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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第九回 明治35年、日露戦争前夜

 ペンギンの雪上行進など動物の「行動展示」を見るために旭山動物園には幾度か足をはこんだ。でも、旭川の街の歴史に思いをはせることはなかった。北海道の屋根、大雪山系の水が上川盆地に流れこみ、それが豊かな穀倉地帯をつくりだしている。旭川という街の成り立ちはそのような自然環境によるものと思っていた。軍事都市から始まったという街の来歴を知ったのは数年前のことだった。
 連載の第一回で述べた通り、斎藤史から北鎮小学校に行きつき、そこから、北鎮記念館を訪ねることとなった。その後に読んだ『最強師団の宿命』(保阪正康『昭和史の大河を往く』第五集、毎日新聞社、2008年)で旭川第七師団は「常に最激戦地に投入された」と書かれており、七師団が経験した激戦とはいかなるものだったのか知りたくなった。同時に、その「最強師団」を生みだした街に、戦後、その痕跡がさほど残っていないことにも興味を抱いた。かつて旭川支局に勤務した経験のある元記者も、軍都の歴史には明るくなかった。戦後の旭川から、旧軍の記憶は消えていったのである。
 その歴史を保存しているのが北鎮記念館だ。北鎮記念館は自衛隊が運営する七師団の資料館である。自衛隊旭川駐屯地はかつての七師団の敷地の一部を引きついでいる。
 北鎮記念館の向かいには北海道護国神社がある。札幌にも護国神社はあるが、その名は札幌護国神社である。札幌円山の森にある北海道神宮はいわば北海道の「一の宮」なのに、護国神社はなぜ「札幌」なのか、ぼんやりとだが疑問をもっていた。旭川の護国神社に「北海道」の名がついているのは、北海道初の招魂社が第七師団とともに誕生したからだという事実を、北鎮記念館を訪ねて知った。

無言の教訓

 招魂社は幕末維新期に朝廷側にあって殉じた人々を祭るためにつくられたものだ。1868年(明治元年)に京都東山に霊山が建立され、翌年に、東京の九段に招魂社が設けられた。東京招魂社が靖国神社となるのは1879年(明治12年)のことだ。
 各地にあった招魂社が護国神社と名を改めたのは、時代はくだって1939年(昭和14年)のことである。その時に、道府県に一社を置くこととなり、その道府県名を付した護国神社が地域を代表する護国神社となった。第七師団に併設された招魂社が北海道護国神社となったのもその時のことだ。
 そもそも旭川の地に招魂社ができたのは1902年(明治35年)。札幌月寒から旭川への師団の移駐が決まったのは1899年(明治32年)だ。工事はそれから3年の月日をかけて行われ、明治35年に師団が完成をみたのである。そして、その年に招魂社がつくられた。
 師団の構成は、歩兵聯隊が3個、騎兵、野戦砲兵、輜重兵、工兵が各1個聯隊、さらに師団司令部、病院、監獄、憲兵隊、兵器工場や官舎、加えて火力発電所も建設された。むろん練兵場や演習場もそなえている。そのために500万坪を超える敷地が確保されたのである。師団の将兵は、移駐が完了した明治35年段階でおおよそ1万人である。前回述べた通り、それだけの施設が一ヵ所に集められるのは、日本はもちろんのこと、世界でも稀なことだという。
 『北海道護国神社史』(北海道護国神社、1981年)は、その創祠の背景を、第七師団が他の師団と異なり、「全く白紙の状態から出発し」、「構成員の大部分は将校以下東京以北の内地府県出身で占められていた」ので、なによりも「強固な団結」が求められていたからとする。
 「日露戦争を目睫の間にひかえて、大迫師団長は苦悩した」という。「将卒の団結の精神を涵養するために、……北海道ゆかりの将卒の霊を招いて祭儀を行い、慰霊顕彰するとともに、第七師団将兵に無言の教訓たらしめたい」と思った、と記されている。
 北海道でもすでに徴兵令が施行されていた。しかし、それでは壮丁はまかなえず、本州からも徴募していた。北鎮部隊の内地からの徴兵は昭和期まで続いた。
 「御一新」がなかった北海道の軍隊が、藩を基礎とした内地の軍隊に比べて団結心が乏しかったことはもっともなことだ。慰霊顕彰の目的は、ロシアとの対戦が目の前にせまり、団結心の涵養と、同時に戦闘心を高めることにあったのだろう。
 前述したが大迫尚敏は永山武四郎と同じ薩摩人だ。大迫は戊辰戦争に加わり、御親兵にも参加、彼は新政府に残り、日清戦争参戦後、中将となった。明治33年に永山武四郎の後任として、師団長に任じられている。師団長は中将があたることとなっていた。永山武四郎が少将で師団長をつとめたのは、過渡期の例外的な措置であった。   
 大迫尚敏には、尚克、尚道という弟がおり、尚克は西南戦争で戦死、尚道は同じく軍人として生きた。大迫尚敏は第七師団をひきいて日露戦争に参戦、武勲をたて、大将となる。尚道も大将まで昇進しており、尚敏、尚道は兄弟そろって陸軍大将をつとめたことで知られている。
 第七師団の第一回招魂祭は、1902年(明治35年)5月5日、6日におこなわれている。祭主は大迫尚敏だった。その時の祭神は330柱であったという。内訳は、戊辰戦争戦没者307柱、西南戦争8柱、日清戦争が15柱である。それらの霊はすでに靖国神社に祭られていた。
 招魂祭を開くにあたって、師団の敷地内に招魂斎場が建てられた。その招魂斎場は大倉土木組が寄付したものだった。

