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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第十四回 奉天会戦と戦後

 神宮外苑の聖徳記念絵画館に「日露役奉天戦」という油彩画がある。大山巌を先頭とする満洲軍総司令部が奉天に入城する場面が描かれている。大山の後ろは総参謀長の児玉源太郎、後方に松川敏胤等参謀がつづき、その後に幕僚の面々がしたがう。
 馬上の大山が敬礼する先では、日本軍が総司令部を迎えている。その反対、大山の左側には奉天の人々が立ち、満洲軍の隊列をながめている。後ろに日の丸がはためいている。大山と後方の参謀等は、奉天城の南大門を通り過ぎてきたばかりだ。絵の三分の二を占める城門の一部が剥がれている。壁面は精密に描写されており、見ているものの視線はそちらにすいよせられていく。
 フランスでアカデミー美術の薫陶を受けた鹿子木孟郎が描くこの油彩は、聖徳記念絵画館が完成した1926年(大正15年)におさめられた。大きさは他の壁画と同様、縦3メートル、横2.7メートルだ。
 「日露役奉天戦」を見たとき、以前、美術書で眼にしたジャック=ルイ・ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」を思い出した。ナポレオン1世と皇妃の戴冠を描いたこの歴史画へなげかける視線も、ノートルダム大聖堂のつややかな柱にむかってしまう。画家は奉天会戦における勝利を、あたかも泰西名画のように描きだしているように思えたのだ。
 時は1905年(明治38年)3月。ひと月半前にはじまった奉天での戦闘は9日、クロパトキンひきいるロシア軍が北方へ撤退し、翌日、日本軍は奉天へ入城、終結することとなる。この戦いで日本は、約24万の兵力のうち、約1万5000人が戦死し、6万近くが負傷した。
 これで日露戦争における陸上戦はほぼ終わり、5月27日の日本海海戦で、連合艦隊はバルチック艦隊を撃破、米国の大統領ルーズベルトの仲介で講和条約が結ばれ、終戦を迎えることとなるのである。後に、この奉天入城の3月10日が陸軍記念日に、日本海海戦の5月27日が海軍記念日となった。日露戦争における二つの勝利は、陸海軍にとって特別な意味を持つものとなったのだ。
 では、奉天会戦における第七師団の戦いとはいかなるものだったのか。そこにおける、アイヌ兵北風磯吉の武勲とは……。旅順陥落後の第三軍からはじめることとする。

