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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第十二回 第三軍編入まで

 日露戦争開戦時の第七師団への命令は沿岸警備だった。歩兵二十八聯隊第二大隊が函館に、二十六聯隊一個中隊が室蘭に、そして、二十五聯隊二個中隊が小樽の守備についたのだ(示村貞夫『旭川第七師団』(復刻改訂版)総北海出版部、1984年)。函館には江戸期以来の要塞があった。室蘭と小樽には鉄道が敷設されていた。ロシア軍が三港のいずれかに上陸すれば、北海道の命脈が保てなくなる。ウラジオストク艦隊は津軽海峡にあらわれ、北海道と本州の交通はしばしば遮断された。それゆえに、開戦後半年の間、第七師団には動員命令がおりなかったのである。同様の理由で、第八師団(弘前)にも動員令はくだらなかった。
 では、第七師団はいかなる状況下で動員がなされたのか。今号では、第七師団が乃木希典ひきいる第三軍に編入されるまでを見ておきたい。

開戦当初

 当初、陸軍の作戦計画において旅順攻略は想定されていなかった。地上戦における天王山は、満洲北方での戦いであると考えられていた。ロシア軍は適宜撤退し、奉天(瀋陽)さらに、東清鉄道の分岐点ハルビンで日本を向かえ撃つことが予想されていた。遼東半島の先端旅順は海軍によって攻略できると考えられていたのである。
 2月6日にロシアに国交断絶が告げられると、海軍は旅順を急襲した。しかし、ロシア軍艦は港内にとどまる。旅順はその港口が狭く、外から手が出せない。海軍は旅順口を閉塞する作戦に転じ、そこで広瀬武夫が死んだ。広瀬はロシアの武官もつとめたロシア通で、部下の杉野孫七を助けに行き、脱出が遅れ、ロシアの攻撃に遭うのである。その後広瀬は「軍神」となった。
 海軍は旅順港のロシア艦船を撃沈できず、その焦慮が陸軍への旅順攻撃要請につながっていく。ウラジオストク、旅順など東方にいるロシア艦隊は一部にすぎない。西方のバルト海にはバルチック艦隊がいる。日本海軍はいつか、そのバルチック艦隊と一戦を交えねばならないが、その前に、旅順港内にいる軍艦をおびき出しておかねばならない。海軍はそれができずにいたのである。
 では陸軍はどのような作戦を策定したのか。朝鮮半島と遼東半島を攻略する作戦をとった。朝鮮半島攻略をになった第一軍は黒木為楨が指揮し、近衛師団、第二師団(仙台)、第十二師団(小倉)で編成されていた。遼東半島を攻める第二軍は、第一師団(東京)、第三師団(名古屋)、第四師団(大阪)、独立第十師団などにより編成され、奥保鞏がひきいた。その第二軍に軍医部長として従軍していたのが森鴎外であり、田山花袋は記者として従軍したことは、第三回で述べた。
 朝鮮半島の西北海岸に上陸した第一軍の部隊は平壌を制圧し、ロシアの攻撃をかわして鴨緑江をわたる。その対岸九連城を占領した。その後、鳳凰城にすすむ。どちらもロシア軍が駐屯していたが、ロシア軍は適宜後退する作戦をとった。
 他方、第二軍は遼東半島の東岸に上陸した。ロシア軍は東清鉄道南支線(ハルビン‐旅順)の工事を行っており、その沿線に軍を駐屯させていた。第二軍の目的は、南支線にいるロシア軍と戦うことだった。
 第二軍は当面、遼東半島の先端、大連、旅順へ至る要衝・金州と南山を攻略することとした。戦いは苦戦を強いられ、死傷者は4千名を越えた。その戦闘で乃木勝典が死んだ。
 そして、1904年(明治37年)5月初め、陸の旅順要塞を攻略するために、第三軍が編成されるのである。その軍司令官についたのが乃木希典だった。第三軍は6月初旬に、大連近郊に上陸した。独立第十師団を中心に第四軍も編成された。そこには野津道貫が司令官としてついた。軍は四つになり、将卒の数も25万人におよんだ。その全体を指揮する司令部として満洲軍総司令部がおかれ、総司令官に大山巌がつき、児玉源太郎が総参謀長となった。当時、極東にあるロシア軍の兵力は60万を超えていたという。多勢に無勢である。
 第三軍は当初、第一師団(東京)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)からなっていた。第一師団は、第二軍から編成替えとなり第三軍に編入されたのだ。1980年に制作された映画『二百三高地』(監督:舛田利雄)は、第九師団の将兵が主役だ。ロシア文学を学び、上京してニコライ堂にも通っていた主人公小賀武志は金沢の小学校の教師だった。
 第三軍が大連近郊に上陸してから、少しずつ、遼東半島の先端である旅順にせまっていた。しかし、戦いは容易なものではなかった。大連に陣地を設営するも、旅順に至るまでに、いくたの敵陣があり、それを攻略せねばならなかったからである。

