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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第十四信 山内明美より「行き詰まりの中で」

姜さん

 とても不思議な気持ちでした。自分の故郷(三陸)のメロディーを水俣で演奏しているなんて。水俣へ向かった9月のはじめは、何日も雨続きで、私たちが笛や太鼓で“しゅうりりえんえん しゅうりりえんえん よか水じゃ”と躍っているあいだに、夕陽が輝きだして、不知火海にゆっくりゆっくり沈んで行きました。それまでずっと雨だったのに。輝きだした橙の太陽は、やがて紫になってゆっくりゆっくり夜を運んできました。なにしろドラマティックな不知火の空にむかい入れられたのです。〈東北〉を拠点として、東京から西へ行くことが滅多にない私にとっては、5年ぶりの水俣でした。


不知火海の空

 前回水俣を訪ねた時は、坪段や茂堂といった海沿いを編集者の野中さん、相思社の遠藤さんと一緒に歩いたのでしたが、山あいの久木野を訪ねたのははじめてでした。熊本空港から水俣市内へ入り、山を奥へ奥へ進んで、「あ、なんだか既視感あるな。あ、なんかこの山奥具合は私の実家みたいだな」と思いながら進んでいきました。山道を抜けて、石積み棚田の広りをみたときには思わず声をあげて、一目散にカメラを持って農道を下りたのでした。土地を切り開く途上で、こんなに大きな石がゴロゴロ出てきて、その石をひとつひとつ積み上げてつくられた風景なのでした。機械のない時代にこの風景をつくるには、どれほどの人力を必要としたのでしょう。
 確かに、人間は自然をつくり変え、ここまで生きてきました。


水俣市久木野の石積み田んぼ

 姜さん。敗戦し、植民地を失った日本が一番最初に着手した国土開発のひとつが、冬には10メートルもの雪に埋もれる福島県奥只見川の水力発電でした。帝国時代の広大な領土を失った後、日本は、国内資源の徹底利用に踏み出したのです。それは、水俣におけるチッソが、朝鮮半島(とりわけ北朝鮮地域)での電力事業を失い、その損失を取り戻すべく拠点を移した構図とよく似ています。結局のところ、戦争それ自体は終わっていなかったのです、激烈な経済戦争へ形を変えて、私たちはその顛末を現在進行形で見ています。
 只見川は、阿賀野川水系最大の支流です。阿賀野川といえば、映像記録に描かれた「阿賀に生きる」ひとびとが、水俣とおなじ軌道(昭和電工の有機水銀の垂れ流しによる新潟水俣病)を見せたように、戦後福島における発電事業は、大自然を有する奥会津からはじまったのです。原発以前の時点で既に、東京や京浜工業地帯へ電気エネルギーを送る素地が奥只見で出来上がっていました。戦後日本で展開したTVA思想(アメリカにおけるニューディール政策の一環)です。このことの意味を、いま、少しずつ問い直そうとしているエチカ福島の仲間がいます。そういえば、私が水俣へ出発する直前に、エチカ福島の仲間たちが、ガイア水俣の高倉兄妹を招いてシンポジウムを開催したのでした。その兄妹のお母さんと、水俣でお神楽をやろうとは思ってもみませんでした。今回の水俣行きで、面白い繋がりが生まれました。