丸福旅館の大倉大将

 大倉をめぐる醜聞のひとつが給与地問題だ。1890年(明治23年)上川に神居・旭川・永山の3村が設置されたことはすでに書いた。翌年とその次の年に、屯田兵が入植した、そのこともすでに述べた。1894年(明治27年)、師団と同じ近文に150万坪の給与予定地が設定され、アイヌ36戸に対してその一部が分配されることとなった。しかし、上川のアイヌは狩猟漁労を生業としていたため、転地しない者、農耕に従事しない者もいた。
 大倉喜八郎は、土地を給与される予定のアイヌの人々を饗応し、天塩に転住させるという案を示し、転住願に署名させた。天塩は旭川北部の西海岸の地域。給与予定地は師団と隣接しており、当然、地価の上昇が期待できる。
 その後、この問題は地元の有志が中央政界に陳情し、道庁長官が仲裁にはいり、問題は一旦解決をみるのである。これが第一次近文給与地問題である。
 師団工事をめぐる不正疑惑、さらに、給与地を「飲ます食わす」で入手しようとした手管をみると、大倉喜八郎は悪徳と呼んでもおかしくない商人といえる。確かにそうなのだが、彼の伝記(砂川幸雄『大倉喜八郎の豪快なる人生』草思社、2012年)や小説(江上剛『怪物商人』PHP研究所、2017年)を読むと、大倉が非凡な実業家であったこともまた紛れもない事実であることがわかる。
 むろん成功者を描く物語は、脚色を施したものが多いが、それを割り引いても、時代が戦争へと傾いていくなか、局面局面で果断な行動をとり、つぎの商機につなげていく嗅覚はすさまじいものがある。一大財閥を築き、日本の近代化に貢献した功績も過小評価されるものではないだろう。
 孫文との交友や中国革命への関与、辛亥革命後の中華民国政府への借款提供など、大倉喜八郎という人物は、悪をはらみつつも、大きな胆力をもった商人であったことはまちがいなく、それが人を引きつける魅力になっている。だが、そのような中国革命への傾斜も、その後の中国での事業(本渓湖煤炭公司の設立など)との関連で見ると、商機の一つに過ぎなかったのではないかとも思え、この人物の評価の難しさを感じてしまうのだ。
 先にあげた二例(師団工事、給与地問題)は大倉喜八郎にとっては些事に過ぎなかったのだろう。大倉を「成り金」として否定的に描く論に「無礼千万」とする砂川幸雄とて、この給与地問題は「その輝ける生涯の汚点」と述べている。
 1897年(明治30年)、上川に生まれたアイヌの女性・砂沢クラの自伝『ク スクップ オルシぺ 私の一代の話』(北海道新聞社、1983年)には、その給与地問題が、その後、アイヌ民族間でわだかまりを生み、禍根を残したことが記されている。同書には、子供時代に体験した囚人(赤い人)についての話が紹介されている。心地よい話ではないが、明治期に「川上の人々」が体験した貴重な見聞なので引用しておく。

 石狩川に橋がかかった時のことです。橋のたもとの柱に囚人が縛られていて、首にノコが付けてありました。このノコを一回引いてからでないと橋を渡さない、といったことが行われました。/この囚人は、囚人同士でケンカをして相手を殺してしまったようですが、橋のそばを通りかかった祖母のいとこのトエサンフチは、刑罰のあまりのむごさに、一時は気が狂ったようになり、それがきっかけでイムフチになりました。