『肉弾』にみる旅順港への進攻

 第三軍の一員として戦った兵士に櫻井忠温がいた。櫻井は帰還後、その経験を『肉弾』として発表した。『肉弾』は日本国内でベストセラーとなり、広く外国語にも翻訳された。『肉弾』で描かれた戦いはただただ凄まじいの一語につきる。まさに「肉弾また肉弾」の戦いだ。その一節を紹介し、第七師団が第三軍に編入されるまでの戦況を見ておこう。
 松山出身の櫻井は、松山中学を卒業して後、一旦税関官吏となるが、その後、陸軍士官学校を経て、松山の歩兵二十二聯隊に配属された。そこで聯隊旗手をつとめた。二十二聯隊に動員命令がくだったのは4月19日のことだった。1ヶ月ほどたった5月21日に出発し、遼東半島の東、塩大澳に上陸した。櫻井の隊は当初第二軍の指揮下にはいり、南山の戦いにくわわる。その後、部隊は乃木ひきいる第三軍に編入される。なお、歩兵二十二聯隊が属する第十一師団(善通寺)の初代師団長は乃木だった。
 日清戦争では旅順は一日にして陥落した。しかし、三国干渉を経て、旅順はロシアの租借地となり、太平洋艦隊の基地として整備され、港を見下ろす山々には、数多くの要塞がつくられた。それもベトン(コンクリート)で塗りかためられた強固なものであった。そこに至るまでにも数多くの陣地がつくられていた。
 櫻井の隊は旅順の要衝・剣山を占領する。次に大白山に歩をすすめ、その激戦を制し、大孤山の戦いに参戦する。剣山、大白山、大孤山と櫻井の隊は一歩一歩旅順港へ近づいてゆく。大孤山からは旅順港が見える。その折の前進のくだりを紹介する。

 「死骸を踏むな!」と予は部下を戒めたが、予もまたたちまち水膨れになって護摩の如き弾力のある死者の胸もとを踏み付けた。長き隘路に長く続ける死屍、負傷者のことなれば、これを踏み、これを越えずには、到底前進することができなかったのである(櫻井忠温『肉弾』、中央公論新社(文庫)、2016年)

 櫻井は、山成す屍、川成す血を踏み越えて進軍する。虫の息の兵が、砲車の徹で踏みつぶされる。「砕けたる骨、破れたる肉、流るる血、折れたる剣、裂けたる銃、これらの相混じて散乱せる状よ!」と書く。
 旅順の総攻撃は大きく三回に分かれる。第一次は8月19日から24日までだ。陸軍は5万の兵力を投入した。櫻井はその一人だった。8月23日夜半からの攻撃で、櫻井は旅順最大の堡塁・望台(東鶏冠山砲台)を目ざした。中隊長が「前へ!」と号令を発した瞬間、銃撃される。見上げれば要衝・望台は谷ひとつ隔てて目の前にあった。
 櫻井は全身にあまねく傷をおい(前身蜂巣銃創)、意識を失った。戦闘が終わり、負傷兵や遺体が回収される際に、死体と間違われ、火葬場に移される途中で生存が確認された。その後日本に移送され、松山で手術を受ける。その加療中に『肉弾』を書くのである。この第一次総攻撃では5万の将卒のうち、5千人が戦死し、1万人が負傷した。

