白水社のwebマガジン

MENU

「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第十六回 満洲里へ

 諸般の事情で中断していた連載を再開する。来春まで、月一回の頻度で掲載する予定だ。ノモンハン事件まで書きすすめるのでぜひおつきあいいただきたい。
 前回は、と言っても半年も前のこと、コロナ禍が本格的にはじまる3月に掲載した号では、1918年(大正7年)に起こったシベリア出兵の前段として、小樽、亜港、尼港という三港がどのようにつながっているのか、北方の「富源開拓」という視点からながめた。今回は、国際情勢、国内政治、外交から出兵を見ておきたい。
 シベリア出兵にいたる道程は極めて複雑だ。その遠因は第一次世界大戦にあり、近因はロシア革命であり、直接的な原因は、チェコスロバキア軍団にあった。まずは基本的史実を確認し、その後、出兵において、第七師団、歩兵二十五聯隊がはたした役割を見ることとする。

出兵前史

 ご存じの通り、第一次世界大戦はドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国等の同盟国とフランス、イギリス、ロシア、日本、アメリカ等からなる連合国側が戦った初の世界大戦だった。ロシアは連合国としてドイツと干戈をまじえた。大戦がはじまった当初ロシアは、「戦争は勝利に終わるまで!」というスローガンのもと、士気は旺盛であったが、長期化するに及び、経済危機が発生、生活必需品が暴騰し、人々は疲弊していった。ロシアの中学・高校の教科書は世界大戦を以下のように述べる。

 結局、1914年にロシアは準備がないまま、世界大戦に巻き込まれた。ロシア軍の敗北と支配層の権威の失墜は、権力と社会との対立を新たな段階に導いた(アレクサンドル・ダニロフ、リュドミラ・コスリナ、ミハイル・ブラント『ロシアの歴史 下』(ロシア中学・高校歴史教科書)明石書店、2011年)。

 結果起こったのが二月革命だった。開戦から3年目の1917年(大正6年)、首都ペトログラードで、労働者と兵士が叛乱、ロマノフ王朝は瓦解したのである。サンクトペテルブルクは、開戦によってペトログラードと名を改めていた。自由主義者、社会主義者は臨時政府を組織したが、4月にボリシェヴィキの指導者・レーニンが帰国すると、臨時政府の打倒とソビエトへの権力集中を訴えた。ソビエトとは、労働者や兵士からなる評議会のことだ。その秋に、レーニンとトロツキーの指導による武装蜂起によって臨時政府は倒された。十月革命である。レーニンはロシアの大戦からの離脱を主張し、併合や賠償金なしの和平を提案した。
 十月革命によって樹立した革命政府は、翌年3月にドイツとの間で、単独講和を結んだ。それによりドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に振り向けることができるようになった。連合国側は、露独の和睦により、西部戦線でのドイツの攻勢が強まり、そこに軍勢を投入せねばならなくなった。
 英、仏が米、日にシベリア出兵をはたらきかける背景となったのは、この西部戦線の問題と、暴力革命による社会主義政権の誕生があった。しかしその名目は、チェコスロバキア軍団の救出とした。
 当時のチェコスロバキアは、オーストリア=ハンガリー帝国の領土であり、多くの人々がロシア領内に逃げこみ、軍隊をも編成していた。その軍団がチェコスロバキアの独立を目的に同盟国側と戦っていたのである。しかしロシアの対独講和によって、その目的がかなわなくなってしまった。
 チェコ軍団は、シベリア鉄道でウラジオストクまで移動した後、船で欧州へと渡り、西部戦線へ参戦する予定であったが、途上、ウラル山脈の麓で現地のソビエト当局と衝突する。そのチェコ軍団の救出という目的で日本は、米英仏と共同で、シベリアへ出兵することとなったのだ。

