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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第十一信 姜信子より「杭の打ち合いからの逃走」

山内さん

 外はひどい雨です。今日は奈良にいます。盆地の奈良は蒸し暑い。昨日は大阪でした。明日は東京です。やや旅疲れしております。めずらしく発熱しました。こんなとき、いつも、そろそろ土着したいな、と思うのですが、できるかなぁ、私に。山内さんの言うとおり、プランターから土との触れ合いをはじめるかなぁ。いや、でも、自分でも笑っちゃうんですけどね、ここのところ「土」のことを想うあまり、「畑付き古民家田舎暮らし物件」みたいのを盛んにググっては、アナーキーな直耕(安藤昌益)の人生を思い描いているんですよ。だいたいが性格がせっかちで歯止めのない性質で、あ、やらかした、ということもままあるのだけど、「土」については結構真剣かも。(ほんとに笑わないでね)。でも、もう手遅れかな……。
 風土に根差した共同性を破壊され、根を断たれ、拠り所のないバラバラの個としての労働者もしくは消費者として、(あるいは兵士という名の捨て駒として)、この近代資本主義社会の仕組みの中に配置されて、精神的よりどころといえば、民族だの国家だのナショナリズムだのアイデンティティだの、呪いでしかないような「杭」をたくさん打ち込まれて、それにすがって、のみこまれて、せめぎ合ったり、闘ったりして生きていくしかないような、そんな世界からは、もうできるかぎり遠ざかりたい、と、これまた真剣に思っているんです。
 そこに到る前に、ひとつの気づきがありました。
 この件、少々込み入った話だけど、さかのぼって説明します。
(ごめん! 今回もきっと長い手紙になる)

 私の物書きとしての出発点は1986年、朝日ジャーナル賞を受けた「ごく普通の在日韓国人」という作品でした。執筆当時24歳だった私は、自分がごく普通であるかどうかは別として、在日「韓国人」であることには一片の疑問も抱いていなかった。今思えば、どれだけ社会的な刷り込みに素直で、どれだけ近代の呪縛に忠実で、鈍感で、大馬鹿野郎であったことか……。

 問題は、私はいったいいつから在日「韓国人」であったのか、わが一族はいついかにして「韓国人」になったのか、ということなのです。

 かつて、植民地朝鮮の民もまた大日本帝国の臣民であったわけで、戦前に日本へと渡ってきた私の祖父母も、両親も、もちろん皇国臣民でありました。
 ご存知のとおり、1945年8月15日、朝鮮半島は日本の敗戦をもって植民地支配から解放されます。でも、朝鮮にはまだ国家は存在していない。「解放空間」という名の混沌があるばかりです。大日本帝国が満州と朝鮮に置いていた二つの軍隊、関東軍と朝鮮軍の管轄地域の境界線だった北緯38度線を国境線にして、1948年夏に大韓民国(南)と朝鮮民主主義人民共和国(北)とが相次いで建国されるまで、そこは、米ソの思惑と、その思惑に便乗して南北分断も厭わない野心家たち(たとえば韓国初代大統領李承晩とか北朝鮮初代主席金日成とか)と、その野心に抗する者たちの、権力と支配と自由をめぐる抗争の場でした。

 いや、しかし、韓国も北朝鮮も、それはもう呆気にとられるほど見事なものですよ、植民地支配に抗していたはずの者たちが、植民地の統治機構や支配の手法を巧みにリサイクル活用して、新たな植民地の総督になっていくそのさまは。この人たちは「杭」を抜かない。別の次元には向かわない。「杭」を使いまわすことで勝者になる。それがなにより手っ取り早い。やはり、「互性」より、「進出」。

