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新井潤美「ノブレス・オブリージュ——イギリスの上流階級」

第7回 アメリカン・マネー(下)

 無垢でナイーヴなのか、技巧的で媚びているのか、わからないようなアメリカの若い娘の姿は、アメリカ人の作家ヘンリー・ジェイムズ(1843 – 1916)も描いている。たとえば1878年に発表した『デイジー・ミラー』では、母親と弟と共にヨーロッパを旅している金持ちの娘デイジー・ミラーに、フレデリック・ウィンターボーンという青年が魅了される。ウィンターボーンもアメリカ人ではあるが、少年時代をスイスのジェネーヴで過ごし、後に大学もそこですごしているので、ヨーロッパにすっかり溶け込んでいる。その彼に、デイジーはアメリカ人らしいくったくのない様子で話しかける。

彼女はまるで長いこと知っていたかのようにウィンターボーンに話しかけた。それは彼にはとても快く感じられた。若い娘がこんなに話をするのを聞くのは何年かぶりだった。
(第一章)

 デイジーはさらに自分がニューヨークで「社交をたくさんしたんです」と自慢げに語り、こうつけ加える。「私はつねに紳士方に囲まれていたんです」(第一章)。この大胆な発言はウィンターボーンを困惑させるが、それでも彼はデイジーのこの「アメリカ人らしさ」に惹かれずにはおれない。

彼は自分がジュネーヴにあまりにも長く暮らしていたため、アメリカ風の話し方にもはや慣れていないのだと感じていた。こういったことが認識できる年齢になって以来、これほどにもはっきりとしたタイプのアメリカ人の娘に会ったことがなかった。たしかに彼女はチャーミングだった。そしてなんととんでもなく社交的なのだろう!
(第一章)

 付き添いなしでウィンターボーンと観光にいくことを承知する彼女を、ウィンターボーンのおばはよく思わない。アメリカ人の娘にしてもデイジーの「自由」さは度を超えているとウィンターボーンは気づき、かえってますます彼女に興味を抱く。結局デイジーは、忠告を無視して夜のコロッセオを男性ひとりの付き添いで出歩き、ローマ熱(おそらくマラリア)にかかって死んでしまうのだが、かつてデイジーの取り巻きだった「財産目当てで有名なローマの男たち」のひとりであるその人物は、デイジーのことを「私が今まで会った中で最も美しく、最も気立てのよいお嬢さんでした」と語り、「そしてもっとも無垢でした」とつけ加える。
 アメリカ人からも眉をひそめられるデイジー・ミラーはアメリカの社交界の若い娘の典型とは言えないかもしれない。しかしこの「無垢」と「媚び」の絶妙な組合わせは間違いなく「アメリカ的」であり、ヨーロッパのアッパー・クラスにおいてアメリカ人の女性が圧倒的な人気を得た理由のひとつだということが読み取れるのである。