縦隊ですすむ第三軍、走る北風磯吉

 水師営における乃木ステッセル会談後、歩兵二十五聯隊をふくむ第七師団主力が旅順から北進の途についたのは、1月22日のことだった。第七師団は出発前、二〇三高地西北部に、死者の慰霊のため木標をたてた。そのことは第12回で書いた。
 第三軍が旅順の攻囲戦をおこなっていた最中、遼東半島の北方では、遼陽(1904年(明治37年)8月~9月)、沙河(同年10月)の戦いで、ロシア軍は後退、奉天の南で、両軍は膠着状態となった。日本軍は敵の増援の前に、攻勢をかける必要があった。旅順陥落後に第三軍はその戦いに馳せ参ぜねばならなかったのだ。
 『歩兵二十五聯隊史』には「第七師団北進行軍計画表」が掲載されている。1月22日の出発から、奉天の南の集合地に到着するまでの、日々の宿営地と移動の里数が記載されている。七師団は連日5里(約20キロ)から8里(約32キロ)を行軍している。集合地の遼陽の西北・黄泥窪に到着したのは2月9日のことだが、その総行程は90里(約360キロ)におよんだ。
 旅順要塞の攻略から休む間もなく、これだけの距離を移動せねばならなかった。しかし、彼らの進軍はこれだけではなかった。第三軍に与えられた使命は、左翼に位置し、縦隊をなして敵を迂回し、敵の側背をつくことにあった。正面攻撃と連動して敵の翼面を攻撃する繞回運動と呼ばれる戦法である。
 第三軍が宿営地に到着した時、ロシアの兵力は30万を超えていた。露軍は奉天城を背にし、左右を突破されぬよう100キロを超えて展開していた。対峙する24万の日本軍は、右翼から、鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第二軍がならんだ。鴨緑江軍とは、第三軍から第十一師団を引きぬいて新たに編成されたもので、川村景明が司令官をつとめた。第三軍は最左翼に位置した。その任務は先に述べた通り、繞回進撃し、さらに、奉天から北に延びる鉄道を遮断する、つまりロシア軍の退路を断つことにあった。
 攻撃は右翼からはじまった。鴨緑江軍が敵の東を攻め、清河城を制圧する。3月1日、全軍が奉天へ向けて進軍した。鴨緑江軍が右翼を、第三軍そして秋山好古ひきいる騎兵隊が左翼を北へとすすんだ。手薄になった正面を第一軍(黒木為楨)、第四軍(野津道貫)、第二軍(奥保鞏)が攻めるのである。
 縦列での進軍は隊列が伸びる。そうなると敵に横からつかれる危険性が生じる。第七師団はその縦隊の中央に位置していた。七師団の先頭部隊をつとめたのは、北風磯吉の所属する歩兵二十五聯隊第二大隊だった。
 3月3日、第二大隊は奉天西南八キロの達子堡付近にいた。予定していた到着点を超えた。孤立した大隊が停止したところで攻撃をうけた。後方の歩兵二十五聯隊本部に連絡し、弾薬の補給と増援をたのまねばならない。伝令を幾度か出したが次々にたおされていく。その時、かってでたのが北風磯吉だった。
 北風磯吉は、遮蔽物のない平地を敵の弾丸をかいくぐって2時間走り、聯隊本部へ到着、窮境を伝えた。歩兵二十五聯隊長の渡辺水哉はその果敢な行動に、その場で上等兵に昇進させた。任務を果たした北風は帰隊をとめられたが、制止をきかず、再び、弾丸のとびかう荒野を疾走し、第二大隊にもどっていった。帰路も無傷だった。
 ロシア軍は3月9日に北方へと敗走、翌日、日本軍は奉天に入城する。クロパトキンが恐れたことは、第三軍によって鉄道が破壊され、退路が遮断されることだった。奉天陥落後、第七師団は警戒線を逐次北に上げてゆく。銃声が止んだのは、日露講和後のことだったという。
 奉天会戦で日本は7万人を超える死傷者を出した。うち第三軍の死傷者は1万8000人強。第七師団の損害は戦死1061人、戦傷3546人、あわせて4607人である。第七師団の死傷者は第三軍全体の四分の一にあたる。なお、第三軍で最も多くの損害を出したのは第九師団(金沢)で6000人を超えた。

