だからガイドを雇うことに決めました。
(『玉に疵――カントリー・ハウスに住みながらお金を稼ぐ方法』、88ページ)

 バース侯爵のこの言葉は、観光客を見下したもののように思えるかもしれない。しかしこの後彼は無造作に「私自身、あまり絵には興味がないんですよ。所有していることは好きですけどね」(同、88ページ)と言い放つ。
 自分には美術鑑賞能力がないと、一見謙遜しているように見えるこの言葉にも実は、アッパー・クラスのスノッブな面が見られることはたしかだ。二十世紀のイギリスのアッパー・クラスは伝統的に、自らをあえて「知性的(intellectual)でない」と公言したがり、特にヨーロッパの美術や音楽といった「教養」と無縁だという姿勢を貫きたがるのは小説や演劇によく描かれる姿である。たとえば『ピーター・パン』の作者として有名なJ. M.バリーに『あっぱれクライトン』(1902年)という戯曲がある。ローム伯爵とその優秀な執事クライトンの微妙な力関係を扱った喜劇だが、第一幕につけられたきわめて長いト書きには次のような記述がある。

いくつか有名な絵が壁に飾ってある。それを見て「なかなかいいんじゃない」などと言っても、知識がありすぎるということで階級が下に見られる恐れのない類のものだ。見事な細密画がケースに並べられているが、ローム家の娘たちは描かれている人物が誰なのかわからない。「どこかにカタログがありますわ」
(『あっぱれクライトン』第一幕)

 これはローム伯爵のロンドンの邸宅の描写だが、美術品についてうんちくがありすぎるのはアッパー・クラスではないし、ましてや自分の家に代々伝わる美術品や高価な調度品に関しては無頓着であるべきだというアッパー・クラスの態度が皮肉られている。彼らの家は「美術館」ではなくて「ホーム」なのだということがこうして強調されるのである。

アトラクション付きのステイトリー・ホーム
 「ステイトリー・ホーム」というだけでは観光客を満足させられないのではないかと思う所有者たちもいて、さらなる工夫をした。バース侯爵はガイド付きツアーやガイドブックの他に、1966年にはサファリパークもオープンし、おかげで観光客の数が急増したという。「ライオンを見に来る人は、屋敷の側を通らなければいけないでしょう。それでついでに屋敷も見物してくれるんですよ。少なくとも大部分の人はね」(『玉に疵――カントリー・ハウスに住みながらお金を稼ぐ方法』、85ページ)。オープン当時、サファリパークは屋敷と入場料が別で、しかも屋敷の入場料の5倍もした。それでも、アフリカ以外で初のドライブスルーのサファリバークという魅力は多くの観光客を惹きつけたのである。
 ロード・モンタギューも負けてはいなかった。1952年にビューリー・パレス・ハウスを公開した際、彼はオープン前に新聞記者を館に招き、自ら家具を動かすのを手伝ったり、膝をついて床を磨いている姿を写真に撮らせた。さらにプレス用の会見の時に初めてアトラクションを公開した。それはロード・モンタギュー自慢の自動車のコレクションを収めた自動車博物館だった。

オープニングの後は、国中から手紙が届いた。みんな特に自動車博物館に興味があるようだった。展示物を提供するというオファーもいくつかあった。博物館に関する関心は驚異的なペースで伸びていった。復活祭の時だけで、週末に七千人もの観光客がやってきた。今ならどうということはない数だが、当時としては唖然とするような数だったのだ。
(同、47ページ)


ビューリー・パレス・ハウスの自動車博物館

 そして三年後には第十三代ベッドフォード公爵が「ステイトリー・ホーム観光」に参入する。彼は1953年に爵位を継いだが、莫大な相続税の他に、未納のままだった父親の相続税も払うはめになった。そのために多くの土地を売ったが、ウォーバン・アビーだけは手放すまいと決意し、父親がほったらかしにして廃墟となった館を、当時の妻リディアと数人の使用人と共に改装し、修復した。ヴァン・ダイクやカナレットのコレクションを所有していたが、さらに観光客を引き寄せるために、持ち主が長年そこに住んでいるという雰囲気を作り上げたと、1959年に出版された回顧録に書いている。
 ようやく屋敷の改修が完成して公開されると、自ら歩き回って観光客を迎え、サインの依頼にも応じた。

