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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第十三回 旅順の陥落

 第七師団は第三軍への編入を命ぜられた後、順次大阪を出発した。師団の第一陣が大連に上陸したのは1904年(明治37年)11月18日だった。その数日前の御前会議ではすみやかなる旅順要塞の攻略がしめされ、11月20日に満州軍総司令官の大山巌は、陸海軍ともその重大使命は、旅順の高地攻撃にあるとの訓令を発していた。バルチック艦隊は翌年はじめには台湾海峡に達すると見込まれていた。旅順要塞を占領し、港内の軍艦をたたかねば、帝国の安危に重大な影響をあたえる。そのような時期に、第七師団は第三軍に加わったのである。
 旅順要塞への第三回の総攻撃は11月26日からはじまった。その戦いにおいて、第十一師団歩兵二十二聯隊の櫻井忠温が負傷したことは前回述べた通りだ。第三軍の第一師団、第九師団、第十一師団は、多大な損害を受けることとなる。局面を打開するために特別な部隊が編成されることとなった。

白襷決死隊

 白だすきをかけて出陣したために、後年「白襷隊」と呼ばれる別動隊は、総勢3,000からなっていた。指揮したのは第三軍の中村覚(少将)、編成は第一師団特別歩兵聯隊、歩兵十二聯隊(十一師団)、歩兵三十五聯隊(第九師団)、歩兵二十五聯隊などからなっていた。二十五聯隊から選ばれた人員の指揮をとったのは二十五聯隊長の渡辺水哉(大佐)だった。二十五聯隊の人員は約1,500人、白襷隊の半数が、二十五聯隊の将卒だったのだ。
 日中の攻撃であれば、砲弾で敵に損害をあたえ、それから歩兵が進攻するのが常道だ。しかし、白襷隊は、夜間の奇襲作戦だった。軍服の上に十字にかけた白だすきは、同士討ちをさけるためのもの。「白だすきをかけての出陣」と聞くと、赤穂浪士の討ち入りを思い出す向きも多いのではないか。後年「白襷決死隊」と呼ばれる所以は、四十七士と無関係ではないだろう。さらに、旅順要塞攻略という至上命令に身を挺してこたえるという士気の鼓舞もあったのではないか。
 11月26日の夜間、3,000余名の兵は部隊にわかれて出陣。先んじた隊(第一特別歩兵聯隊)が、松樹山第四砲台に突撃した。松樹山は旅順要塞の東正面の堡塁で、旅順要塞の最高地点・望台をまもっていた。
 鉄条網が進攻を阻害する。日本軍の急襲に気づいたロシア軍から、探照灯をあてられ、小銃、機関銃、手榴弾があびせられる。加えて地雷が爆発し、決死隊は難攻を強いられる。指揮官の中村覚は、三十五聯隊、二十五聯隊の突撃を指示するが、死傷者が続出、退却を余儀なくされる。後続部隊が進攻するも、指揮官の中村自身も脚に重傷を負うこととなる。かわって指揮をとったのは歩兵二十五聯隊長の渡辺水哉だった。
 しかし、将校も数多く負傷し、対してロシア軍には援軍が加勢し、白襷隊は暗闇の中、現位置を保持することさえも困難になる。司令部は夜襲攻撃の続行は困難と判断、深夜2時に、撤退命令をくだすのである。指揮官をつとめた渡辺水哉は勇敢な兵をえらんで伝令として出し、撤退を指示した。
 白襷隊に参加した二十五聯隊のうち、戦死者は9名、負傷者は300名を超えたという。その二十五聯隊白襷決死隊1,500余名の一人に北風磯吉という兵がいた。北風は二十五聯隊の一等卒でアイヌ民族の兵士だった。
 白襷決死隊となった北風磯吉は、敵弾の掃射をかわし、味方を鼓舞して敵を攻撃した。撤退の折は、負傷した中隊長を背負って帰還したと伝えられている。北風は後の奉天会戦では銃弾がとびかう戦場を伝令として走り、傑出した活躍をし、その場で上等兵への昇進がつげられた。北風は、日露戦後、金鵄勲章を受章し勲三等を得ることとなる。その後、アイヌ兵北風磯吉の英雄譚は多くの書物でえがかれることとなる。

