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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第十信 山内明美より「抑圧が埋め込まれ続ける土地で」

姜さん

 「男女」と書いて「ひと」と読ませたこと、「支配者」と「衆民」の関係性が転定(てんち)をつくっていることを安藤昌益は「互性」と呼びました。そのような意味では、「日本語をもって日本語を破る」金時鐘さんの詩も、昌益に言わせれば「互性」ということになるのではないかと、私は思います。
 この互性の転定は、けっして容易くはない、厳しい世界です。支配者は支配者だけでは存在できず、それを支える圧倒的多数の衆民の存在が必要で、しかし支配者が不耕貪食であるこの世に、昌益は憤っています。否、支配者が不耕貪食であるからこそ、互性としての衆民の存在が必要となる。そして、いつか自分が生まれ変わってこの世に再来する時には、「直耕の世にしてみせる」と書き残しています。そのことが、昌益をアナキストと言わしめる所以なのだと思います。
 姜さんが出会った三線のおばあのような“影の旅人”もまた、この世界に互性をつくりだすひとなのかもしれません。もっともそれだけでは、直耕の世にはなっていかないのですが……。
 姜さんが、その細腕で直耕をされるというのは、良きことと思います。とりあえず、プランターとかをおススメします。まーしかし、頻繁に旅する人には、土地を耕すことは難しいんですよ。土着とは言ったもので、姜さんに向くかっていうと……。(せっかくやろうとしているのに毒付いて申し訳ないです。)でも、ひょっとして本格的に土着するんですか?
 私は時々、ちょっと落ち込んだ時なんかに、何でもいいから種を植えるってことをやります。そうすると、だいたいの種は1、2週間くらいで芽がでてくるでしょう。その頃には、自分が何に思い悩んでいたのかを忘れているんですが、種が芽生えて、うまくいけば花が咲いて、結実してくれたりすると、小躍りします。子どもの頃、やたらといろいろ植えましたが、芽がでる喜びって、自分にとってはえらく大事な経験だったと思っています。それでよく、学生には「しんどい時は種でも蒔いてね」って言っています。
 今夏は、ベランダでトマトとピーマンを育てています。食べるためですけれども。

 姜さんと私は、何度か大学などのシンポジウムの同じ会場でご一緒したり、時には共著本に名前を連ねていたり、そんなことがありました。でも、直接話をしたのは、姜さんが受賞された、鉄犬ヘテロトピア文学賞の授賞式でのことでした。姜さんと私は、懇親会でたまたま同じテーブルに座ったのです。
 あの文学賞についているヘテロトピア(混在郷)という言葉は、ミッシェル・フーコーの言葉です。フーコーは生前、規律/訓練された人間だけが外を闊歩できる社会が「近代」である、というような趣旨の話をしていました。私たちも通った「学校」は、未熟な人間が規律/訓練して規格化されていく製造工場で、「一人前の近代人」になるまで幽閉設備であり、近代増殖システムなのです。(そこで姜さんは、ある時点まで優等生(エリート)だった。)近代は次々に隔離施設を発明しました。監獄、少年院、精神病院、老人ホームそして、ハンセン氏病の隔離施設……。
 近代の規律/訓練がはじまってから150年経って、三線のおばあのように、いのちを語れるピトゥは絶無だと思います。こんな世の中で、無意識に互性をつくりだせるひとは、徹底して排除されるのでしょうか。

 そういえば、姜さんの手紙にあった南洋興発の初代社長は、松江春次という福島県会津若松出身のひとで戊辰戦争に負けてから、南洋群島の「シュガーキング」になりました。また、アメリカへの最初の日系移民も、旧会津藩のひとびとで彼らの入植地は「若松コロニー」と呼ばれました。私は会津若松で暮らしていたころ、戊辰戦争で敗れたひとびとが、どこへ移動し、場合によっては進出していったのかについて調べたことがあります。(私は、この部分をあえて、意識的に書きます。)
 排除され、敗走したひとびとが、必ずしも「杭」を抜くひとにはならない。三線のおばあのようになれるのは、ほんの一握りなのです。そのことが、ずっと気になっていました。そして、原発事故以後は、もっともっと気になるようになっています。事故に影響を受けた人びとが、「互性」を考えるようになるかもしれないと思っているからです。しかし、それは容易いことではないようです。むしろ、「進出」を考えるようになることのほうが、圧倒している世の中です。杭を抜けば崩れる。崩れた後で、やっぱり杭を打たねばならなくなる。その杭がやがて抜きやすいように、最善のモラルの中で杭を打つということが、はたして可能でしょうか。私たちの信念が、やがてどこかの時代に過ちの種になりうることも、そんなことも考えてみます。

 もう4年前になるでしょうか、ポーランドのオシフィエンチムを訪ねました。到着したのが真夜中だったせいか、オシフィエンチムの町はとても暗く、寂しく感じられました。でも、それはやはり気のせいではなく、抑圧が依然として埋め込まれているのです。かつてここはドイツでしたから、ドイツ語ならアウシュヴィッツと呼ばれます。
 「移動」と聞く度に、ビルケナウ強制収容所の、あの引き込み線を思い出します。この引き込み線をはじめて見たとき、もし、近代がこれほどまでに「移動」の技術を持たなければ、ヨーロッパ各地から強制収容所へひとびとが送り込まれることもなかったのかもしれない、こんな引き込み線がつくられなくても済んだかもしれない。あるいは、アフリカから黒人が奴隷として連れて来られることもなかったかもしれない。そんなことを思ってから、しかし、自分は日本からここまで飛行機に乗ってやってきたこと、村の暮らしから自由になりたくて、東北から東京の大学へ進学したことなどをぼんやり思ったのでした。
 それでも、私はこのとき遅ればせながらアウシュヴィッツを見てしまってから、この近代世界は否だと自分に言い聞かせました。私は、2001年9月11日のWTCテロのニューヨークにも居合わせたことがあったし、広島や長崎にも訪ねたことがあったけれども、アウシュヴィッツほどの震撼と絶望と虚無感を感じたことはなかったのです。人間がこんな収容所を想像するだけではなく、実際に機能させてしまった近代は、間違っている。
 そう言い切ってしまっても、姜さん、大丈夫ですか。

2019年6月5日 遠雷の青葉山にて 山内明美


ポーランド ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ第2収容所)死の門
収容者は汽車で運ばれ、施設入口の引き込み線で生死が分かれる。(撮影:山内)


殲滅対象となったのはユダヤ人、身体障害者、精神障害者、ホモセクシャル、政治犯、ロマ(ジプシー)のひとびとで、ヨーロッパ全土から収容所に連れて来られた。
写真はアウシュヴィッツ博物館資料(撮影:山内)

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著者略歴

  1. 山内明美(やまうち・あけみ)

    1976年、宮城県南三陸町生まれ。宮城教育大学教育学部准教授。専攻は歴史社会学、農村社会学。日本の東北地方と旧植民地地域の双方をフィールドに、稲作とナショナリズムをテーマとする文化的政治にまつわる研究をしている。東日本大震災以後は、郷里の南三陸での農村調査も行っている。著書『こども東北学』(イースト・プレス)、共著『「辺境」からはじまる――東京/東北論』(明石書店)、共著『グローバル化の中の政治 岩波講座 現代4』(岩波書店)、共著『ひとびとの精神史 第3巻』(岩波書店)など。

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