イギリス王家とアメリカ人女性
 イギリスにおいてアメリカ人の若い女性が社交界で成功を収めた要因は少なくとも、もうひとつあった。当時の皇太子、後のエドワード七世が「アメリカびいき」だったのである。皇太子は1860年に最初にアメリカを訪れた。当時19歳だった皇太子をひと目見ようと、ニューヨーク・シティでは30万人もの人がブロードウェイの両側に並んだという。大歓迎を受けた皇太子はアメリカの女性に夢中になり、それがイギリスの社交界に大きな影響を与えたと、ゲイル・マコルとキャロル・マクディー・ウォレスは共著『イギリスの貴族と結婚すること』(2012年)で述べている(3ページ)。
 皇太子は母親のヴィクトリア女王とは大違いで、大の遊び好きで派手好きだった。競馬、狐狩り、銃猟、ギャンブルが大好きで、大衆娯楽場であるミュージック・ホールにも出入りし、また、夜遅くに女性と共に個室のあるレストランに出かけて行った。1863年に、当時18歳だったデンマークのアレクサンドラ王女と結婚し、ロンドンのモルバラ・ハウスという邸宅で暮らし始めたが、結婚後も彼の女性好きは有名で、1870年にはそれが大きなスキャンダルに発展した。議員で准男爵のサー・チャールズ・モードントが妻を離婚したときに、その不貞の相手として皇太子を挙げ、証拠品として皇太子が妻に宛てた手紙を提示した。その結果、イギリスの歴史上初めて、皇太子が公判で証人として呼ばれたのである。皇太子はそこでは「不適切な行為は行なっていない」と宣言したが、皇太子がそのような立場に立たされたことだけでも十分なスキャンダルだった。道徳的で謹厳実直なヴィクトリア女王にとって、嘆かわしい息子であり、責任ある任務を任せなかったのも無理はない。一方で、皇太子の派手な遊びは、そんな息の詰まる母親への抵抗だったとも考えられる。ロンドンのモルバラ・ハウス、そしてノーフォーク(イングランド東部)の館サンドリンガムで皇太子は「流行の先端を行く人々」(the fashionable set)を集め、華やかな生活を送った。一代で財産を築き上げた「成金」、役者、歌手など、それまでは社交界に歓迎されなかった人々を皇太子は好んだので、皇太子を招いたホステスは、そのような客も招くようになった。
 皇太子は自分を退屈させる人間は容赦なく切り捨てた。ディナーの時に退屈するとテーブルを指でたたき始める癖があったので、それを見たらホステスは面白い話題を提供するなどして、なんとか事態を改善しなければならなかったという。そして、常に皇太子の注意を惹き、楽しませてくれたのがアメリカの「海賊たち」だったのである。
 レイディ・ランドルフ・チャーチルとなったジェニーもお気に入りのひとりだった。1872年にジェニーは、皇太子夫妻のために開かれた船上のパーティで、ロード・ランドルフに紹介された。二人の結婚に反対した、ランドルフの両親、モルバラ公爵夫妻に皇太子が、自分はアメリカの社交界のことをいくらか知っているが、ジェニーの実家にはなんら恥ずべきところはないと言ってとりなしたことも、二人の結婚を可能にした要因だった。皇太子は後に、成人した息子のウィンストン・チャーチルに向かって「私がいなかったら君は生まれてなかったんだよ」と語ったという。1875年に、ロード・ランドルフの兄と、皇太子の親しい友人ロード・エイルズフォードの妻の情事をめぐって、皇太子とチャーチル夫妻が絶交状態になったこともあったが、5年後には皇太子はジェニーとは再び親しげにふるまうようになっていた(ランドルフとの和解はさらに4年かかった)。ランドルフが1895年に病死すると皇太子はサンドリガムからお悔やみの手紙を書いたが、その後二人はしょっちゅう会うようになり、翌年にはジェニーは皇太子の愛人になっていた(ただしその間、ジェニーは他にも同時進行で何人かと情事を重ねていた)。1899年に、45歳のジェニーは、息子のウィンストンと同じ年のジョージ・コーンウォリス=ウェストと婚約して社交界を驚かせた。すでに他の愛人がいた皇太子も反対したが、両方の家族の反対を押し切って二人は結婚した。それでもジェニーと皇太子の友情は変わらなかった。

