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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第八回 「川上の人々の集落」につくられた軍都

 6月の札幌の空を「含羞がない」と表したのは渡辺淳一だ。医者として過ごした札幌をどのように描いているのか興味があり、こちらに来た早々に『リラ冷えの街』を読んだ。『リラ冷えの街』は同氏が得意とする婚外恋愛の物語だ。男女の交情が深まりゆく6月の空を、「すべてをさらけだし、含羞がなかった」と形容していた。ヒロインは、その止まるところのない青い空に不安を覚える。道ならぬ関係と、梅雨がなくカラリと晴れた札幌の空がひびきあい、「含羞がない空」という修辞が心に残った。 
 大型連休があけた札幌は、徐々に気温があがっていくが、5 月下旬、ライラックが咲く頃になると、一時寒さがもどる。それを「リラ冷え」という。6 月になれば天候は落ちつき、「恥じらいのない空」がひろがるのである。その空のもとで行われるのが「札幌まつり」だ。
 札幌まつりは北海道神宮の例祭で毎年6月14日から3日間開かれる。最終日の16日に神輿渡御とよばれる巡行があり、神輿や山車が札幌の中心部をねりあるく。北海道神宮や中島公園には屋台がならび、曲芸の出し物やお化け屋敷のテントがはられる。一時代前の芳香がただよう祭りである。
 近年はその後に、よさこいソーラン祭りがあり、夏休み前には、ジャズフェスティバルやパシフィック・ミュージック・フェスティバルという音楽イベントが続き、札幌まつりの有難みはいささか減ったが、かつては、初夏の訪れを告げる一大イベントだった。
 はじめて札幌まつりの山車行列を見た時、「明治の香りがする」と思った。車輪のついた山車を神官の服装の人々がひく。隊列には洋装もあり、馬もいる。どこか、明治の欧化の匂いがするのである。隅田川両岸の神社の祭りや、西日本のそれとは、かもしだす空気が違っている。

開拓三神・カムイコタン・祠

 北海道神宮は北海道の産土神(うぶすながみ)だ。もとよりアイヌの神・カムイが豊穣な世界を有しており、古来よりこの地で祭祀を行っていたことは承知している。アイヌ民族はその祖先を縄文期にまでさかのぼり、日本人の祖形でもある。つまり、アイヌが本家で、弥生文化が混交した和人は分家とも言えるのだ(瀬川拓郎『アイヌ学入門』講談社、2015年)。日本語の神(カミ)はカムイという語と縁戚関係にあるという。
 和人の「開拓」は祭祀とともにはじまった。松浦武四郎は安政年間に石狩大社の創建を構想しており、蝦夷地の開拓には神の奉祀は必須という観念がかねてよりあったのだろう。北海道に産土神をうつす開拓祭典は、1869年(明治2年)に宮中で行われている。神祇官が、大那牟遅神(おおなむちのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の三神を安置し、開拓使の官吏がその三神に拝礼した。その目的は、北方の鎮守、北門の鎮護にあった。
 同年9月に、開拓使長官の東久世通禧は三神の霊代をもって、函館に出発した。東久世は函館にとどまり、判官の島義勇が、その三神を札幌に運んだ。島の後任をつとめた岩村通俊は翌年1870年(明治3年)に札幌に宮をたて三神をまつり札幌神社とした。それが北海道神宮の前身である。その宮をつくった日が、旧暦の6月15日であり、それが、現在の札幌まつりの大祭日となった。
 周知の通り、帝国日本は祭政一致の国家であった。律令制の時代にあった神祇官を復活させている。明治初年は、祭祀を行う神祇官が政務をおこなう太政官より上位にあった。その後、社格をさだめ、神社の序列化がはかられる。札幌神社は「国幣小社」としてスタートした。国幣とは官社のうち地方官がまつる社で、小社はその格がもっとも低いものだ。


