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新井潤美「ノブレス・オブリージュ——イギリスの上流階級」

第8回 ステイトリー・ホーム観光(上)

 前の章でとりあげた、アメリカの大富豪の娘コンスエロ・ヴァンダービルトが第九代モルバラ公爵と結婚した後、ブレナム宮殿が修復工事の最中なのでしばらく地中海を旅したというのは、コンスエロの自伝『輝きと金』にも書かれているが、この「修復工事」は「花嫁のために少し家を改修する」といったレベルのものではなかった。コンスエロの持参金を使って大々的な修復、改装工事が行なわれていたのである。それまでに売却せざるを得なかった絵画やタペストリー、家具などに代わるものをヨーロッパで買い揃え、高名なフランスの造園家まで雇った。この結婚は破綻したが、コンスエロが次代の公爵の母親であるという事実に変わりはなかった。


ブレナム宮殿図書室

 カントリー・ハウスは第二次世界大戦中は政府に徴発され、修理や修復も難しくなっていったうえ、戦後は増税や莫大な相続税という打撃を受けて、持ち主は何代もの間受け継がれてきた館と土地を手放さざるをえなくなった。そんな中コンスエロは、「身内を褒めるのはひんしゅくをかうかもしれないが」と前置きしつつ、1934年に跡を継いだ長男のことを「私の息子は、国から感謝の意を持って先祖に与えられた贈り物[ブレナム宮殿]を維持し、次の代に引き継ぐことを決意しました」と得意そうに語っている(『輝きと金』250ページ)。その具体的な手段は「観光」だった。

ブレナム宮殿を占拠していた省[戦時中は軍情報部第5課の本部だった]がもとの場所に戻ると、息子は大々的な規模で宮殿を観光客に開放しました。税金を払い、これほどの大きさの館を維持するには、それしかなかったのです。息子の努力は成功しました。最初の年は10万人以上の観光客が、大人ひとり二シリング六ペンスの入場料を払ってブレナム宮殿を訪れました。この記録はさらに書きかえられ、維持されています。
(同、250ページ)

 そもそも、十九世紀末の貴族や地主たちは、イギリスの工業化、農業の不振による土地からの収益の急減、膨大な屋敷の維持費によって財政的に追い込まれていたところへ、二十世紀になってさらに大きな打撃が与えられた。1908年にハーバート・ヘンリー・アスクィスが首相となったが、彼はイギリス史上最初の、地主ではない首相だった(ちなみに女優のヘレナ・ボナム=カーターは曾孫にあたる)。彼は社会福祉を拡充するために、アッパー・クラスの所有する土地や収入に対して、これまでにない高額の税金を課すという急進的な政策を推し進めた。「人民予算」(The People’s Budget)と呼ばれたこの予算案は、当時大蔵大臣だったデイヴィッド・ロイド・ジョージによって提案され、大論争の末に1910年に成立した。アッパー・クラスがそのために代々伝わる邸宅や土地を手放したり規模を縮小したりせざるを得ないことについて、ロイド・ジョージはまったく無頓着だっただけでなく、歴史研究家ピーター・マンドラーの言葉を借りると、「地主階級の寄生生活、そして彼らが現代においては役立たずであることを責め立てた」のである(『大邸宅の没落と復活』175ページ)。ロイド・ジョージは1909年7月に4000人もの聴衆を前に行なった演説で「アッパー・クラス全体を怠惰で自己中心的で冷酷だと非難しただけでなく、個人名を挙げて標的とした」(同、175ページ)。アッパー・クラスがロイド・ジョージを目の敵にしたのも無理はない。『ダウントン・アビー』でも、ディナーの席でロイド・ジョージの名前をグランサム伯爵が口にすると、伯爵の母親が「これから食事をするんですからその男の名前は口にしないでもらいたいですね」と諫める場面があるが、当時であれば十分にあり得るリアクションだっただろう。