 一方、日本国内では「在日朝鮮人」の処遇が問題になっていました。ここでいう「在日朝鮮人」とは、植民地の戸籍である「朝鮮戸籍」に登録されているけれど、生活の拠点は日本内地だった者たちです。
 とりあえず、米軍政下にある日本が講和条約を結んで国家主権を回復するまでは、朝鮮人も日本国籍のままにしておきましょう、でも同時に、日本社会の異分子/外国人として管理もしましょう、というダブルスタンダードの下に置かれた末に、ついに、1952年サンフランシスコ講和条約発効前夜に、すべての在日朝鮮人は日本国籍を失うことになります。
 ここで重要なのは、[日本国籍を失う]=[自動的に他のどこかの国の国民になる]のではないということ。それゆえ、在日朝鮮人は一夜にして「無国籍者」になったということ。外国人登録証には、国籍ではなく、出身地という意味での「朝鮮」という文字が書きこまれました。
 このとき、1952年に、私の祖父母も両親も無国籍になりました。朝鮮半島の北か南か、いやでもどちらかの国家を選択して国民登録をしなければ、いつまでも無国籍のままです。
 「国民」であるということに安住して、(別の言葉で言えば、しっかりと「杭」を打ち込まれて)、思考停止、想像力を封鎖している人々には、このような話の意味するところは、なかなか理解しがたいことでしょう。
 つまりね、どこかの国家の国民でないと、基本的人権どころか、人間扱いすらされないようなこの近代世界において、(どこかの国民であっても、煮るも焼くも生かすも殺すも権力者の思いのままという生き地獄も珍しいことではないし、国家とはそもそもが巨大な暴力装置でもあるわけですが)、法的保護も社会的保障も一切ない丸はだかの状態で自力で生きてみろ、といきなり投げ棄てられた。戦後日本で、植民地支配からの解放という名の下に、そのような理不尽を強いられたのが在日朝鮮人という存在なのだということです。
 しかも、そのとき、戦前に在日朝鮮人男性と結婚して「内地戸籍」から「朝鮮戸籍」に移されていた日本人女性もまた、「無国籍」になっている。これ、とても重要なことです。一見、血による選別/差別があるようで、究極的には血の問題ではない。人間の命が、選別する側の都合で、それなりの理由をとってつけて、恣意的に、経済的効率的に処理されている。(ここにはジェンダーの問題が確実にありますね、マッチョな男どもの極小想像力がもたらす問題と言ってもいいかもしれませんね)
 こうして、一夜にして七十万人近い難民が日本国に出現した。と、言ってもよい事態だったのだ、と私は思っています。そして、そのような難民状態がいやならば、南北分断を受け入れよ、南側/大韓民国の国民になれ、という強烈な政治的経済的圧力がこの難民たちにはかけられた。
 これも、まあ、ざっくりと言えば、米国の傘の下で、「反共」を合言葉に、その「軍事的資本主義」の恩恵にわらわらと連なっていった日韓の金と権力の亡者たちによる「ナショナリズム」のひとつの現われ、ということになりましょうか。
 韓国という国家のはじまりには、「反共」を叫んで、憎しみを煽り立てて、国家の手で済州島の赤くも何ともない無辜の民を大量虐殺した血なまぐさい光景がある。
 思えば、日本という近代国家のスローガン「富国強兵」もまた、教育で刷り込まれたその輝かしいイメージを振り払えば、この言葉のうちに、戦争で使い捨てられたどれだけの人間の命が累々と折り重なっていることか、どれほどの死臭を放っていることか。

 やつらがわれらに打ちこむ「杭」は、そのままわれらの「墓標」となってゆく。

 さてさて、ようやく最初の問いに戻ります。
 1969年まで、私の祖父母も、両親も、私も、無国籍の朝鮮人でありました。この年、私は八歳で在日「韓国」人となりました。そのまま自分が在日「韓国」人であることを疑うことなく大人になりました。
 韓国という国家が誕生するよりも前に、祖父母や両親は既に生まれていたというのに、近代日本の創られた伝統を言い立てる私であったのに、いい年になるまで、まるで大昔から韓国という国があったかのような、近代国家にまつわるよくある共同幻想にたやすくのまれていた自分自身に、私は驚愕しました。
 そして、あらためて、心底こう思った。
 私はあらゆる国家/権力に抗する存在でありたい。
 規律と規格と生産性。経済的効率を基準としてたやすく命の選別までをもやってのける、最も野蛮で最も貧しいこの「近代」の外の存在でありたい、と私は切実に思います。

 山内さん、きっぱりと言い切りましょう。この「近代」は間違っています。

 私はこの「近代」から全速力で逃走します。こんな醜い化け物とは闘いません。同じフィールドで、「杭」を打ち合って闘ったところで、相手の思うつぼ、結局はのまれるばかりで勝ち目なんかありません。
 私は逃げます、「国家」や「民族」の名で囲い込まれたまやかしの共同性とは別の、新たな共同性、命と命のつながりのよみがえりを目指して、一目散に逃げます。
 で、逃げるには「土」が必要なのだ、ということに、今さらながら、ようやく気づいたというわけです。(もちろん、水も必要)。土を奪われ、水を奪われ、都合よくばらばらにされてきたのが、われら近代の民なのですからね。(安藤昌益、ばんざい!)