すぐに発見したのは、少々気恥ずかしいことだが、屋敷の主要なアトラクションのひとつは自分だということだった。私と話をしたがる人が多く、私自身が生まれつきおしゃべりなので、ひじょうにうまくいった。午後に屋敷を歩き周り、にこやかに人と話すのがじきに日課になった。そのあいまに屋敷の中の、あるいは外の第二の土産物屋で三時間ほど過ごし、サインをしたりガイドブックを売ったりした。不思議なことに私がいると売り上げが30から50パーセント増えるのだった。みんな私と握手をしたがり、お母さんとお父さんと子供たちと一緒に写真を撮ってほしいと頼んできた。こんなことを始める前は、人には微笑むための特別の筋肉があるなんて夢にも思っていなかった。一日が終わると私の顔の筋肉はあまりにも痛むので、もう一回でも微笑んだら気が狂うのではないかと思うほどだった。
(『銀めっきのスプーン』、195ページ)

 イギリスの公爵が自分の屋敷と土地を守るためにここまでするのかと、涙ぐましい話に思われるかもしれないが、少なくともベッドフォード公爵はこういうことが苦にならない性格だったらしい。自分が最も人気のあるアトラクションであることに、本当に最初は驚いていたかどうかはさておき、すぐにそれを利用したビジネスを展開していった。自らテレビに出演し、アメリカ人の観光客を相手に「公爵とディナー」という企画を立ち上げ、屋敷をヌーディストの集会場として提供したことすらあった。祖父や父とうまくいかず、きちんとした教育を受けないまま、十九歳のときにわずかな小遣いと生活費しか与えられずに社会に放り出された公爵は、ジャーナリストなどいくつかの仕事についたものの成功しなかった。「私は紳士としての教育を受けなかったので、紳士の持つ限界からも自由だった」と回顧録で語っているが、このような背景が逆に公爵に大胆な発想と行動力を与えたのだろう。ベッドフォード公爵は1971年にその敷地にサファリパークをオープンしている。
 バース侯爵、モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵とベッドフォード公爵はこのように、「ステイトリー・ホーム観光」の先駆者であり、互いに観光客の数を競い合っていた。ベッドフォード公爵同様、他の2人も積極的にテレビやラジオに出演し、モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵は敷地内でジャズ・フェスティバルを開催した。歴史研究家エイドリアン・ティニスウッドの『礼儀正しい観光客――カントリー・ハウス訪問の400年』によると、イギリスの国営放送局BBCの『トゥナイト』という番組で、ベッドフォード公爵とロード・モンタギューがノエル・カワードの「イングランドのステイトリー・ホーム」をデュエットで歌ったり、バンダナとカウボーイハットを身につけたバース侯爵が、屋敷を背景にライオンをリードにつないで写真に写ったりといった、PR活動が話題になっていた。
 時には悪ふざけとも見られがちだったこの3人の行動は、他の貴族や地主たちから白い目で見られることも多かった。たとえ同じように敷地や屋敷の一部を観光客に公開していても、新たに「アトラクション」などは用意しないことを誇るステイトリー・ホームも多い。しかしそのような館でも、必ずと言っていいほど土産物屋やカフェ、レストランなどは完備している。