ステイトリー・ホームの魅力
 もともとアッパー・クラスには、同じ階級の人々であればたとえ直接知らない人間であっても、そして自分が不在であっても、邸宅や庭をハウスキーパーや執事に案内させる習慣があった。たとえばブレナムも、ウォリック伯爵の邸宅ウォリック城(1978年にタッソー・グループに買い取られて観光地となった)と共に、すでに『自負と偏見』(1813年)でエリザベスがダービシャー旅行の途中でまわる「観光ルート」に組み込まれている。しかし、入場料をとって土産物屋やトイレなども整備した、ビジネスとしてのカントリー・ハウスの一般公開が始まったのは二十世紀になってからで、第六代バース侯爵が1949年にロングリート・ハウスを公開したのが最初だと言われている。バース侯爵は屋敷の他に、サマーセット州のチェダーに鍾乳洞を所有しており、こちらは1920年代から、ひとり一シリングの入場料で公開されていた。バース侯爵はそれにヒントを得て、自分の屋敷と庭園を、入場料を徴収して公開しようと思いついたのである。他のカントリー・ハウスの所有者も、バース侯爵の例にならって次々と家を公開し始めた。


ウォリック城

 1952年にハンプシャーの邸宅、ビューリー・パレス・ハウスを観光客に公開した第三代モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵は、その経験を『玉に疵――ステイトリー・ホームに住みながらお金を稼ぐ方法』(1967; The Gilt and the Gingerbread, or How to Live in a Stately Home and Make Money)という題名の手記にまとめた。その中で彼は、バース侯爵が屋敷の公開にふみきった時点では、イギリスでカントリー・ハウス観光がここまで成功するとは誰も思っていなかったと書いているが、成功の理由を、イギリスの観光客はアッパー・クラスの人々の暮らしをのぞき見したくてたまらないからだと言っている。

イギリスの人々はおそらく世界で一番好奇心が強い人々だと思われる。彼らは他の人の家の中を見て回るのが大好きなのだ。その家にどれほど知的な、あるいは学術的な魅力があるかにはまったく関係がない。それはもはや習慣なのだ。彼らは自分たちとは違う種類の人々がどんな暮らしをしているのかを見に来るのである。なので、カナレットやレンブラントの作品やイニーゴ・ジョーンズの建築、造園家の「ケイパビリティ」・ブラウンによる庭園よりも、家の電話機や「立ち入り禁止」の標識に魅力を感じるのだ。 
 彼らが口にする質問は「エリザベス一世がここで休んだのですか?」ではなくて、「どうやって掃除するのですか?」とか、「セントラル・ヒーティングを設置していますか? いくらくらいかかるんですか?」と言ったことである。ひとつの家族が何代もそこに住んでいたことにひどく心を打たれるのである。
(『玉に疵――カントリー・ハウスに住みながらお金を稼ぐ方法』、23ページ)


ビューリー・パレス・ハウス

 そしてこれこそがイギリスで観光客に公開されているカントリー・ハウスの魅力なのである。ヨーロッパの宮殿やお城と違って、そこはいまだに人が暮らしている「ホーム」なのだ。じっさい、イギリスのカントリー・ハウスは「ステイトリー・ホーム」(stately =立派な、荘厳な、堂々とした)とも呼ばれている。モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵の著書も、題名には「カントリー・ハウス」ではなく「ステイトリー・ホーム」という言葉が使われており、本の中でも男爵は「自宅」を一般公開していることを何度も強調している。
 この「ステイトリー・ホーム」という表現は、フェリーシャ・ヘマンズ(1793~1835)という女性の詩人が1828年に書いた、「イングランドの家庭」という詩の中の第一連で使われたものである。

イングランドのステイトリー・ホーム、
なんと美しいことだろう
何百年もそびえ立っていたあの木々と、
あの広大な土地の上に建つ。
緑の芝生を鹿が跳ね、
木の合間を駆け抜ける。
そしてそのそばを白鳥が優雅に進む
笑いさざめく小川の上を。

 この詩ではこの後に、ミドル・クラスの家、そして労働者の家の描写が続き、最後はイングランドすべての家と、そこに暮らす人々を讃えて終わる。ヘマンズ夫人は、十九世紀においてはきわめて人気の高い詩人で、その作品は特に学校で子供が必ずといって言いほど読まされるものだった。内容は感傷的なものや愛国心を掻き立てるものが多く、現代ではほとんど読まれていない。この詩も、「ステイトリー・ホーム」という表現を最初に使ったものとして、かろうじて知られている程度である。ヘマンズ夫人は貴族や大地主の豪華で広大な屋敷と庭園を「ホーム」と呼ぶことによって、これらのカントリー・ハウスが、ミドル・クラスや労働者の家と同じく、「家族」が住む家であることを強調し、階級こそ違え、イングランドのすべての人々に安心して住める家があることを歌いあげているのである。
 実はこの詩よりも、二十世紀に書かれたこの詩のパロディのほうがよく知られているだろう。作家、作曲家、俳優、劇作家など、広い分野で才能を発揮したノエル・カワード(1899〜1973)が、1938年初演のミュージカル『オペレット』のために書いた歌である。かなり長い歌だが、リフレインはこうなっている。