 まだ雨が降っています。しかし、今夜は、ほんとうに悲しくて、寂しい。
 実はね、今日、大切な友人が亡くなったんです。その訃報を、在日ヘイトに対して敢然と声をあげて闘いを挑んだために身の危険にさらされて、なかば亡命のような形でドイツに渡った友人からの連絡で知りました。亡くなった友人もまた、日本社会を相手に、人間としての正当な扱いを求めて、たったひとりで声をあげて、十年にわたる裁判闘争を闘った人でした。最高裁で逆転敗訴となったものの、長い闘いの歳月を振り返り、こんなふうに語った人でした。
 「もし、小さいときの自分に会えたら、両親が言っていたことは間違いではなかった、と言ってやりたい。社会の目のほうが間違っていた。もっと堂々としてよかった」。(※1)
 私の姉世代にあたる彼女たちの、あまりにまっすぐな闘い。それを引き継ぐ私の闘い。ばらばらにされた私たちが、つながって生きてゆくための、これからの闘い。雨降る奈良の夜に、声を殺して泣きながら、そんなことを私はひとりじっと考えています。


 最後に少しだけ、昨日の大阪の話をします。
 大阪では、「かもめ組」なる語りのユニットで時折一緒に活動している在日のパンソリ唱者・安聖民(アン・ソンミン)のパンソリ「興甫歌(フンボガ)」完唱公演があったんです。
 「興甫歌」というのは、韓国人なら誰もが知っている民話「フンブとノルブ」、正直者の弟ノルブと意地悪な兄ノルブの物語のパンソリ版、日本で言うと、「こぶとり爺さん」とか「おむすびころりん」みたいな話です。
 そして、パンソリとは、山内さんも知ってのとおり、パン판(場)+ソリ소리(声、音)。歌い語る唱者(ソリクン)の「声」と鼓手(コス)の太鼓の「音」で物語の「場」を立ち上げる、朝鮮半島の伝統的な語り芸ですね。
 日本の語り芸、たとえば古いところでは説経とか祭文とか浄瑠璃とか、新しいところでは浪曲のような芸能のおおもとには宗教が深く関わっているように、パンソリもまた巫俗がその源流にあると言われています。
 そもそも語り/声とは、古来、この世とあの世の境目に響きわたるものでした。異界を呼び出すものでした。
 どこからかやってきた異人(まれびと)のようなソリクンが市の片隅に、あるいは村はずれの辻に立って、声を放つでしょう、太鼓が打ち鳴らされるでしょう、最初に祈りがあって、カミが降りてきて、そして、「人はみな五臓六腑を持つというが、ノルボだけは五臓七腑でありました。なぜかというと、左のあばらの下に将棋の駒のようにぷっくりと膨れた“意地悪腑”が余分に一つ付いていて……」と語りだせば、ソリクンを真ん中に、その声が届くところまで、ぐるりと丸い「場」がおのずと生まれて、太鼓が空気をピリピリ震わせて、歌い語る声に、聴く者たちの声も応じて、行きかう声がその「場」に集った者たちだけの「興甫歌」の物語を紡ぎ出す、さんざん兄ノルボのいじめに耐えて、それでも兄に尽くすばかりのフンボが、つばめを助けたお礼のパガジ(ひょうたん)を、シリコンシリコンシリコンシリコン、のこぎりで挽いて割ったなら、ざっくざっくと金銀財宝、あふれんばかりの米に絹! シリコンシリコン歌うソリクンの声は、ここではないどこかへと聞き手を引きこんでゆく、トンタクトンタッ、太鼓の音は、澱んで死んだような日常に穴をあけて、新たな風を通して、流れる水をめぐらせて、よみがえらせる、ほら、世界は生まれ変わる!
 というようなものとしての語りの「場」、芸能の「場」を、韓国では「乱場 ナンジャン」と言う。