日露協商と国防方針

 次に国内情勢を見ておこう。
 対外出兵の決定は当然のこと重要な政策決定であり、時の寺内正毅内閣はこの問題を臨時外交調査委員会で審議した。臨時外交調査委員会とは、天皇直属の諮問機関だ。議会、政党、軍部からの容喙をいれずに議論をすすめるため寺内がつくった意思決定機関であった。調査委員会には、軍令を決める陸軍参謀本部や海軍軍令部は加わっていなかった。寺内に続いて組閣したのは初の政党内閣総理原敬で、出兵は米国との共同歩調のもとで行うという方針をとった。
 外交はそのように進んだが、しかし軍は出兵決定以前から動きはじめていた。「動きはじめていた」というよりも、そもそも、政治と軍は、対露の方針が異なっていた。
 日露戦後、日露は互いの利益を認めあう互恵関係をつくりあげていた。それは、日露協約に顕著に現れている。第一次の日露協約は、ポーツマス条約調印の2年後に結ばれた。条約の尊重と清朝の独立、門戸開放、機会均等がうたわれていた。そこには秘密協定があり、日本の南満洲と朝鮮の権益と、ロシアの北満洲と外蒙古の権益を相互に認めあうことが記されていた。その後、全4回にわたる協約が締結されていく。第一次世界大戦で日露は同じ連合国側として同盟国側と戦う。日本とロシアは大戦を経て、相互の利益を保障する関係を形成していたのである。
 しかし軍は異なる姿勢をとっていた。ポーツマス条約後もロシアを仮想敵国と位置づけていたのである。講和条約の翌年に山県有朋は帝国国防方針案を作成、それに基づき、翌年1907年(明治40年)に帝国国防方針が出されたが、そこでは満洲と朝鮮の利権に挑戦する勢力の排除がうたわれていた。それは紛れもなくロシアのことだった。二月革命後、政府は他国の対応を見ながら、臨時政府への対処を模索していたが、軍は現地で独自に動きはじめることとなる。
 1917年11月末、ソビエトがウラジオストクを制圧すると、翌月、陸軍参謀本部と海軍軍令部はウラジオストクへの派兵を準備する。しかしそのような行動は日本だけではなく、同時期に米国、英国ともウラジオストクの居留民保護を理由に、軍艦を派遣している。名目は居留民保護だが、ボリシェヴィキへの圧力を意図したものだった。
 翌年1月、日本は軍艦二隻をウラジオストクに送った。同年4月、ウラジオストクの日本人経営の会社が襲撃され、日本人三人が殺されるという事件がおこると、海軍は陸戦隊を上陸させる。現地軍の独走がはじまったのである。なお、旧ソ連時代の歴史教科書(中等教育)には、この日本人殺傷は、日本側の謀略であると記されている(イ・ベ・ベールヒン、イ・ア・フェドーソフ『ソビエト連邦――その人々の歴史 Ⅲ』帝国書院、1981年)。
 参謀本部内では出兵の準備がすすんでいた。当時の参謀総長は上原勇作、参謀次長は田中義一だった。上原は第二次西園寺内閣の時の陸相で、その折に、二個師団の新設を要求し西園寺公望と対立、天皇に帷幄上奏で辞表を提出し、内閣を総辞職においこんだ人物だ。田中はその二個師団新設問題の際の陸軍省軍務局長で、上原を支えていた。帷幄上奏権とは、参謀総長、軍令部長が政府の閣議を通さずに、天皇に上奏ができる権利をいう。
 1918年3月に参謀本部は出兵案をまとめる。それは、バイカル湖より東のロシア領すなわちザバイカルと呼ばれる地域や中東(東清)鉄道沿線の要地を占領し、さらにロシアの穏健派を援助するというものだった。そのために、沿海州に第一軍を、ザバイカル州に第二軍を派遣する、というものである。つまり、バイカル湖以東の権益を軍主導で囲い込もうとする戦略である。

