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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第十九信 姜信子より「つながりをつなぐ、水俣への語りの旅」

山内さんへ

 もう六月です。梅雨入り前だけど、夏の匂い。外ではテッペンカケタカとホトトギスの声、ツピツピツピとシジュウカラも。SNS上には、警官が黒人男性ジョージ・フロイドを殺したことから全米に広がった抗議と、暴動と、「金」が最大価値の大統領が分断の言葉を吐く光景。そして、植松聖の手紙。今朝、こわごわ読みなおしました。
 事件後、もう建物の取り壊し工事が始まったころに、津久井やまゆり園を訪ねたことがあります。郊外というよりは、開発の波にも洗われなかった都市のはずれ、かつての農村の名残をとどめたまばらな住宅地の殺風景な舗装道路に車を停めて、植松聖があの夜に歩いた道をなぞって歩きました。そのとき、目隠しの塀で囲まれた園の敷地の向こう側の山上に観覧車が見えたんです。ハッとしました。あれは、相模湖ピクニックランド。いや、今は「相模湖リゾート プレジャーフォレスト」というんだそうですが、そこは私が小学生の頃の夢の遊園地の一つでした。開業前に新聞上で大々的に三つの園名候補への投票を募集していて、ピクニックランドは確か長嶋茂雄の案だったはず。私も投票のはがきを送った、あの夢の遊園地に、よりによってここで再会するとは……。
 開発と高度成長の昭和の「光/山の上の遊園地」と「影/山のふもとの障碍者施設」。光は影を知りません。影を知らない光の行きつく先は、原子の光のような、すべてを焼き尽くす光にもなりましょう。影の存在に耐えられぬ傲慢な光にもなりましょう。


津久井やまゆり園 2019年2月


相模湖リゾート プレジャーフォレストの観覧車

 植松聖が挙げた「金」と「時間」という最大の価値が、過去とも未来とも切断された「いま・ここ」だけの価値であり、「いま・ここ」しか知らぬ者が命の選別をし、「影」の消去を絶対正義とすることに、私は震えました。その思考には、文脈も、行間も、他者も存在しない。だから、答えなんかぱっぱっと出るでしょう、気持ちいいでしょう、恐ろしいでしょう。
 恐れる私は、たとえば、文化人類学者の猪瀬浩平さんが『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)に記していたことを思い起こします。障碍者が生業(なりわい)の場で居場所をなくしたのもまた、極めて近代的な現象なのだと。農村の近代化(機械化)以前には、障碍者もまた共に働いて生きる家族だったのだと。おそらくそこには足手まといの障碍者という意識はなかった。埼玉の見沼田んぼという、近代がはじきだした者たちが寄せてくる場で、人々が時間をかけて出会いなおし、つながりなおしてゆくときによみがえる記憶は、「いま・ここ」の目が眩むばかりの明るさ浅さ短さ酷さを照らし出す、長く深い「影」なのでした。

 そういえば、ピクニックランドが作られた相模湖は、相模川のダム建設によって生まれた湖でした。ダムは、人間でありながら「牛馬」とされた者たちによって建設されました。酷使しても、死んでもかまわない牛馬。犠牲になった牛馬の中には中国人も朝鮮人も日本人もいた。その多くは名前もわからない。牛馬であるから、人権などあるはずもない。牛馬の命を尊ばない社会が、人間も含めた生類一切の命を尊ぶはずもない。

 それから名前。命の名前が明かされないことの無惨について。やまゆり園の犠牲者に対して行われたことを、私はハンセン病療養所でも見ています。ハンセン病国賠訴訟原告団の中心人物で、私の文学の友であった詩人谺雄二(こだまゆうじ)の遺言は、ハンセン病療養所のすべての死者の本名を、生きた証として、命の名前として、沖縄の平和の礎のように碑石に刻むことでした。しかし、それは、ハンセン病差別の根強い日本社会では非現実的な願いとされている。本名を明かさないのは思いやりであり、本人とその家族への配慮なのだと。そうやって、いまなお一律に匿名へと追いやる力が働く。真綿のような善意。光の暴力。それが正義の顔をしてやってきて命を踏みにじるときが一番怖い、一番無惨。


詩人 谺雄二(1932~2014)