福島県奥会津 田子倉発電所

 自然を改変することなしに生きられない私たち人間が、どこをどうやって、ここまで破壊的な時代へ突き進んでしまったのか、について福島でも対話が続いています。
 つい3,4日前には、世界150か国の1万1千人の科学者たちが、「もし人類がいまのように使いたいだけエネルギーを使い、これまでの暮らしを変えようとしなければ、計り知れない苦しみを生じさせる」と異例の声明を出しました。インド洋に浮かぶ、2千もの島々でくらしているモルディブの人々は、海抜2メートルの国土を捨て、国外の土地を買いはじめています。アラスカでも凍土が溶け、村ごと避難がはじまりました。その苦しみを最初に引き受けるのは、緒方正人さんがそうであったように、海辺や森に暮らす〈生業世界〉のひとびとなのだと思います。
 わたしたちの近代社会は、もう負けたんだと思います。
 そのことを、緒方さんは、親父さんが有機水銀で狂い死にする姿を見ながら、6歳で悟ったのだと、今回もお話を伺いながら私は感じていました。緒方さんは、ずっと、ずーっとこのことを考え続けて、考え続けて、誰かに問われて、自分で答えを絞りださねければならない立場で居続けました。「俺もね、試行錯誤なのよ。」そんな風に言っていましたよね。私はまた来年も、女島の緒方さんのところへ聞き書きに行こうと思います。

 前回の手紙を受け取って一読した時、私は「いや、姜さん、私たちはもうどこにも“逃げられない”。」と心の中でつぶやいていました。もはや、この地球のどこにも安全・安心な場所などありはしないし、人間が生み出したリスクの嵐にまみれて、滅びる運命なのだと、私自身は今も思っています。結局、ためつすがめつリスクをやりくりして、200年ばかりの近代栄華のツケを払いながら、これから人類は、絶滅危惧種として細々と生きて、そして滅びていく。
 いきなり「野生」とか「ケモノ」を言い出す姜さんの、このところのアクチャルな方向性が、反動に見えなくはないけれども、とりあえず「ケモノになる」ということについて、受け止めます。そのことが、これからの姜さんの作品にどうでてくるのかも、とても楽しみです。

 瀬尾夏美さんと出会ったこと、とても嬉しく拝読しました。
 じつは彼女たちとはしばしば交流しています。近く、私の研究室で鍋をやることになっています。12月19日ですけれども、奈良から青葉山へ遊びに来ませんか、鍋をしに。つい2日前にも、瀬尾夏美さんと小森はるかさんのふたりにお会いしました。ふたりはユニットでも作品を作っています。仙台市の荒浜でワークショップをしました。作品「二重のまち」は、津波被害のあとに高く盛土をした陸前高田のその元の暮らしと、復興以後の高台の暮らしの双方を立体的に記憶、記述し、つぎの世代に〈継承〉するという壮大な試みなのですが、若い女の子ふたりで飄々とやっています。でも、見かけと違ってずいぶん信念が強いんですよ。柔らかいのに信念があって、ちょっとびっくりする女の子たちです。
 小森はるかさんの映像作品「息の跡」もすごくおススメです。陸前高田で“津波に流されたたね屋”のおやじさんの話ですが、このおやじさん、ものすごく不思議なひとで、津波の出来事を英語と中国語で書いて、出版したんです。あの津波の出来事を、「日本語で語るには辛すぎる」って。だけど、「英語で書いても悲しみは消えなかった」って。ネタバレになるので、このあたりにしておきますが、とにかくおススメ。このおじさん、口癖みたいに「心に希望のタネを」って言います。たぶん、今日も言っていると思います。

 来年5月、南三陸−陸前高田へお越しになるとのこと、お会いできるのを楽しみに、いろいろ探検しましょう。

11月13日
そろそろ寒くなった青葉山より
山内明美

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著者略歴

  1. 山内明美(やまうち・あけみ)

    1976年、宮城県南三陸町生まれ。宮城教育大学教育学部准教授。専攻は歴史社会学、農村社会学。日本の東北地方と旧植民地地域の双方をフィールドに、稲作とナショナリズムをテーマとする文化的政治にまつわる研究をしている。東日本大震災以後は、郷里の南三陸での農村調査も行っている。著書『こども東北学』(イースト・プレス)、共著『「辺境」からはじまる――東京/東北論』(明石書店)、共著『グローバル化の中の政治 岩波講座 現代4』(岩波書店)、共著『ひとびとの精神史 第3巻』(岩波書店)など。

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