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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第十二信 山内明美より「《DMZ》を考える」

姜さん

 青葉山は、ヤマセの冷たい霧雨に包まれています。三陸沿岸部の夏って、ストーブを必要とするくらい寒い日があります。これで稲が寒さにやられるんです。こんな時は、もうオロオロ歩くしかないですね。まぁでも、コメは作りやすいので、田んぼをやるのはおススメします。奈良(姜さんは、もう行っちゃったんですね。)ならきっと美味しいお米ができますよ。吉里吉里人になるには、食糧確保が必須です。とはいえ、無理に土着なんかしなくていいのだと思います。とりあえずの羽休めということでしょう。
 ここ数か月、近代に杭打つ手立てとしてのDMZ(非武装地帯)のことが時々思い浮かんでいました。昨年4月に金正恩氏と文在寅氏がこの境界線上でお茶を飲みながら会談した、あの場所です。北朝鮮も韓国も踏み込まず、GPSも感知できないようになっているこの「世界の空白地」は、動植物の楽園なのだと聞きました。そんな飛び地が、確かに、この世界にはあるんですね。 
 南極もそうらしいです。南極って、普通の人でもいけるのでしょうか。そこで唄うたって踊るっていう自分たちなりのパフォーマンスを考えてみたんですが、えらい寒さで命の危険がありますね……笑。まぁでも、自分の《DMZ》っていくらでも発見できるのかもしれません。その昔、井上ひさしさんが、嘘か本当かわからないけれども、仲間が3人いれば独立国がつくれるっていう話をしていました。三陸には『吉里吉里人』というハイパーリアルな独立国家構想があります。それから山伏っていうのは結界をつくりますよね。そういう、「DMZ」をつくりだす技術ってあるのだと思います。そういう場所をちょっとずつ作っていければいいですね。姜さんは姜さんの、私は私の場所で。

 姜さんが哀しみに暮れていたのと同じころ、私のところにも人伝てに訃報が飛び込んできました。しばらくして7月20日の朝日新聞に、岩手県生まれの在日2世の鄭香均さんの記事が掲載されました。鄭さんとは二言三言の言葉を交わしただけでしたが、震災後の2012年に川崎市でお目にかかったことがあります。
 あの日は、朴鐘碩さんの日立製作所定年退職のお祝いの日でした。
 朴さんのまわりをたくさんの仲間が囲んでいました。その末席にいた私は、ただの傍観者に過ぎなかったけれども、同じ場所に入られたことを有り難く思っていました。
 修士課程の頃から時折、神奈川県川崎市を訪ね、崔勝久さんと朴鐘碩さんからお話しを伺う機会がありました。いまでもほんの時折、伺うことがあります。横浜で育った姜さんなら川崎という地域性をご存知かと思います。川崎は、京浜工業地帯のオールドカマー、ニューカマー入り乱れる労働者の町です。在日部落や東北、沖縄部落のみならず、東南アジアや南米からの出稼ぎ労働者もたくさん暮らしていることから、川崎市は「多文化共生」の先進地として知られています。
 その川崎市で暮らしながら、行政政策としての「多文化共生」に異議を唱えていたのが、崔さんや朴さんたちでした。はじめは「どういうことだろう?」と思っていましたが、彼らはかなり早い段階で、多文化共生政策に沈み込んでいるナショナリズム(それは日本のナショナリズムでもあるし、在日外国人の持っているマイノリティ・ナショナリズムでもあるのですが)に対する危機意識をお持ちのようでした。(私は表向きコメの研究者なのですが、本当のことをいうとナショナリズムの研究をしています。)
 崔さんや朴さんの問題意識は、初の外国籍保健師となった鄭香均さんがその後向き合った「国籍条項(当然の法理)」の問題意識と重なりますので、すこし書きますね。
 1970年(私はまだ生まれていません。)に、当時高校を卒業したばかりの新井鐘司さん(朴鐘碩さんの通名)は、日立製作所戸塚支店の採用試験を受け「内定」をもらいましたが、会社から戸籍を提出するように要求され、戸籍を持たない新井さんは戸籍を提出できず、「嘘をついた」という理由で内定を取り消されました。裁判闘争の過程は過酷なものでした、朴さんを支援する日本人がいる一方、排外的立場の日本人からは批判や嫌がらせがあります、それだけではなく同胞であるはずの在日社会からの手厳しい批判もありました。それは、通名で日本企業(植民地支配の経歴を持つ企業)の採用試験を受けたこと、裁判闘争に当たり、通名ではなく本名である朴チョンソクという名前を使うようになったこと、この一連の裁判の経過には「在日」をめぐるすべての問題が発露されていたのではないかと思います。
 やがて朴さんはこの就職差別裁判で勝訴し、晴れて日立へ就職することができたのですが、2012年の退職に至るまでの朴さんの「裁判以後」はとても過酷な日々だったと推察します。何しろ、入社前に当の企業を裁判で訴えたわけですから。それでも、朴さんが最後の最後まで日立を辞めずに勤め上げたのは、支援してくれた仲間への気持ちがあったからではないかと思うのです。退職の日、朴さんは仲間への心からの感謝の気持ちと、辛かったという言葉を吐露してもいました。
 この列島のマジョリティである日本人は、在日外国人に選挙権がないことも知りません。ましてや、鄭香均さんが向き合ったように公務員では課長クラス以上に出世できないこと、警察官や消防士になることが許されないことも知りません。
 朴鐘碩さんがそうであったように、鄭香均さんもったった一人で、法律未然の当然の法理、が、しかし強烈に人々を支配している空気へ石を投げ、大きな波紋を広げたのでした。それはたしかに、生きる表現であったと思います。またここに北極星が現れました。

 あの朝鮮半島の38度線、二人のアメリカ人が地図を見ながらたった30分で引いたんですよっていうと、私の学生たちは不思議な顔をします。いったいそこで何が起きていたのかを話せば、食い入るように聞いてくれます。ただ知らない、学んでいない、教えていないのです。

 そういえば、私にとっての姜さんはずっと「棄郷」のひとでした。姜さんでさえ「ごく普通の在日韓国人」(自己認識としての)だったことを、知りました。ということは、私の「ごく普通の日本人」認識は相当な雁字搦めだと思われます。
 思い込みの世の中から、そろそろ這い出て広い世界のことを語り合いたいと思います。

2019年7月4日 肌寒い青葉山より
山内明美


群山港 米豆場 1930年代の様子
群山港が開港したのは1905年。1910年以後の日本人による植民都市開発によって、群山から長崎・下関へのコメ移出が開始された。当時朝鮮半島で生産されていた32.9パーセントのコメが群山から日本へ運び出されたとも言われている。
(群山市博物館より許可を得て山内撮影)


木浦市の旧日本領事館前
国道1、2号線は植民地の重要拠点として木浦を起点に開通された。


木浦市内の旧日本領事館(撮影:山内)


木浦市の旧日本人町の現在(撮影:山内)

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著者略歴

  1. 山内明美(やまうち・あけみ)

    1976年、宮城県南三陸町生まれ。宮城教育大学教育学部准教授。専攻は歴史社会学、農村社会学。日本の東北地方と旧植民地地域の双方をフィールドに、稲作とナショナリズムをテーマとする文化的政治にまつわる研究をしている。東日本大震災以後は、郷里の南三陸での農村調査も行っている。著書『こども東北学』(イースト・プレス)、共著『「辺境」からはじまる――東京/東北論』(明石書店)、共著『グローバル化の中の政治 岩波講座 現代4』(岩波書店)、共著『ひとびとの精神史 第3巻』(岩波書店)など。

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