 さて、こないだ行ってきたばかりの水俣の話です。この話をするには、「乙女塚」とそれを建立した芸能者・砂田明の話をしなければいけません。私と私の旅の連れの祭文語り八太夫(二人合わせて「旅するカタリ」)の、コロナによる非常事態宣言下の水俣への旅は、砂田明が「乙女塚」を結び目にしてつないでいったものを、引き継ぐための旅だったからです。
 思えば、水俣は私にとって「牛馬」たちの渚でもあります。かつて、水俣の工場で「牛馬」だった者たちは、朝鮮窒素のある興南へと行けば、自分よりもさらに下の「牛馬」がいるおかげで人間に戻れたのだといいます。植民地の「牛馬」は、日本のどこに行っても、日本にとっての「牛馬」の島であった沖縄でも、やはり最下等の「牛馬」でした。(沖縄における朝鮮「牛馬」のことは、呉世宗『沖縄と朝鮮のはざまで』でより詳しく知りました)。いずれにせよ、日本の外の植民地がなくなってしまえば、水俣も沖縄も使い捨ての「牛馬」の渚、「牛馬」の島にほかなりません。
 その水俣へと、石牟礼道子の『苦海浄土』に揺さぶられ、東京から巡礼団を率いて、各地で水俣病患者への浄財を集めて旅をしたひとりの役者がいました。それが砂田明。1970年夏のことです。
 彼は旅の終わりに、水俣で、思いのたけを書き綴った詩「起ちなはれ」を朗読します。

 もし 人が 今でも 万物の霊長というのやったら
 こんな酷たらしい毒だらけの世の中 ひっくり返さなあきまへん
 なにが文明や 
 蝶や蜻蛉や蛍や 蜆や田螺や雁や燕や ドジョウやメダカやゲンゴローやイモリや
 数も知れん生きもの殺しておいて
 首は坐らん目は見えん 耳は聞こえん口聞けん 味は分からん手で持てん足で歩けん
 ――そんな そんな嬰児(ややこ)を産ませておいて
 (中略)
 貧乏がなんどす え 思い出しなはれ
 知らん人には 今どきの若い者には教えてあげなはれ
 お芋の葉ァ食べたかて 生きてきたやおへんか
 そのかわりに 青い空には眩(まぶ)いお陽さん
 (中略)
 なあ にんげんは ぎょうさんの生類といっしょに生きておったんやて
 教えてあげなはれ ――思い出さんかい

 もし あんたが 人やったら
 起ちなはれ 戦いなはれ
 (後略)