満洲駐箚

 1918年8月2日に原敬首相は、シベリアへの出兵決定を陸軍大臣につたえた。4日に浦塩(ウラジオ)派遣軍が編成された。その部隊は第十二師団(小倉)第一梯団(小倉、大分)からなっていた。浦塩派遣軍司令官についたのは大谷喜久蔵で、日本軍はウラジオストクの連合国軍の指揮を、大谷司令官に一元化することを求めた。しかし、現地の米軍は認めなかった。その後、各国の部隊は、同地から離れて、つまり日本軍の主張する指揮権から離脱していくのである。上記の派遣軍が先の第一軍である。
 他方、閣議は8月5日に、旭川第七師団第三旅団を満洲里へ派遣することを決定した。居留民保護が理由である。第三旅団は歩兵二十五聯隊と二十六聯隊からなっていた。
 満洲里は北部満洲にある。その地域への派兵は、連合国の共同出兵から逸脱したものである。同地に派遣する兵力は、米国と取り決めた1万2千の上限には含まれていない。満洲里の中東鉄道の西隣駅は、ザバイカリスクでそこはザバイカル州である。革命の混乱に乗じて、ザバイカルへ関与する、そのための出兵だったのである。その問題を見る前に、第七師団がその時どこにいたかに触れておきたい。旭川と月寒ではない、南満洲鉄道沿線にいたのである。
 日清戦争後の三国干渉で手放した遼東半島を、日本は日露戦争で再び勝ち得た。日露戦後、長春以南の遼東半島に「満洲駐箚」の名目で軍を派遣することとなった。駐箚とは、外交官などが公務として海外に駐在することを言う。満洲駐箚では、常時一個師団が満鉄沿線を警備する。第七師団の一部は、第十七師団(岡山)の後任として1917年(大正6年)2月に、満洲駐箚が命ぜられていた。なお、第十七師団は、日露戦後の新設された師団である。
 第七師団は本部を遼陽におき、各部隊は遼陽をはじめ、鉄嶺、柳樹屯、旅順、公主墳、海領に駐屯した。歩兵二十五聯隊は鉄嶺にいた。鉄嶺は南満洲鉄道の西側を並行して流れる大遼河と柴河との合流点に位置する戦略地だ。鉄嶺には日本領事館もあった。
 歩兵二十五聯隊の聯隊旗手だった有末精三は、鉄嶺での生活を中国語とフランス語を学び、訓練にあけくれる毎日だったとつづっている。駐屯地の周辺には、「芸酌婦」が多数あらわれ、酒色におぼれて借財がかさみ、自殺する将校があらわれた、と記している(有末精三「大陸勤務の思い出―惨劇の尼港へ進駐―」『政治と軍事と人事――参謀本部第二部長の手記』芙蓉書房、1982年)。尼港と同様に、「からゆきさん」が鉄嶺にもいたのである。郷里を離れた女性たちも必死だったのだろう。なお、有末は敗戦後、厚木に占領軍を迎えに行き、その後GHQ工作を行う有末機関の長として戦後史に名を残すこととなる。有末については次回も触れる。
 その満洲駐箚中の第七師団に、北部満洲への出兵命令がくだったのである。その目的は、「該地方居留帝国民ヲ保護シ」そして、「支障ナキ範囲ニ於テ「セミヨノフ」支隊及該方面ニ出動スヘキ「チエツクスロバツク」軍ヲ支持赴援スヘシ」というものだった。東へ向かうチェコ軍団を助けろ、というのである。では「セミヨノフ」とは誰か。
 グレゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフは、赤軍と敵対する白軍の軍人で、ザバイカルのコサックだった。第一次世界大戦に参戦し、十月革命後、同地で反革命軍の政権を樹立すべく、軍を組織する。十月革命後に日本軍は、反革命勢力に深く関与していくが、その一人がセミョーノフだった。
 バイカル湖の東・ザバイカルへの関与は日露戦争で主戦論を張った七博士の一人、戸水寛人も主張していたものである。当時、伊藤博文はそのような主張を受け付けることはなかったが、明治の元勲が第一線から退くと、参謀本部は同地への関与を模索することとなる。なお、伊藤博文が日韓併合に反対する韓国人・安重根に殺されたのは、第七師団の満洲里派兵の9年前、1909年(明治42年)のことだ。
 ザバイカルに親日的な政権ができれば、日本が利権をもつ南満洲、さらには、すでに植民地としていた朝鮮半島への緩衝地帯となる。つまり、陸軍中央には、二月革命によるロマノフ王朝の崩壊、さらに、十月革命による革命派の奪権とロシア帝国の混迷を、「天佑」としてとらえる勢力がいたということである。日本軍はセミョーノフを「傀儡」として使おうとしていたのである。資金も提供していた。
 ザバイカル、そこにつながる満洲里へは第三師団(名古屋)が進駐する予定となっていた。第七師団は、その先遣隊として、満洲里に入った。
 すでに述べた通り、満洲里のある北部満洲は共同出兵の対象外だ。よって派兵には別の根拠が必要となる。それは出兵の3ヶ月前、1918年5月に陸軍と中国政府の間で結んだ「日華陸軍共同防敵軍事協定」にあった。中国との「共同防敵」を理由に、満洲里への進駐が可能になったのだ。
 8月下旬になってようやく日本は、この枠外の派兵を米国に通告した。米国の反応は極めて冷淡なものだった。米国が提案したのは限定出兵だったが、しかし、日本が行ったのは全面出兵だったからである(細谷千博『シベリア出兵の史的研究』有斐閣、1955年)。
 むろん、現地に派兵された兵士は、そのようなことを知るべくもない。兵は新聞を読むことさえも禁じられていた。有末精三によれば「満洲日日新聞」を読めるようになったのは、少尉任官以降のことだという(有末前掲書)。
 第七師団の一部は、中東鉄道とシベリア鉄道が分岐するチタまですすみ、シベリア鉄道沿いに東へ折り返した。そこで、ウラジオストクから西へと進んだ先の浦塩派遣軍の第十二師団(小倉)と合流するのである。第一軍と第二軍の合流により、日本軍は、バイカル以東の中東鉄道沿線を占拠することとなった。
 しかしながらその後の展開は、日本軍が支持する白軍が敗退していくこととなる。セミョーノフ軍は後退、反革命軍の全権を掌握したコルチャーク軍も敗走、第一次世界大戦も終結し、日本以外の連合国軍はシベリアから撤退する。しかし日本軍だけが残留した。
 派兵から8ヶ月後の1919年(大正8年)4月16日、第二十五聯隊は任務をとかれて満洲里をはなれることとなる。交替部隊は第十六師団(京都)だった。第十六師団は日露戦争中に創設された師団だ。
 4月30日、第七師団はウラジオストクを出港し、5月2日に函館に到着している。旭川の部隊は、5日に旭川に戻った。歩兵二十五聯隊が札幌駅に降り立ったのは、5月7日午前のこと。豊平川をわたり、午後に月寒の兵営に帰還した。6月4日には、札幌の中島公園で道庁長官が主催する凱旋将校歓迎会が開かれている。