帝国の臣民

 歴史学者の榎森進によれば、日露戦争には63名のアイヌ兵が出征し、うちその戦功により勲章を授与されたものは51名(うち金鵄勲章は3名)におよんだという。その意味するところは、「戦場に出征したアイヌが、戦場でいかに積極的に危険な任務につき、生命を賭して戦ったのかを示している」という(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館、2007年)。その代表が北風磯吉だった。
 北風磯吉は北海道上川郡上名寄に生まれた。名寄は旭川の北に位置する地だ。北風は戸籍上1880年(明治13年)生まれとなっているが、実際の出生年月日は不明だ。北風は少年時代から青年時代にかけて測量人夫として過ごし、1900年(明治33年)に徴兵され、二十五聯隊第二大隊第五中隊へ入隊する。その前に、芽室生まれの女性と結婚している(佐藤幸夫『北風磯吉資料集』(名寄叢書第6巻)名寄市教育委員会、1985年)。
 北風の武勲を称揚する文章には、目に一丁字なかったとしるされている(左剣生(陸軍中尉)「功七級のアイヌ人北風磯吉」『明治戦争文学集』(明治文学全集97)筑摩書房、1969年)。彼は学校に通わず、読み書きは軍隊で習った。但し、アイヌの民を「目に一丁字なし」とする表現は、しばしば使われるものだという。なお、先に述べた通り、名寄は旭川より北部にあり、月寒よりも、旭川に近い地だが、同地は二十五聯隊の徴兵区域だった。北風は新聞も読めるようになった。また書もたくみになり、著名な書道家・中林梧竹が来道した折は、北風の手蹟を称賛したという。北風は高い学習能力をもっていたのであろう。彼は1903年(明治36年)に一旦除隊となるが、七師団に動員下命があった1904年(明治37年)8月4日に予備役(一等卒)として再び召集された。
 前掲書『アイヌ民族の歴史』(榎森進)の「日露戦争とアイヌ」の項では二人の人物が紹介されている。一人が北風磯吉であり、もう一人が弁開凧次郎だ。弁開は兵ではなく「八甲田山死の行軍」の捜索をした民間人だ。
 日露戦争がはじまる2年前の1902年(明治35年)、第八師団(弘前)に属する歩兵第五聯隊(青森)と歩兵第三十一聯隊(弘前)は八甲田山の雪中行軍をおこなった。来るべきロシアとの戦いに備えたものだった。しかし、第五聯隊は暴風雪にみまわれて、目的地に着く前に遭難した。
 その一報を受けた第五聯隊は函館要塞司令部に連絡、雪山登行にひいでたアイヌに捜索をもとめたのである。道南の茅部郡森村の医師村岡格を通して、落部村のアイヌ弁開凧次郎らに捜索が依頼された。弁開らは、遭難現場をさがしあて、死体や武器装具を回収し任務を果たした。事件では210名の隊員のうち199名が死んだ。
 その後、弁開は陳情書を提出し、アイヌ独自の軍隊の編成を提案した。榎森はその提言の背後には、和人の医師村岡の誘導があったと推測する。その後も、弁開凧次郎は村岡を通じて、村、そして道とお上の政策に協力する。弁開の行動について榎森は以下のように書く。

 こうした弁開凧次郎の一連の行動に目をやるとき、われわれはそこに、みずからはアイヌたることに誇りをもちつつも、天皇制国家にたいしてはアイヌたることを「蛮奴」として卑下し、他方で異常ともいえるほどの忠誠心を示しつつ、「帝国の臣民」になりきるために涙ぐましいほどの努力をしている一老アイヌの姿をみることができる(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館、2007年)。

 同様の地点に、北風磯吉の行動を位置づける。おそらく、北風も軍隊内で尋常ならざる努力をしたことだろう。また、戦場においても、危険を冒して困難な仕事をかってでたのかもしれない。ただ、弁開凧次郎と北風磯吉の異なる点は、北風は軍隊内で読み書きを習い、基礎教育を受けた点だ。北風は復員後、アイヌの子どもたちが通う学校(特別教授場)の設立に私財を投じている。地域の名士となったのだ(佐藤幸夫『北風磯吉資料集』(名寄叢書第6巻)名寄市教育委員会、1985年)。奉天会戦での軍功を含めた彼のその後については次号で触れる。