ナショナル・トラストという手段
 他の手段として、ナショナル・トラストに屋敷と土地を管理してもらう所有者も多かった。ナショナル・トラストとは、1895年に社会改革者のオクテイヴィア・ヒル、事務弁護士のロバート・ハンター、そして牧師のハードウィック・ローンズリーによって結成された民間団体である。この団体は、取り壊されたり売却されたりする危機にあるカントリー・ハウスの管理を引き受け、多くの場合は持ち主とその家族がそのまま住み続けることを可能にした。その代わりに持ち主は、館や庭園の一部を一般公開することを認め、また、館の改装や改修に関しても許可を求めなければならなかった。
 ナショナル・トラストはカントリー・ハウスの他にも、湖水地方のような風光明媚な土地を観光産業などで荒らされないように買い上げて保存している。しかしその目的は、歴史的・美術的に価値のある建造物や土地の保護であって、観光客を惹きつけることではない。しかも、ナショナル・トラストは基本的には歴史的建造物を所有者から譲り受けるのだが、所有者は管理や維持が難しくなった屋敷をそのまま譲渡するのではなく、維持費にあてられる資本金を提供する必要もある。それでも、相続税が払えずにこの手段を選ぶ所有者は多かった。ベッドフォード公爵も膨大な相続税に直面して、邸宅をナショナル・トラストに譲渡したほうがよいと提案されて悩んだことを回顧録に書いている。

そうすると相続税の問題は解決するかもしれないが、邸宅は完全に私たちの手から離れてしまうことになる。こちらにとってきわめて都合の良い条件を確保することができたとしても、私と息子とその子孫は自分の家で借家人という地位に落ちてしまうのだ。
(同、205ページ)

 ベッドフォード公爵がそれを嫌がったのは、単に所有物を失うことへの抵抗だけではない。

いったんそうなると、私たちのルーツがなくなってしまう。そしてウォーバンのような場所に歴史や伝統の観点からなんらかの意味があるとしたら、それはここを築き上げてきた家族がその場所との絆を保っているからなのである。
(同、205ページ)

 ベッドフォード公爵のこの記述にはやはり「ホーム」としての邸宅への思いが表れている。たとえ他の貴族たちから批判されようが、少々威厳を損ねようが、どんな手段を使ってでも「ホーム」を守ろうとする執念が「ステイトリー・ホーム産業」の背景にはある。

エンタテインメント業界とステイトリー・ホーム
 近年では多くのステイトリー・ホームが、映画やテレビのロケ、企業の研修会、結婚披露宴をはじめとする各種パーティの会場提供などで収入を得ている。たとえばバークシャーにあるハイクリア城はテレビドラマのロケに使われたことで救われた。ハイクリア城は一時はエジプト関係の展示があることで有名だった。所有者の第五代カーナヴォン伯爵はエジプト愛好家で、1922年に王家の谷の「ツタンカーメンの墓」の発掘を成し遂げ、そこで発見した遺宝を持ち帰って、コレクションとして公開したのである。しかし翌年の四月に伯爵は虫に刺されたのが原因でカイロで客死し、その後も発掘の関係者が相次いで死亡したことによって、「ファラオの呪い」と噂になった。相続税を支払うために、エジプトのコレクションの大部分はニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムに売却されたが、その残りが館の棚にしまわれているのが1987年に発見され、現在では、使用人の食堂と食器洗い場だったところに展示されている。
 それでも、現在の当主の第八代カーナヴォン伯爵が相続した時、館は大々的な修復が必要な状態だった。水漏れがひどく、少なくとも50もの部屋が使用できない状態にあると新聞で報じられた。膨大な修復費の工面のめどがたたず、危機的状況にあった中、伯爵の友人で、『ダウントン・アビー』の製作者・脚本家のジュリアン・フェロウズが、ロケ地に使いたいと依頼してきたのである。番組は大ヒットして、現在では一日に1000人を超える観光客が訪れているということだが、フェロウズが他の場所をロケ地に使っていたら、今頃はどうなっていたかわからない。
 このように、爵位、館、敷地をそっくり相続する長男もけっして楽ではないのだが、一方で、相続しない次男以下の息子たちには別の苦労がある。次の章ではこれらの、通称「ヤンガー・サン」に目を向けて行きたい。

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著者略歴

  1. 新井潤美(あらい・めぐみ)

    東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士号取得(学術博士)。東京大学大学院人文社会系研究科教授。主要著訳書:『執事とメイドの裏表―イギリス文化における使用人のイメージ』(白水社)、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドルクラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』(岩波新書)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳・岩波文庫)

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