泣かずして旅順の山を

 第七師団の戦死者の遺骨が旭川にもどってきたのは、1904年(明治37年)11月12日のこと、その後、陸続と遺骨が到着したという。偕行社で慰霊がおこなわれ、それから遺族に引き渡され、陸軍墓地に埋葬された。歩兵二十五聯隊の将兵の遺骨は現在、忠魂納骨塔が立つ旧陸軍墓地に埋葬されたものと思われる。
 では、戦地ではどのように弔いがおこなわれたのか。第七師団は、1905年(明治38年)9月24日に奉天以北で没したものの慰霊祭をおこない、康平に石碑をたてた。12月1日にも戦死者の石碑が、北陵の畠に建立されている。北陵は第七師団が3月9日に激戦をおこなった場所だ。
 日露戦争を通じて第七師団の病死をふくめた戦死者は4400人。うち、歩兵二十五聯隊が1076人だ。師団帰国後、1906年(明治39年)春に旭川で、師団長大迫尚敏が祭主となり、七師団4400柱の招魂祭がおこなわれた。歩兵二十五聯隊の霊1076柱はその後、札幌護国神社にまつられることとなる。
 東郷平八郎と乃木希典の発案で、旅順の白玉山に、表忠塔の建設がはじまったのは1908年(明治41年)6月のことだった。2年の歳月をついやして完成した。塔は慰霊の意を示すために蝋燭型につくられた。上部の突起は弾丸がかたどられている。
 昭和に入ってから編まれた旅順戦績ガイドブックでは、戦績巡礼は、白玉山参拝をもってはじめねばならないと記されている(旅順戦史研究会編『国民必読旅順戦蹟読本』満蒙社、1934年)。泣かずして旅順の山を行き難し――、与謝野鉄幹の句である。
 そのようにして旅順は特別な場所となった。それが、司馬の言う「磁気」である。乃木本人は、そのような霊気が実態から離れて浮揚することに違和感を抱いていたようだが、しかし、彼の尋常ならざる死によって、その磁力はいよいよ強まり、陸軍はその神話を国民動員のよすがとして利用していくこととなる(大濱徹也『乃木希典』講談社(学術文庫)、2010年)。
 日本敗戦後、塔の正面の「表忠塔」という文字は削りとられ、「白玉山塔」と改名されたが、白玉山塔はいまでも旅順市街から見える。
 ご存じの通り、日本は講和交渉のなかで、賠償金を放棄せざるをえなかった。辛勝だからである。13師団さらに海軍のすべてを使いきっての戦いだった。が、ロシアはそうではなかった。欧露にはまだ多くの兵力がのこっていた。ロシア側の敗北は士気の問題にあった。「血の日曜日」に象徴されるように、民心は帝政から離反しはじめていたのである。
 講和条件が国民の知るところとなり、1905年(明治38年)9月5日に日比谷公園で暴動が発生する。不満の下地には、戦時における重税、公債、物資の徴発、そして徴兵と過度の負担があった。その3日後に旭川でも、町民大会が開かれ、桂太郎、伊藤博文への決議文が採択されている。

ネルーと司馬の指摘

 インドの初代首相ネルーは、娘インディラ・ガンディーに語りかけるという体裁の歴史書『父が子に語る世界歴史』のなかで、日本の勝利を知った時の感慨を以下のように記している。

 わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ(ジャワーハルラール・ネルー「日本の勝利」『父が子に語る世界歴史』Ⅲ、みすず書房、1959年)。

 しかし次の章で、日本がその後、周辺の国を侵略する帝国主義国となったとする。

 そのにがい結果を、まずさいしょになめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。日本は開国の当初から、すでに朝鮮と、満州の一部を、自己の勢力範囲として目をつけていた。もちろん、日本はくりかえして中国の領土保全と、朝鮮の独立の尊重を宣言した。帝国主義国というものは、相手のものをはぎとりながら、へいきで善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の神を聖公言したりする、下卑たやり口の常習者なのだ(「中華民国」『父が子に語る世界歴史』Ⅲ)。

 日露戦争はこのように、アジア民族と欧州のプロレタリアートを覚醒させた。同時に、新たな帝国主義国が誕生したという二つの側面を持つようになった。ポーツマス条約で、朝鮮半島の権益をロシアに認めさせた日本は、その後韓国を併合していく。『坂の上の雲』も、その問題を内部の変容から描いている。司馬は戦争によってもたらされたものに「民族の痴呆化」「国民的理性の後退」をあげる。

 (日露)戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである(司馬遼太郎『坂の上の雲』2、文藝春秋、1969年)。

 さらに『坂の上の雲』『菜の花の沖』という北方二大作を上梓した後に、『文藝春秋』に「隣りの土々(くにぐに)」を連載し、そこでは、シベリア出兵を「瀆武」という言葉で形容している(「ロシアの特異性について」「あとがき」『ロシアについて』文藝春秋、1989年)。
 「痴呆化」は、日比谷焼き討ち事件に象徴される、国民とメディアの暴発であろうし、「瀆武」は対外侵攻と、昭和期にはいってからの軍部による権力の蹂躙をふくんだものとなろう。つまり、日露戦争を境に、日本及び日本人は、倨傲という誤った道をあゆみはじめたという指摘である。そもそも、『坂の上の雲』執筆の動機も、謙虚という美質が支配的であった時代を描き、暗にその後の日本を批判することを意図していたものと言えるだろう。ネルーの語る日本、さらには、司馬が提示したこの「痴呆化」「理性の後退」「瀆武」という問題も、これから、第七師団そして二十五聯隊の記憶をたどりつつ、見てゆくこととなる。