二〇三高地と艦隊の運命

 二〇三高地への攻撃命令がくだされたのは、白襷隊が撤退し夜があけた11月27日のことだった。最初の攻撃にあたったのは第一師団だが、それも失敗。翌日、大山巌から督促がある。そこで投入が決められたのが第七師団だった。指揮をとったのは、第七師団長の大迫尚敏である。大迫は、屯田兵から第七師団を築いた永山武四郎の後任の師団長だ。
 第七師団と第一師団の残存部隊は11月30日の朝から攻撃を開始する。まず日本軍の砲弾が、二〇三高地とその周囲へはなたれた。すさまじい砲撃のあと先頭にたったのは歩兵二十八聯隊長の村上正路(大佐)だった。手榴弾、機関銃の猛火により、兵士は次々とたおれていく。攻撃目標たる二〇三高地、となりの老虎溝山は攻略できない。午後になり、攻撃は中止となった。
 12月4日、攻撃部隊が再編された。攻撃隊長についたのは、歩兵十四旅団長の斎藤太郎(少将)だった。その指揮下に、二十五聯隊822名、二十七聯隊700名、二十八聯隊900名がついた。あわせて4500名の部隊だ。上記では歩兵のみをしるしたが、むろん工兵もいる。日露戦争は、大砲を設営し、塹壕を掘り、陣地をかためる工兵の活躍が大きな役割を果たした。
 12月5日の朝、前回同様、砲兵聯隊が高地に向けて砲弾をはなつ。各聯隊が二〇三高地を目指して進攻した。先頭にたったのが歩兵二十八聯隊長の村上正路と二十五聯隊長の渡辺水哉であり、それぞれ30、40名の兵を率いて、高地に向けて突撃をはかった。まず、村上の部隊が敵の火力をかわして、二〇三高地西南角を占領した。遅れて、渡辺水哉ひきいる部隊が、高地の東北部を奪取した。その後も、敵からの反撃が加えられるが、その場所を堅持した。翌日12月6日、二〇三高地に防禦陣地が設営された。
 二〇三高地占領の意味とは何か。「そこから旅順港が見えるか」という満州軍総参謀長児玉源太郎の言の通り、そこに観測所をおき、28センチ榴弾砲で旅順港にとどまっていた軍艦に砲撃を開始することができたのである。
 最初に撃沈させられたのは戦艦ポルタヴァ号だった。12月5日13時30分のこと。砲弾がポルタヴァの左舷に命中、砲弾は甲板をつらぬいて、弾薬庫まで達した。戦艦は炎上、沈没にいたる。同じく、戦艦レトヴィザンも爆撃され、艦は動けなくなる。レトヴィザンが沈没したのは翌日のことだった。ペレスヴェートも撃沈した。12月7日には、ポベーダとパルラーダが、8日に巡洋艦バヤーン、輸送船アムールも被弾した。被害を受けなかったのは、戦艦セヴァストポリと砲艦オトワージヌイぐらいだった。セヴァストポリは夜半に旅順港を脱出するが、日本海軍は同艦を追撃する(I・I・ロストーノフ『ソ連から見た日露戦争』原書房、2009年)。
 旅順港にあった軍艦はことごとく撃沈された。1977年に著された前掲書『ソ連から見た日露戦争』は以下のように書く。「新市内、西部海域及び東部海域の南部を制する二〇三高地が日本軍によって占領されたことによって、艦隊の運命は決まった」。ただ、二〇三高地占領以前に、戦闘力としての艦隊は存在していなかったともいう。軍艦につまれていた弾薬は、日本陸軍との戦いのためほとんどが運び出されていたからだ。いずれにしても、躯体としての戦艦は、二〇三高地の占領で使い物にならなくなったのである。
 二十五聯隊長の渡辺水哉は、二〇三高地占領の翌日に、第三軍の司令官乃木希典から感状を受けている。感状とは、軍功をあげた部隊、個人に授与されるもので、日露戦争開戦直後の1904年(明治37年)3月1日に制定された制度だ。渡辺が受けた感状には、「終日終夜遂ニ同高地ノ占領ヲ確実ナラシメタ其功績顕著ナリトス」と書かれている。また、同日、七師団は大山巌名で以下の感状を得た。

 右(第七師団‐引用者)ハ十二月五日旅順要塞ノ西北隅ニ位スル標高二〇三ノ嶮山ニ敵兵ヲ攻撃シ就中歩工兵部隊ハ勇往猛進数回ノ突破ヲ敢行シテ遂ニ頑強ナル抵抗ヲ撃破シ以テ爾後ニ於ケル攻城戦並ニ海軍作戦発展ノ為至大ノ影響ヲ及ホスヘキ要点ヲ奪取シタルハ其功績偉大ナリト認ム