 思わずこぼれ出た声、自身の言葉で綴ったこの詩を皮切りに、役者砂田明の戦いが始まります。芸能で人々の集う場を開いては、志をつないでいく、そんな戦いです。長期戦です。まずは1972年に水俣に移り住んだ。百姓をしながら、水俣の風土と人になじみながら、個人紙を発行しながら、じっくりと戦いの足場を固めていった。そして1979年からは、水俣病の犠牲となった生類合祀の「乙女塚」を建立すべく、自作の一人芝居を引っさげて日本全国勧進行脚に出る。勧進行脚、つまり、漂泊の乞食芸人ですね。79年から83年にかけて、沖縄から北海道まで、222回の勧進興行をしました。
 乙女塚の建立は1981年。なぜ「乙女」の塚なのかと言えば、1977年に亡くなった胎児性患者の上村智子さんの魂も祀られているから。
 乙女塚は沖縄の亀甲墓の形をしています。塚の前で、沖縄のように、みなで賑やかに飲んで食べて歌い踊って生者も死者も集う宴をしようというのです。だから、乙女塚には舞台もある。 なにより、水俣病が近代の病であるかぎり、乙女塚に祀られる生類とは、近代によって使い捨ての「牛馬」とされたすべての生類となるでしょう。だから、砂田明は、身障者の声で語る一人芝居を演じ、『苦海浄土』を演じ、沖縄・広島・長崎・水俣をひとつのつながりとして語り、それをさらにビキニ環礁へとのばしていった。(いま砂田さんが生きていれば、きっと福島にもつなげたことでしょう)。そして、そのつながりの結び目が乙女塚であり、その象徴として沖縄・読谷で出会った彫刻家金城実作の「海の母子像」を乙女塚に置いた。
 読谷で初めてこの像を見た時の思いを、砂田明はこんなふうに語っています。「母子像には、私たち日本人(やまとんちゅ)が沖縄について、ミクロネシアについて、在日朝鮮人について、フィリピンのバナナ園労働者について、踏みつけて見捨て忘失してきたあのこと、このことを、少しも散逸させずにそっくり凝固させたような存在感があった」
  砂田明は1993年に亡くなりました。その戦いを受け継いで塚守をしてきたお連れ合いのエミ子さんももう93歳、海の母子像を砂田明に贈った金城実も81歳、乙女塚は年とともにひっそりと静まってゆく。
完全に静まってしまう前にいまいちど、乙女塚を生者と死者がともに集う宴の場に。生類一切への祈りの場に。つながりの中で生きる命の場に。
 そんな思いを分かち合って集まった者たちが、5月10日に乙女塚での盛大なる芸能の宴を企んだ。それが私たち「旅するカタリ」の、水俣への旅の発端でした。ところが、山内さんもご存知の通り、コロナでこの宴は吹き飛んでしまいます。感染症には人一倍用心しなければならない水俣病の患者さんたちや、高齢のエミ子さん、金城さんを慮って中止にせざるをえなかった。
 それでも、いや、だからこそ、旅するカタリは水俣に向かいました。ますます露骨に命を選別し分断してゆく「コロナの時代」のはじまりにあって、「影」の領域から立ち上がる声でそれに抗することこそが、芸能者砂田明の志を受け継ぐことなのだと。われらは踏みつけられ捨てられるばかりの「牛馬」ではなく、つながりを生きる「生類」なのだと。塚守砂田エミ子さんに、そして乙女塚に祀られている生類一切に、祈りとしての「語り」を携えて会いに行こうと。
 5月10日、まずはエミ子さんを前にして、砂田明の「起ちなはれ」を祭文語り八太夫が三味線で歌い語りました。これがまた大厳戒態勢で、水俣病センター相思社に場所を借りて、演者と聞き手が座敷の端と端、つながるためのソーシャルディスタンス20メートル。
 エミ子さんが言いました。「93年に砂田が亡くなってから初めて、それも朗読ではなく、歌い語りの「起ちなはれ」を聴きました」。27年の時を経て、芸能者から芸能者へと戦いの声がつながった。
 祭文語りはさらに、乙女塚に祀られた魂に思いをはせて、『苦海浄土』より「草の親」を語りました。それは、6才で水俣病を病んで物言わぬ植物となった娘ゆりを想う母の語りです。
 「ゆりが草木ならば、うちは草の親じゃ、ゆりがとかげの子ならばとかげの親、鳥の子ならば鳥の親、めめずの子ならばめめずの親――(中略) やめようやめよう。なんの親でもよかたいなあ。鳥じゃろうと草じゃろと」
 そして、このあと、旅するカタリは乙女塚へと向かったのでした。
 相思社では、昭和31年に8歳で亡くなった水俣病第一号患者、溝口とよ子ちゃんのお姉さん、恭子さんにも会いました。83才の恭子さんがまるで昨日のことのように妹のことを語りました。最近植えた「とよ子桜」の話もしました。その語りの場から、また新たな戦いの企てが生まれたのですが、今日はここまでにしておきます。続きは次便で。


乙女塚入口に立つ碑


亀甲墓の形をした乙女塚


金城実作 海の母子像


水俣病センター 相思社 水俣病犠牲者が祀られている仏壇


水俣病センター 相思社にて


水俣病センター 相思社にて

 最後に小さな暮らしレポート(笑)。今回、相思社の庭になっていた枇杷の実をもいできて、水俣枇杷酵母をおこしてみたんです。雨上がりにもいだせいか、天然酵母も雨で洗われてちょっと弱かった。少しだけドライイースト混じりの枇杷風味天然酵母パンができました。


水俣の枇杷から酵母をおこす

「起ちなはれ」(詩:砂田明  語り:祭文語り八太夫)

「草の親」(原作:石牟礼道子  語り:祭文語り八太夫)

6月2日、
ジョージ・フロイドを想うブラック・アウト・チューズデイの日に。

姜信子

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著者略歴

  1. 姜信子(きょう・のぶこ)

    1961年、横浜市生まれ。著書に『棄郷ノート』(作品社)、『ノレ・ノスタルギーヤ』『ナミイ 八重山のおばあの歌物語』『イリオモテ』(岩波書店)、『はじまれ』(サウダージブックス)、『生きとし生ける空白の物語』(港の人)、『声 千年先に届くほどに』『現代説経集』(ぷねうま舎)、『平成山椒大夫 あんじゅあんじゅさまよい安寿』(せりか書房)など多数。訳書に、ピョン・へヨン『モンスーン』、李清俊『あなたたちの天国』、カニー・カン『遥かなる静けき朝の国』、編著に『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房)など。17年『声 千年先に届くほどに』で鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。路傍の声に耳傾けて読む書く歌う旅をする日々。

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