二つの戦後

 最後に、日露戦争の項で触れた将卒のその後について記しておく。
 第七師団は3月9日に北陵で激戦をおこなったと書いた。第三軍の左翼にあって、奉天北方へと進軍、その折にロシア軍との交戦がはじまったのだ。ロシア軍は第三軍による鉄道破壊を恐れ、兵力を増員し第三軍の北進を止めようとした。その日はひどい黄砂だったという。いかにしても露軍を突破できない。師団長の大迫尚敏は夜襲作戦をとることとした。特別隊を編成し、その長に村上正路をあてたのである。村上は、二〇三高地に一番乗りをした歩兵二十八聯隊長である。
 村上隊は3月10日の払暁に出陣、森林地帯で敵と混戦となり、村上自身も銃弾にたおれロシア軍に捕まることとなる。彼は日露戦後の捕虜交換で旭川に帰還し、1907年(明治39年)3月に開かれた俘虜審問委員会で、旅順での傑出した功績と相殺され、休職が命ぜられたという。「不運な武人」だったと示村貞夫『旭川第七師団』(総北海出版部、1984年)は書く。
 渡辺水哉は村上につづいて二〇三高地を攻略した二十五聯隊長だ。父は柳川藩士、佐賀の乱後に陸軍を志し、熊本鎮台で西南戦争に参戦、北海道の陸軍屯田兵科に配属されたのは1894年(明治27年)のことだった。九州人で屯田兵から七師団へ、という経歴は永山武四郎と同じだ。
 日清戦争を経て、1900年(明治33年)に初代の歩兵二十五聯隊長となった。白襷隊で負傷し、聾となったと伝えられている。日露戦争の武勲により、功三級金鵄勲章を授与され、1906年(明治39年)に少将となり、聯隊をはなれた。1909年(明治42年)に韓国派遣隊司令官を命ぜられ、抗日武装闘争の掃討作戦を指揮、その軍功により旭日重光章をうけた。渡辺水哉は、ネルーが娘に語る二つの日本を体現する軍人と言えるだろう。
 櫻井忠温と北風磯吉は二つの戦後を生きた。
 『肉弾』が出版されたのは1906年(明治39年)4月のことだった。治療中に書かれた同書はベストセラーとなり、多くの外国語に翻訳された。
 大隈重信から『肉弾』を受けとったルーズベルトは櫻井に書簡を送り(1908年4月22日)、「多大なる驚歎の念を以て通読し」、「予は既に此書の数章を我が二長児に読み聞かせ」、「予は貴下に感謝し、併せて日本陸海軍に対し深厚なる驚歎の情を表す」と述べている。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、第一次世界大戦直前に『肉弾』のドイツ語訳を全聯隊に配布し、日本精神の研究を命じた。イギリスでも、陸軍士官学校の副読本として使われた。
 1906年(明治39年)6月25日に櫻井は、明治天皇に拝謁している。しかし、同書は陸軍内部では禁書となり、しばらくの間櫻井は筆を折らねばならなかった。彼が執筆を再開するのは1912年(明治45年)のことだ。櫻井はその負傷により出世することはなかったが、軍籍に留まりながら多くの作品をのこしている。敗戦後、一旦公職追放となるが、解除後、再び筆をとった(長山靖生「解説」櫻井忠温『肉弾 旅順実戦記』中央公論新社(文庫)、2016年)。
 櫻井が1957年に出版した『哀しきものの記録』(文藝春秋)を読むと、戦後という価値観の転換と、家族との関係も加わり、その心象風景は明るいものではない。松山に戻り、かつて松山高校で夏目漱石の教えを受けた由縁で、「松山坊っちゃん会」の設立にかかわる。松山新聞に『坊つちやん』が再録された際は、挿絵を描いている。櫻井は絵も達者で画集も出していた。1964年(昭和39年)に愛媛県教育文化賞を受賞、その翌年、86歳で鬼籍にはいっている。
 では、北風磯吉の「戦後」はいかなるものだったのか。
 1905年(明治38年)4月8日の北海タイムスで、「勇敢なる旧土人」というタイトルで、北風磯吉の武勲が報じられている。北風は帰還後、名寄に戻り、1906年(明治39年)4月に功七級金鵄勲章ならびに勲八等白色桐葉章が授与された。年金も受けることとなる。彼は凱旋記念として地域の小学生数百名に学用品を送っている。1917年(大正6年)、「旧土人保護法」により、小学校の分校(特別教授場)が計画された折、土地と校舎建設費50円を寄付している。北風は「日露の勇士」「郷土のほこり」として、日露戦後を生きたのである(村上久吉「金鵄勲章の北風磯吉翁」『あいぬ人物傳』平凡社、1942年)。
 北海タイムスのこの「勇敢なる旧土人」という記事は、道内各地に伝えられ、特にアイヌの児童のいる学校では皇民化教育の教材として使われた。中学生向けの雑誌『中学世界』にも北風磯吉の功績が紹介されることとなる(以下に転載[左剣生「功七級のアイヌ人北風磯吉」『明治戦争文学集』明治文学全集97、筑摩書房、1969年])。
 北風磯吉の軍功は、アイヌの皇民化政策、忠君愛国教育の一環として利用されたのである。むろん北風は自身の武勲を誇りとしていた。時代はくだって1935年(昭和10年)、日露大戦30周年の連載企画のために北海タイムスの記者が北風のもとに取材に訪れているが、30年前の記事を大切に保管していたという(「北海タイムス」昭和10年3月11日)。
 1911年(明治44年)8月に皇太子(後の大正天皇)が来道した折、八甲田山の捜索で活躍した弁開凧次郎が、皇太子に祝詞を述べている。歩兵二十五聯隊来訪時には、アイヌ兵に軍人精神を答えさせるという演出が行われたという(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館、2007年)。北風磯吉の武勲は、皇民化政策の一素材として喧伝されたのだろう。