民族独立の唯一の擁護者

 第七師団がシベリアに派兵されたのは、出兵決定の1918年8月から翌年4月のことだ。第七師団撤兵の頃は、首都ペトログラードでボリシェヴィキは権力を奪取していたが、他の地域では赤軍と白軍が激しい戦闘をくりひろげていた時期にあたる。1919年秋に、コルチャークひきいるオムスク政権が崩壊し、白軍の劣勢は覆うべくもなくなる。それを受けて、英仏はシベリアからの撤兵を決定、米国も1920年1月に撤兵を告げた。第七師団が派兵されていた時期は、共同出兵の意義に大きな疑問が提示されていなかった頃とも言える。
 シベリア出兵を外交史の側面から分析し長年読みつがれている『シベリア出兵の史的研究』の冒頭は以下のようにはじまる。

 ソヴィエト干渉戦争の理解にあたって、今日、対立的な二つの立場が存在する。そのひとつは、干渉戦争を目してソヴィエトの「国土のみならず、国民の肉体の上にも心の面にも拭いえない汚点を残し」、ソヴィエト外交に猜疑的な性格を附着せしめ、ソヴィエト政治組織が独裁的形態を採用するに與って決定的な力があったとする理解である。「二つの世界」への亀裂の淵源はこの時期に求められる。これに対するのが、今日蔓る「共産主義の悪」をその嫩葉のうちに摘みえなかった、中途半端な政策の失敗の記録として、干渉戦争の歴史を把握しようする立場である(細谷前掲書、旧字は改め、引用注は省略)。