二人のコンスエロ
 皇太子のお気に入りだったもうひとりの「海賊」は、ジェニーがロード・ランドルフ・チャーチルと結婚した2年後にマンチェスター公爵の跡継ぎと結婚したコンスエロ・イズナガである。コンスエロは1853年ニューヨーク生まれ、父親はキューバの旧家の出身で外交官であり、トリニダードに農園と製糖工場を所有していた。彼らはスペインの貴族とも父方で血縁があったらしいが、ニューヨークではやはりアスター夫人の仕切る社交界からは閉め出されていた。コンスエロは美しさだけでなく、自由奔放さでも群を抜いていたことも、彼女がニューヨークの社交界に受け入れられなかった一因のようだ(イーディス・ウォートンの『海賊たち』に登場するコンチータ・クロッソンはコンスエロがモデルである)。イズナガ夫人はコンスエロを含む4人の娘をまずパリに連れて行くが、帰国した後に、ニューヨーク州の温泉地、サラトガ・スプリングスでマンチェスター公爵の長男、マンデヴィル子爵と出会う。マンデヴィル子爵はコンスエロに魅了され、さらにその父親から20万ポンドの持参金を約束されて、プロポーズをする。二人はニューヨークで式を挙げてからロンドンに移るが、幸せな夫婦生活は最初のうちだけで、放蕩で悪名高かった子爵はすぐにもとのだらしない生活に戻っていった。最終的にはミュージック・ホールの芸人で愛人のベシー・ベルウッドと暮らし始めるが、それでも妻から金を借りるというていたらくだった。
 ひとりになったコンスエロはイギリスの社交界で生き残るためにまず皇太子と親しくなる。アラビアン・ナイトのシェヘラザードのように、コンスエロは皇太子の関心を惹きつけることができた。デカーシーによると、皇太子は1888年9月26日付けの手紙でコンスエロに、「まったくお世辞を抜きに言うが、あなたほど面白い手紙を書く人はいない」と書き送っている(206ページ)。しかし華やかなライフスタイルを保つだけではなく、皇太子との付き合いを続けるにもお金が必要だった。コンスエロはアメリカからやってきた若い娘たちを相手に、服装、礼儀作法などについてアドバイスし、イギリスの社交界に入れるように、皇太子が出席するディナー・パーティに招いて紹介し、その代償として手数料や贈り物を受け取るということを始めたのである。皇太子がこのような新参者を気に入れば社交界での成功は間違いなかった。さらにコンスエロは貴族やその息子たちを結婚相手として紹介するという斡旋までおこなっていた。
 一方で、ニューヨークでは変化が起こっていた。コンスエロの幼なじみのアルヴァ・ヴァンダービルトが社交界でのアスター夫人の権力を脅かしつつあったのである。アルヴァはアラバマ出身だが、フランスで教育を受け、アメリカに帰国後、「ニュー・マネー」のウィリアム・ヴァンダービルト(メトロポリタン歌劇場を作ったヴァンダービルトの息子)に紹介されて結婚する。アスター夫人から無視されてヨーロッパを渡った「海賊たち」と違って、アルヴァはアスター夫人に立ち向かったのである。それには、彼女がフランスで教育を受けたことが役だった。「アルヴァ・ヴァンダービルトはヨーロッパ文明という支えのほかは何もない状態で、ニューヨークの社交界への襲撃を始めたのである」(『イギリスの貴族と結婚すること』53ページ)。
 フランスのロワール地方のシャトーをモデルにした大邸宅をフィフス・アヴェニューに建てたヴァンダービルト夫妻は、1883年の春にハウスウォーミング(新居祝い)のパーティを企画した。それは仮装パーティで、しかも主賓は夫人の幼なじみのコンスエロ・イズナガだった。イギリスの子爵夫人かつ未来の公爵夫人に会えるとなると、「オールド・マネー」も無関心を装ってはいられなかった。1600通の招待状が発送されたが、アスター夫人宛てのものはなかった。「アスター夫人のことは存じ上げないので、ご招待できません、残念ながら」とアルヴァが言っているということが伝わり、とうとうアスター夫人も屈した。一説には、アスター夫人の娘がパーティに行きたがっていたからだと言われているが、いずれにしてもアスター夫人の「訪問カード」がヴァンダービルト家に届けられ、その直後にアスター家にパーティの招待状が届いたという。
 こうしてニューヨークの社交界に入ることに成功したアルヴァ・ヴァンダービルトは、幼なじみの名前をもらった長女コンスエロをイギリスの公爵と結婚させる計画をたて、成功した。コンスエロはその自伝『輝きと金』の中で、「母の私への愛は芸術家の創造力のようなものでした。母は私を完璧な台座に置かれた完成品に仕上げたかったのです」と語っている(21ページ)。幼い頃から優秀な家庭教師が何人も雇われ、8歳ですでに英語はもちろん、フランス語とドイツ語の読み書きができた。弟と共に週一度のダンス教室に通い、西インド諸島や地中海をヨットで航海し、フランスにも滞在した。
 コンスエロの社交界デビューはパリで行われた。「海賊たち」と違ってヴァンダービルト夫人と娘はニューヨークの社交界から逃げ出したわけではなかったが、この頃には夫人は夫との仲がうまくいっておらず、離婚を考えていた。パリでコンスエロは5人から結婚の申し込みを受けた。「私が受けたというよりは、5人の男性が申し込んだと母から告げられました」とコンスエロは自伝に書いている(29ページ)。いずれの求婚者にも満足しなかったヴァンダービルト夫人はプロポーズを全部断り、コンスエロをロンドンに連れて行く。そこでコンスエロはのちに夫となるモルバラ公爵に紹介される。その後コンスエロは、母親の離婚手続きに伴って帰国するが、ロンドンに戻って再会したモルバラ公爵から、ブレナム宮殿に招待される。

その時モルバラが私をどのように思っていたかはわかりません。ただ、公爵夫人になりたがっている洗練された娘たちとは全然違ったようです。私の話すことを面白がっていましたが、それが機知に富んでいたからなのか、ナイーヴだったからなのかは今でもわかりません。
(『輝きと金』38ページ)