 イムフチとは、正常さを失うことのようだ。そのような光景に出くわしたら、おかしくなる人がいるのも当然だろう。これは、佐賀の乱に加わった島義勇の梟首と同じで、反逆の徒と土地の人々への見せしめなのだろう。

 大倉喜八郎は、明治30年代、あまたの会社の経営者として名をつらね、私財を投じて、自身の名を冠した商業学校の設立を進めていた。すでに還暦を過ぎていた。貪欲に利益を追求するよりも、後世に名を残すことに力を注ぐべき時期にさしかかっていた。しかし、給与地をめぐっては、自らわざわざ旭川の丸福旅館に出向いている。
 十分な蓄財があるのだから、そんなことをしなければ良いのにと思うのだが、利を見ると動かずにいられない、この人物の性が垣間見える、そんな事件だ。上川のアイヌの代表者も天下の大倉喜八郎の提案が、よもやあこぎな話のはずはないと思ったことだろう。砂川の前掲書でも、「大倉大将は自分たちアイヌを憐れんで、天塩郡の莫大な土地を与えるからといいながら、文書を出してこれにハンを押してくれと言った」と書かれている。切ない話だ。

招魂斎場と偕行社がつくられた理由

 大倉土木組は、その年に招魂斎場と並んでもうひとつ大きなプレゼントをしている。第七師団というよりも、師団の将校にだ。それは偕行社の建物だった。
 偕行社は1877年(明治10年)に陸軍将校の修養を目的として生まれた組織だ。当初は自由加入であったが、明治14年に誕生した将校組織・月曜会が急成長し、陸軍省は月曜会を危険視、明治22年に解散命令を出した。その前後から、在京の将校は偕行社への入会が強制されるようになった(秦郁彦『日本陸海軍総合事典第二版』東京大学出版会、2005年)。
 明治35年段階であれば、偕行社はすでに陸軍将校の公式的な組織となっていた。そこに、大倉組は建物を寄付したのである。旧旭川偕行社は現在、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館となっている。中原は旭川で育った彫刻家だ。木造の二階建てで外壁は白、玄関とその上部は半円形にしつらえられていて、優美な西洋建築だ。国の重要文化財に指定されている。 
 大倉土木組が一括受注した師団関係の工費は高額で、会計検査院の調査では、管財材料の処置、工事の情況などについて、いくつもの問題が指摘された(示村貞夫『旭川第七師団』総北海出版部、1984年)。しかしその調査は反故にされてしまった。そのことは前回述べた。
 第七師団の周辺には不正の臭いがただよっていた。大倉喜八郎はその醜聞を払拭し、来るべき戦争における利益機会を失わないために、招魂斎場と偕行社の建物を寄付したのだろう。
 偕行社の建物は、戦後、米軍の将校クラブとして使用されていたが、GHQ撤退後、旭川市に移管され、その後、彫刻美術館として生まれ変わったのである。
 彫刻美術館の隣には、井上靖記念館がたつ。井上の父は第七師団の軍医で、彼はこの地で生まれた。同記念館のその先が北鎮小学校である。第一回で書いた通り北鎮小学校は偕行社附属だ。
 大倉商業学校の後身の東京経済大学から『大倉喜八郎かく語りき』(東京経済大学史料委員会、2018年)という講演録が出ている。その冒頭「大倉商業学校生徒に告ぐ」は1900年(明治33年)から1902年(明治35年)の間になされたもので(日時不詳)、先の「莫大な土地」という巧言の後のことだ。
 商業学校生に、英語や国際的な商業感覚の必要性を説き、それ以前に自身が信条とする「守り本尊の四ヶ条」を「服膺して忘れてはならない」と述べている。四ヶ条とは、正直、義務を果たす覚悟、進取の気象、辛抱(忍耐)の四つである。大倉は、この四つを愚直にまもり、明治政府の衝にあたる人々の信頼を勝ち得て、巨万の富を築いた。そこには凡人にはとうてい想像のつかない努力があったはずだ。「守り本尊の四ヶ条」は自戒の念でもあったのだろう。
 話が少し横道にそれたが、このようにして、明治35年の日露戦争前夜、第七師団に招魂斎場と偕行社がつくられたのである。


旧旭川偕行社(中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館)

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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