動員乞い

 第七師団に出征命令がでたのは、第一回総攻撃開始直前の8月4日のことだった。開戦決定からすでに半年の月日がたっていた。なお、同じく北方の第八師団への下命は6月7日だった。日清戦争後に誕生した13師団中、第七師団への動員はもっとも遅いものだったのである。
 『肉弾』には、松山歩兵二十二聯隊で動員命令がおりることを待ちわびる兵の気持ちがつづられている。それは「動員乞い」と呼ばれていたという。
 日露開戦前から、開戦の高揚感は、とくに新聞、世論の間でみなぎっていた。新聞は、ごく一部をのぞいて、主戦論をとなえ、戦争の気分をあおった。戸水寛人を中心とする七帝大博士は、開戦の論陣をはった。
 しかし、明治政府の指導層にはそれとは異なる意見があった。伊藤博文が開戦に反対しロシアとの協商を主張していたことは広く知られているが、私が眼にしたもので興味深く読んだのは、日露戦争時の総理大臣桂太郎の秘書だった中島久万吉の回想だ。中島久万吉は、父中島信行が伊藤と懇意であり、また、総理秘書として、幾度か伊藤博文に会っており、伊藤の真意をくみとる機会があったという。
 中島によれば、伊藤が日露戦争の後ろ盾となった日英同盟に反対する理由は、それにより、「日本人の国際的な高慢心を増長する。そして、これが必ず日本を誤まる心的動機になる」というものであったという(「回顧五十年――日露戦争前後」吉野源三郎編著『日本の運命』評論社、1969年)。
 もとは雑誌『世界』1950年2月号に掲載されたこの対談は、中島久万吉の他、安倍能成、荒畑寒村、大内兵衛、鶴見祐輔、長与善郎、長谷川如是閑というリベラリストから社会主義者まで、帝国日本へのかかわり方も異なる出席者からなるもので、司会は、吉野源三郎と丸山眞男がつとめている。豪華な顔ぶれだ。
 そのなかで荒畑寒村が、開戦前に、横井時雄が『時代思潮』という雑誌で、日露戦争は、大国の代理戦争だという見方を示していたことを紹介している。「日本やロシアなどは馬鹿正直な国で」、ロシアが独仏に、日本はイギリスに「踊らされて喧嘩をしておる」というのである。対談のなかで長谷川如是閑は、そのような横井の議論が、伊藤博文にも影響をあたえていたのではないかと発言している。横井時雄は熊本藩士横井小楠の長男で、日露戦争当時は衆議院議員(立憲政友会)をつとめていた。寒村も、開戦決定に至るまでの難航にふれている。桂太郎も、また、のちに満洲軍総司令部総司令官をつとめた大山巌も、戸水寛人らの発言にかなり不快感を示していた。明治の指導部は国際情勢を冷徹に見ていたのである。開戦の世論をもりあげた一翼に新聞や民衆がいたことはご存知の通りである。
 聯隊における「動員乞い」もそのような世論にこたえるものだったのだろう。動員前の第七師団にも同様の空気があったと想像する。