 乱場。
 私がこの言葉を知ったのは1990年代半ばのこと。その頃の私は、「民族」や「国家」に深く捕らわれて、その見事な裏返しで、日本や朝鮮からひたすら遠く離れる旅に出るようになります。2000年代には、日本や韓国の双子のようなナショナリズムとは異質の何かを求めて、旧ソ連のコリアンディアスポラを中央アジアの荒野に訪ね歩いていました。
 まだ「声」や「語り」を身をもって知ることのなかったその頃の私は、「乱場」をこの世に呼び出すすべもわからず、ただ観念的に、ナンジャン、ナンジャンと呟いていた。
 あれからずっと旅をして、これまで話してきたような、石垣島の三線おばあ、唄者たちとの出会いがあって、はじめて土俗のカミとカミの息づく風土を知り、歌う者語る者が主となる「声/歌」の場を、頭ではなく、体で知るようにもなったのでした。
 芸能とは、そもそも、揺るがす音であり、震わす声であり、乱す場なのである。乱れて生まれ変わる場にはカミが宿り、場の数だけカミがいて、それぞれの場にそれぞれの共同性が生まれいずるとすれば、それこそ一元的な権力や、人間をばらばらにする仕組みへの何よりも根源的な抗いとなるではないか……、だんだんとそういうことにも気づいていきました。

 (そうさ、芸能はアナーキーなのだ、声はアナーキーなのだ、誰に指示されるのでもなく、みずからが主となって語って歌って踊って震えて響かせて揺るがす肉体はアナーキーなのだ、ええじゃないか、芸能! ええじゃないか、ナンジャン! まだ雨はざあざあ降っている、なんだか元気になってきた) 

 大きな転機は、やはり、東日本大震災です。原発事故です。日本の近代の終わるに終われぬ泥沼のような惨状です。そこに乱場を開こうとしたのが、パンソリの安聖民、浪曲の玉川奈々福とともに立ち上げた語りのユニット「かもめ組」でありました。
 2012年秋、新潟の海辺の野外劇場かもめシアターが初舞台だったから「かもめ組」。小さな試みです。私の「声」のアナキズムの最初の一歩は、ここから始まりました。
 それから先の二歩、三歩の話は、また今度。

 さあ、山内さん、行くよ、逃げるよ、語って歌って踊って生きぬくよ!
 打ち間違えた杭は、さっさと抜いちまえばいい、われらはバカ者だから当然たくさん間違えるでしょう、でも永遠に抜けない「杭」を打ち込まなければなんとかなる、細かなことは走りながら考えよう! 
 われらが集う2019年夏の水俣では、この日のための「みなまた神楽」に南三陸の神楽の笛での参戦、よろしく。
 やっぱり芸能だよ、ナンジャン! 

2019年6月30日
そろそろ雨もあがる明け方に
姜信子

※1 https://youtu.be/Ev_2GywImzM  
鄭香均(チョン・ヒャンギュン)インタビュー映像


1969年 韓国の国民になった結果、
日韓政府の協定にもとづく「協定永住」を許可される。


旧ソ連 ウズベキスタンのコリアンの農村で出会った人びと
 背景は日干し中の唐辛子。テーブルにはウォッカ。
彼らは1937年にスターリンによってロシア極東から中央アジアに追放された
朝鮮人第一、二世代。


2012年10月7日 かもめ組誕生の公演のチラシ

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著者略歴

  1. 姜信子(きょう・のぶこ)

    1961年、横浜市生まれ。著書に『棄郷ノート』(作品社)、『ノレ・ノスタルギーヤ』『ナミイ 八重山のおばあの歌物語』『イリオモテ』(岩波書店)、『はじまれ』(サウダージブックス)、『生きとし生ける空白の物語』(港の人)、『声 千年先に届くほどに』『現代説経集』(ぷねうま舎)、『平成山椒大夫 あんじゅあんじゅさまよい安寿』(せりか書房)など多数。訳書に、ピョン・へヨン『モンスーン』、李清俊『あなたたちの天国』、カニー・カン『遥かなる静けき朝の国』、編著に『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房)など。17年『声 千年先に届くほどに』で鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。路傍の声に耳傾けて読む書く歌う旅をする日々。

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