イングランドのステイトリー・ホーム
なんと美しいことだろう
この国のアッパー・クラスが
いまだに健在だと示している。
何度も改修工事が行なわれ
抵当に入れられているから
ちょっと価値は下がっているかもしれないし、
相続する長男にとっては玉に疵[原語ではthe gilt off the gingerbread――モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵の本の題名はここから来ている]
それでも我々は負けはしない。
倹約して節約してお金を貯めるのだ。
イートン校の校庭は
われわれを勇敢にしたのだ。
だからヴァン・ダイクは売り払い、
グランド・ピアノを質に入れても、
われわれは見捨てはしない、
イングランドのステイトリー・ホームを。

 ミュージカルそのものはあまり評判が良くなかったらしいが、この歌はヒットした。「ステイトリー・ホーム」という言葉はノエル・カワードが最初に使ったと思っているイギリス人も少なくないようだ。そしてこの「荘厳なホーム」という、一見矛盾を含む表現が、観光地としてのイギリスのカントリー・ハウスの成功の理由を表しているのである。モンタギュー・オヴ・ビューリー男爵は最初に家を公開した時のことを思い起こしている。

 一般の人々が口にするのを聞いた最初の言葉を憶えている。公開した初日で、我々は階下の部屋にいたのだが、誰かが窓からのぞき込んでいるのが見えた。「あらまあ!」とその女性は言った。「ちょっと来て、見てよ。お茶を飲んでるわよ!」
(『玉に疵――カントリー・ハウスに住みながらお金を稼ぐ方法』、23ページ)

 ウォーバン・アビーを公開し、さらにサファリパークまでオープンした第十三代ベッドフォード公爵も手記や回顧録を書いており、『ステイトリー・ホーム運営術』(1971年)と題したコミカルなエッセー集ではやはり同じような経験に触れている。

ステイトリー・ホームの所有者が偉大な芸術作品を所有していても(あるいは所有していなくても)、多くの人々は、普通の家、特に自分の家に置いてある、ありふれたものにしか興味がない。彼らは興味津々という感じで私のテレビを眺め、その大きさ、メーカー、カラーか白黒かといったことのほうが、十七世紀の刺繍よりもずっと面白いのである。明朝の磁器に目は向けるかもしれないが、彼らが本当に知りたいのは私がどの種類の石けんを使い、カーテンや掃除機をどこで手に入れたかということなのだ。
(50ページ)

 「人が住んでいるからこそ価値がある」というこの考え方は、観光だけでなく、アッパー・クラスの邸宅そのものの評価に常に含まれている要素だった。たとえば、イギリスの首相を務めた、保守党のベンジャミン・ディズレーリは小説家でもあったが、彼の作品『カニングズビー』(1844年)には、こんなくだりがある。

カニングズビー邸とボーマノワール邸は、その中の様子がこれ以上ないというほど対照的なものだった。公爵邸[ボーマノワール邸]を際立たせていたのは、常に誰かがそこで暮らしているという雰囲気であり、それがカニングズビー邸には完全に欠けていた。館の中のすべてが壮大で華麗には違いなかった。しかしそれは住居というよりは見世物のようだったのである。
(第4巻第9章)

 イギリスのアッパー・クラスの地主は、所有する土地とそこに住む人々に対して責任を持ち、一年のほとんどを不在にするなどということがないのが美徳とされている。もともとは彼らの富と権威を誇示するための大邸宅ではあるものの、そこに「人が住んでいる」という雰囲気が伴わないとまがい物のように思われてしまう。もちろん、二十世紀以降のカントリー・ハウス観光には、「アッパー・クラスの生活を垣間見てみたい」というのぞき見的な要素があることは確かだが、「持ち主が暮らしているからこそ価値がある」という、アッパー・クラスに対する期待の要素も間違いなく存在するのである。

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著者略歴

  1. 新井潤美(あらい・めぐみ)

    東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士号取得(学術博士)。東京大学大学院人文社会系研究科教授。主要著訳書:『執事とメイドの裏表―イギリス文化における使用人のイメージ』(白水社)、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドルクラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』(岩波新書)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳・岩波文庫)

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