 どちらの見方にせよ、干渉戦争に向ける眼は冷たく厳しいが、しかしいずれの立場も、歴史的重要性の認識において一致する、と述べている。おそらく、この見方は、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊し、旧来の「二つの世界」の対立が変質した現在、また、異なる視点を提供するだろう。しかし、歴史的重要性という認識は、変わることはないのではないか。
 マルクス主義の理念が、実際の国家形態として現れたその刹那に、このような干渉、介入があったことは、その後の社会主義国家のありようを決するものになったという指摘はもっともなことだろう。「干渉戦争」が多分に国家としての社会主義の性格に影響を与えたということである。
 ボリシェヴィキは、連合国側の干渉をはねのけて白軍に勝利した。初めての社会主義国家・ソビエト社会主義共和国連邦が成立したのは出兵の4年後1922年のことだった。ソ連邦は1991年まで続いた。イギリスの史家エリック・ホブスボームは、第一次大戦の始まりから、ソ連邦の崩壊までのこの時代を「短い20世紀」と呼ぶ。シベリア出兵は、まさに「短い20世紀」の劈頭に起こった事件だった。ソ連時代に編まれた歴史教科書はこの内戦の勝利を大義にもとめる。

 労働者と農民が勝利したのは、彼らが正義の革命戦争を遂行し、ソヴィエト権力を、社会主義の大義を、祖国の自由と独立を守ったからであった。国民の自己犠牲と多くの英雄的精神は、戦争目的が高潔であったことから生みだされたのである(『ソビエト連邦――その人々の歴史 Ⅲ』)。

 しかし、ソ連邦崩壊後に編纂された中学・高校の歴史教科書は、内戦の勝利の主因をそのような「社会主義の大義」「戦争目的の高潔さ」にもとめない。ボリシェヴィキが権力を掌握したのは、民主的手法を排除し、暴力に訴えたからだという。

 権力に到達したボリシェヴィキは、いかなる犠牲を払っても保持する努力をした。民主主義の規範を無視し、憲法制定会議を蹴散らし、自分の論敵を強制的に排除し、一党独裁確立の道に立脚し、メンシェヴィキと左派エスエルを事実上軍事的方法をとる闘争へと追いつめた(『ロシアの歴史 下』)。

 同時に、内戦の勝利に冷静な分析もほどこしている。それは、貧農への土地分配のみならず、中農をも取り込んだことによる、とする。

 ボリシェヴィキは人民に分かりやすいスローガンを掲げた。白色が古い秩序、ツァーリや地主を復活させようとしていたとき、ロシアにおいて赤色のために闘うことは、世界にもっとも公平な社会を構築するための闘いであると国民に信じ込ませることができた。白色を支持した外国からの干渉が、ロシア民族独立の唯一の擁護者としてボリシェヴィキを際立たせた(『ロシアの歴史 下』)。

 シベリア出兵は皮肉にも、ボリシェヴィキを、海外の勢力と結託する他の勢力と切り分け、「ロシア民族独立の唯一の擁護者」と認識させる結果となったというのである。第一次世界大戦後に米国大統領ウィルソンが発した十四か条の平和原則、そこでうたわれた「民族自決」が、さらにその意識を増進させる結果となったことは想像に難くない。第七師団、さらに歩兵二十五聯隊も、陸軍中央の意図に反し、そのような世界史的役割をはたしたと言うことができるだろう。
 シベリア出兵では、当時21個師団あったうちの10個師団、兵力にして24万を送り出した。うち戦死者5000人、負傷者2600人を数え、戦費は9億円にのぼった。
 軍事史家の松下芳男は、真珠湾攻撃直前に出版された書籍において、シベリア出兵は「結局に於いて殆んど之れといふ収穫もなかつた」と結論づけている(松下芳男『近代日本軍事史』紀元社、1941年)。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

ランキング

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2020年10月号

ふらんす 2020年10月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

白水社の新刊

フランス語っぽい日々

フランス語っぽい日々

詳しくはこちら
  1. jiji.com
閉じる