鰻屋の団扇の音

 8月17日に第七師団の編成は完了した。その前、8月10日に黄海海戦があり、14日に蔚山沖海戦があり、その二つの戦いで津軽海峡の制海権は確保することができた。ようやく第七師団主力を北海道からはなすことができるようになったのである。湾岸警備は後備兵が引きついだ。
 第一次の総攻撃で日本軍は多大な被害を出したが、それでも、旅順要塞はおとせない。バルチック艦隊はすでにリバウ港をでて、東にむかっている。旅順要塞をなんとしてでも攻略し、旅順港の軍艦を撃破せねば、海軍はバルチック艦隊とウラジオストク艦隊の挟撃に遭う。28センチ榴弾砲という日本の沿岸要塞にとりつけられていた大砲が旅順に運びこまれた。乃木希典は10月25日に第二回攻撃を命ずる。10月26日から30日までの第二回総攻撃も失敗、死者千人、負傷者3千弱を出した。
 第七師団が出征したのはそのタイミングだった。第七師団が旭川から征途についたのは10月27日のこと。第三軍への編入が指示されたのは11月11日、経由地大阪でのことだった。なぜ動員から出征に至るまで3ヶ月もの時間がかかったのか。第七師団を満洲か旅順かどちらに投入すべきか、大本営と満洲軍の間で意見の相違があったという。最終的に大山巌が旅順への投入を決定した。その理由は、旅順陥落が延びれば、海軍の作戦に影響をあたえるというものだった。
 つまり第七師団は旅順攻略の切り札として動員されたのである。「切り札」という言い方は、体裁のよい表現だろう。
 歩兵二十五聯隊の菅という大尉の回想によれば、旅順にまわされる将兵は「消耗品」と呼ばれていたという。「消耗品」という語は、11月11日に大阪で第三軍への編入が言いわたされたところで述べている(『歩兵二十五聯隊史』、1936年)。櫻井忠温が描いたように、まさに、屍山血河を前進し、最後は自らも死んでいく、という意味である。
 第一回と第二回の総攻撃で約10万の兵力が投入された。そこで2万近い死傷者がでた。旅順ではとてつもない戦いがくりひろげられている。
 後の旅順での戦場でのことだが、菅大尉は、負傷した兵が笑みを浮べて前線から後退していく姿を書きとどめている。それは、「旅順の消耗品とならなくて済んで好かった」ということだという。
 この「消耗品」という語に接して思い出すのは、与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」だ。「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」の副題の通り、戦地の弟へおくる詩である。『明星』9月号に掲載された。「君死にたまふことなかれ/旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても、何事ぞ」。身内を戦地におくる身になれば、当然いだく感情だろう。が明治の要路には異なる心理があった。開戦した以上、ロシアと少なくとも互角に戦わねば、日本という国の存立が危ぶまれる。本来は満洲北方にまわすべき第七師団を犠牲にしても、旅順はおとさねばならないのである。

 菅大尉の「実戦談」で注意をひきつけられたのは、機関銃のくだりだ。日露戦でロシア軍は機関銃を使用した。当時、日本陸軍の歩兵に支給されたのは、三十式歩兵銃だった。五連発式だが、一発撃つごとに遊底をスライドさせ薬莢を排出せねばならない。
 菅大尉は旅順ではじめて機関銃の音を耳にした。それは「鰻屋の団扇の音」のようだったという(『歩兵二十五聯隊史』、1936年)。機関銃という武器の存在は、士官学校の教室で教えられてはいたが、その銃声に接するのははじめてだった。将校とて、その程度の知識で、戦場にかりだされていったのである。菅大尉は、その機関銃により左上頭部に被弾する。  
 火力の差は歴然としていた。くわえて、ロシア側には堅固な要塞があった。そこを精神力で攻略するのである。そのような戦場に、歩兵二十五聯隊を含む第七師団は「切り札」として投入されていったのである。


二〇三高地の戦勝記念碑

 旅順停戦後、1905年(明治38年)1月、第三軍が旅順をはなれ北進する際、第七師団は戦死者をとむらうために二〇三高地の西北部に土嚢を積みあげ、木標をたてた。その7年後の1912年(大正元年)8月、その場所に戦勝記念碑がつくられた。上部は戦利の鉄屑を用いて小銃の弾丸を模し、台座は戦利品の大砲の砲架がつかわれたという。「爾霊山」は乃木の揮毫である。この記念碑が完成した翌月、乃木大将は明治天皇をおって自刃した。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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