 ここでも「アメリカ娘」の「ナイーヴさ」を伴う独特の魅力がイギリスの貴族を射止めたことが示唆されている。ただし、コンスエロの多額な持参金も大きな魅力だったのは言うまでもない。ブレナム宮殿(本コラムのタイトルの背景写真)ほどの邸宅と土地を維持する責任を受け継いだ公爵にとって、財産家の娘と結婚するのは「義務」だったのである。
 この頃コンスエロは旅の途中で知り合った男性と恋に落ちていたのだが、母親が許すわけがなかった。1895年の11月にニューヨークで公爵と結婚し、ブレナム宮殿が修復工事の最中だったのでしばらく地中海を旅して翌年宮殿での生活を始める。当時19歳だったコンスエロは夫に、約200の家族の家柄、家系と称号を覚えなければいけないと言い渡され、公爵夫人としての生活が始まる。ディナーの席順も客の爵位と家柄によって決まるので、貴族名鑑を暗記しなければならないのである。自分がどの地位にいるかも正確に知る必要があった。「年上の女性たちを先に通そうとダイニングルームの入り口で待っていたら、苛立った侯爵夫人から思い切りこずかれ、『自分の順番なのに先に行かないのは割り込むのと同じくらい下品です』と大きな声で注意された」と自伝に書いている(88ページ)。しかしコンスエロは公爵夫人として最も重要な任務のひとつを難なくこなすことができた。跡継ぎを生むことである。長男が無事に産まれ、もうひとり男の子が産まれると、義理の母親に「素晴らしいわ! アメリカの女性は私たちよりも簡単に男の子を産めるようね!」と言われたという(『輝きと金』106ページ)。


第九代モルバラ公爵とその家族(中央の女性がコンスエロ)。
ジョン・シンガー・サージェント画、1905年。

 ブレナム宮殿では皇太子や外交官などを招いた華やかなハウスパーティが開催され、コンスエロはホステスとしての役目もこなしていたが、結婚生活は決して幸福なものではなかった。1906年に夫婦は別居し、1920年に離婚が成立する。公爵は愛人だったアメリカ女性と再婚し、コンスエロはフランス人の飛行士と再婚するが、この二度目の結婚は幸せなものだった。
 コンスエロ・ヴァンダービルトはイギリス貴族と結婚したアメリカ人のいわば「第2世代」のひとりだが、彼女が結婚した1895年はある社会学者によると「驚異の年」(annus mirabilis)であり、それまで以上に、金に困ったイギリス貴族がアメリカの財産家の娘との結婚を果たした年だということだ。すでに紹介した、『ダウントン・アビー』のグランサム伯爵夫人のヒントとなったメアリー・ライターがレイディ・カーゾンとなったのもこの年である。

ひとつの時代の終わり
 それから十年ほどこのような「結婚ラッシュ」が続いたが、1910年にエドワード七世が死去し、ジョージ五世の時代になると状況が変わった。ジョージ五世が選んだ廷臣から、エドワード七世の廷臣だったサー・ジョン・リスター=ケイとモンタギュー・エリオットがはずされていた。

二人ともアメリカの財産家の娘と結婚していたので、その意味は明らかだった。ジョージとメアリー[妻]はアメリカ人が好きではなかったのだ。四十年もの間頂点からの寵愛を受けていたアメリカ女性たちはもはや宮廷でのお気に入りではなくなったのである。
(『イギリスの貴族と結婚すること』319ページ)

 ジョージ五世は父親とはまったく違うタイプであり、夫婦とも派手な娯楽や社交を嫌った。祖母のヴィクトリア女王夫妻のように実直で謹厳だったのである。エドワード七世の派手で社交的な性格、そして「アメリカびいき」を受け継いだのは孫のウィンザー公爵だが、彼については後の章で取り上げる。
 「アメリカン・マネー」はイギリスの社交界に新鮮さをもたらし、多くの大邸宅を救うことになったのだが、それを得られない貴族たちはどのようにして自分たちが受け継いだ屋敷と土地を維持していったのだろうか。次の章では、カントリー・ハウスを存続させるための貴族たちの苦悩と努力に目を向けていきたい。

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著者略歴

  1. 新井潤美(あらい・めぐみ)

    東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士号取得(学術博士)。東京大学大学院人文社会系研究科教授。主要著訳書:『執事とメイドの裏表―イギリス文化における使用人のイメージ』(白水社)、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドルクラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』(岩波新書)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳・岩波文庫)

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