六つのセヴァストポリ

 レーニンは旅順停戦後の1905年1月に「旅順の陥落」という文章を新聞『前進』に寄稿している。時はちょうどロシア社会民主労働党が分裂し、レーニンがボリシェヴィキの指導者となった頃だ。
 レーニンは「旅順の陥落」をして、「進歩的な、すすんだアジアは、おくれた、反動的なヨーロッパに、取り返しのつかない打撃をあたえた」とする。むろんレーニンは、新興の資本主義国家日本のブルジョアジーまでも、社会主義者が支持できるわけではないとする。しかし、「神秘につつまれた、少年のように若い力」が勝利したことにより、反動的なヨーロッパに打撃がくわえられ、欧州のプロレタリアートの新しい革命的高揚への予告となったと語る(「旅順の陥落」『レーニン全集』第8巻、大月書店、1955年)。
 この文章が公開された数日後の日曜日(1月22日)に、ロシアの首都サンクトペテルブルクで流血の事件が起こった。同地の労働者がニコライ二世への嘆願のために冬宮に向かった。ロシアの官憲は労働者に発砲した。後に「血の日曜日」と称されるこの事態が、ロシア革命へとつながっていくことはご存知のとおりだ。
 レーニンは日本とロシアを対比して、前者が「国民」によって行われた勝利であり、後者には、人民と政府の間に不一致があったという。レーニンはそもそも、帝政ロシアは「塗りたる墓」だと形容する。「(白く)塗りたる墓」とは、以下の聖句に由来する。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている(「マタイによる福音書」『聖書 新共同訳―新約聖書』日本聖書協会、1987年)。

 当時の軍事評論家は旅順を六つのセヴァストポリに等しいと評していたという。セヴァストポリとは、黒海につきでたクリミア半島の先端に位置し、欧露の最南端の要塞だった。クリミア戦争ではイギリスとフランスによって攻略された場所だ。その地は、帝政ロシアの栄光を象徴する地となり、よって、戦艦の名にもつかわれたのである。旅順は六つのセヴァストポリに匹敵する難攻不落の要塞だったというのである。
 レーニンはその六つのセヴァストポリ・旅順が「ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本」によってわずか8か月で攻略されたことは、ツァーリズムの罪悪の歴史的総決算の一つだというのである。ちなみに、クリミア戦争におけるセヴァストポリ要塞の攻略は英仏によって1年の月日がついやされた。
 この「ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本」という言葉を眼にして思いだすのは、『坂の上の雲』の冒頭の「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」という文だ。司馬はそのくだりでおいかけるように「小さな日本」という言葉もつかっている。
 渡辺京二は、司馬のこの「小さな国」という表現は事実に反すると言う(「旅順の城は落ちずとも」『幻影の明治』平凡社(ライブラリー)、2018年)。明治初期の日本が「小さな国」であったというのは事実誤認であろう。人口においても、国力においても、アジアは言うまでもなく、欧州にもそれより「小さな国」はいくらでもあった。
 ただ、司馬のこの語は、レーニンの認識とひびきあいながら、日露戦争の世界史に果たした役割をあざやかにしめしているように思える。当時の列強の眼からみれば、日本は明らかに、「ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた国」だったのだ。
 むろん、レーニンのこの文章は、帝政に一撃をくわえた日本の「革命的役割」「進歩的な役割」に肩入れしすぎと言えなくもない。また、ボリシェヴィキをめぐる党派的対立のなかで、露日のたたかい、そこにおける「旅順の陥落」をどう評価するかで、意見の分岐があり、党派的な意図がこめられているのかもしれない。その点は私にはわからない。しかし、以下のレーニンの言葉は、「旅順の陥落」の意味を雄弁に語っているように思える。「戦争が雇い兵か、もしくは人民からなかば切りはなされたカストの代表によって行われていた時期は、またかえらぬ過去となった。戦争は、いまでは国民によって行われる」。

 1904年(明治37年)11月末からはじまる旅順の第三回攻撃での死傷者は、第三軍の死者が5,052人、負傷者は11,883人で計16,935人、うち第七師団の死者1,982人、負傷者4,224人、計6,206人。第三回攻撃のうち第七師団の犠牲は少なくないのである。第七師団の内訳を死者数のみでみると、二十五聯隊570人、二十六聯隊542人、二十七聯隊425人、二十八聯隊390人となる。歩兵二十五聯隊の死者がもっとも多い。
 レーニンは「旅順の陥落」をみちびいたのは「進歩的な一国民」だとした。その「国民」の一つとして、第七師団があり、そこに歩兵二十五聯隊があり、その中にアイヌ兵北風磯吉がいた。彼らは、きわめて厳しい戦局において、「消耗品」として戦場におくりこまれ、そこにおいて「顕著」なそして「偉大」な「功績」をあげたのである。


二〇三高地の観測所、訪れた日は曇天だったが、旅順港は見えた

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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