 北風磯吉が受けた金鵄勲章の金鵄の由来は、神武東征の折に、神武の弓の弭にとまった鵄が金色に光り輝き、敵の長髄彦ひきいる軍の眼をくらませたという伝説による。長髄彦は、神武東征に抵抗した豪族の長で、上古の「夷」の代表的な人物だ。秋田久保田藩の佐竹氏は長髄彦を祖としており、東日本の「まつろわぬ民」にとって、東征への抵抗者は、自分達の父祖といってもよいだろう。先住民の北風磯吉が、金鵄勲章を受けたということは、アイヌが大和朝廷を祖とする明治政府の「臣民」となった証と言える。
 ただ、長髄彦の末裔を自称する佐竹氏も、明治時代に華族となっている。日本史は、列島の東に住んでいた「まつろわぬ民」が、稲作や鉄器という弥生文化をもった大和政権に服属していく歴史ともいえるので、北風の事績は、そのような日本史の大きな水脈の一つと理解できないことはない。
 北風は1945年以降、『分類アイヌ語辞典』(知里真志保)や『アイヌ語方言辞典』(服部四郎)などの編纂に協力し、アイヌ文化の伝承者として生きた(「温語老順‐中名寄翁の言葉」早川昇『アイヌの民俗』岩崎美術社、1970年)。戦場では彼の勇猛心が求められたが、戦後は民族の言語や文化に関する知見が求められたのである。ただ、少なからぬ研究者に協力したものの、その恩恵を受けることはなく、学者は情報提供しても、連絡してこないと不平をもらしていたという(佐藤幸夫『北風磯吉資料集』名寄市教育委員会、1985年)。
 NHK札幌放送局が2019年10月4日に放送したドキュメンタリー「アイヌとGHQ~マッカーサーの神棚の謎」によれば、北風磯吉は神棚にマッカーサーの写真をそなえていた。その理由はわからないという。戦後は生活保護を受け、1953年(昭和28年)に施設に入り、1969年(昭和44年)に長逝した。卒寿を迎えようとしていた。


旅順の白玉山塔 最上階の欄干には陸軍の五芒星があった

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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