北海道神宮

 とはいうものの、北海道における祭祀が、すべて札幌神社のように政府主導で行われたのかというとそうではない。
 例えば、琴似の武早神社は、その地の屯田兵の多数派であった亘理の士族が、その藩祖・伊達成実をまつった亘理神社を分霊しつくったものだ。後に、開拓三神の一つ大国魂神と会津藩祖・保科正之の霊を増祀し現在の琴似神社となった(琴似屯田百年史編纂委員会『琴似屯田百年史』、琴似屯田百年記念事業期成会、1974年)。屯田兵のうち青森出身者の多くは、会津から移封した斗南藩士で、琴似屯田兵にも会津人が少なからずいた。
 これから述べる上川の屯田兵村も屯田兵によって神社がつくられている。上川とは旭川を中心とした北海道の中央部だ。上川という地名は、もともとはアイヌ語で「川上の人々の集落(ペニ・ウンクル・コタン)」の意訳だ。古来、石狩川の上流に住む人々はペニ・ウンクル(川上にいる人)と呼ばれ、石狩川の下流の石狩平野に住む人々はパナ・ウンクルと呼称された。パナは下流の意だという(金倉義慧『旭川・アイヌ民族の近現代史』、高文研、2006年)。
 石狩川は大雪山系を源として、上川盆地で、忠別川や美瑛川と合流し、大河石狩川となって石狩平野を流れる。石狩川が上川盆地からぬけるところに、カムイコタン(神居古潭)という急流がある。そこは川上(ペニ・ウンクル)と川下(パナ・ウンクル)をへだてる場所で、近世に和人が、下流から川上に行くためには、先住民の案内がなければ通れない難所だった。同時に、カムイ(神)が住むコタン(場所)の意の通り先住民にとって聖地であった。
 旭川に屯田兵が入植したのは、1891年(明治24年)から翌年のことである。明治24年に、西永山兵村と東永山兵村が、明治25年に下東旭川兵村と上東旭川兵村ができた。兵村にそれぞれ200戸が移りすんだ。
 永山村は永山武四郎にちなんだ村名である。明治政府は、1890年(明治23年)に、上川の地に旭川村、永山村、神居村の三村を置いた。1887年(明治20年)から市来知から忠別太への本道路の開削がはじまっており、明治22年に完成をみていた。それが低予算でできたのは、「赤い人」、つまり逃亡を予防するために、赤い服を着せられた囚人の労働によるものであったことは幾度か述べた通りだ。その道路により、和人は先住民の先導でカムイコタンの急流を越えるのではなく、道路で「川上の人々の集落」に行くことができるようになったのだ。
 その上川に都市を建設するという計画は、岩村通俊が提案したものだった。1885年(明治18年)に当時司法大輔であった岩村通俊が、屯田兵本部長であった永山武四郎をともなって、近文山にのぼり、幾条もの川が石狩川に合流する広大な平原を見て、ここに一大都府をおくという構想をたてた。その後その地に、皇室の夏の離宮を開くという計画も立ち現れた。
 上川道路の開削は、その上川都府計画が前提となっておこなわれた。離宮構想は、その後、頓挫するが、しかし、帝室用地という考えは、御料地、御料林につながっていく。
 永山武四郎は、上川開発がうごきはじめる1887年(明治20年)から翌年にかけて、アメリカ、ロシア、清国を視察している。その折に、栃内元吉が同行したことは前述した。おそらく永山は、その時、「開拓」、「殖民」そして、そのために必要な軍事という問題について、三国から学ぶことが少なくなかったのだろう。永山は「周遊日記」を残している。
 永山は三国周遊からもどってから明治天皇に屯田兵村の計画を上奏し、明治天皇が、その呼称を「永山村」にするよう指示した。その翌年に旭川村、永山村、神居村の三村が開かれたのだ。
 和人入植前、上川には先住民が3グループあり、それぞれのグループには100人ほどの人々が暮らしていた。上川のアイヌもまた、狩猟と漁労を中心とした生活をしていた(瀬川拓郎『アイヌの歴史 海と宝のノマド』、講談社、2007年)。そこに、一兵村200戸、つまり、4兵村800戸の和人が入植してきたのである。またたくまに、先住民と入植者の人口比が逆転してしまう。その10年後には、第七師団が移駐し、万をこす軍関係者がその地に暮らすようになる。軍都旭川の誕生である。19世紀の終わりから、20世紀の初頭にかけて、上川にはすさまじい変化の波がおしよせた。そのことによって、先住民の生活が脅かされたことは容易に想像がつく。
 産土神の話にもどる。永山兵村ができた年に兵村には小さな祠がつくられた。岡山出身の屯田兵が氏神である天照大神と大国主神をまつったのだ。そして、1920年(大正9年)の開村30年を記念し、永山武四郎を祭神として、社は建てかえられることとなる。祭神の名をとって永山神社と名づけられた。永山神社の前身は小さな祠であったという。明治初年、和人が入植した地には、棒杭や切り株を、神にみたててつくられた祭祀の場も多くあったという(『札幌の寺社』さっぽろ文庫39、北海道新聞社、1986年)。「開拓」のための神の奉祀は国家主導だけではなかったのである。

軍用達・大倉組と第七師団

 永山武四郎が薩摩に生まれた同じ年(1837年(天保8年))、越後の新発田で生をうけた人物がいた。一代で巨万の富を築き上げた大倉喜八郎である。大倉が軍御用達として事業を成長させたことはご存知の方も多いだろう。18歳で江戸にでた大倉は鰹節屋の丁稚見習いとして働き、3年後に独立し乾物屋を開く。しかし、横浜で黒船を見て乾物店を廃業し、鉄砲の商売をはじめるのである。黒船から戦争の予兆をかぎとったのだ。戦争商人・大倉喜八郎の面目躍如たるエピソードである。
 では大倉喜八郎が今号の主題たる「川上の人々の集落」(上川、そして旭川)とどのような関係があるのか。旭川にできた第七師団の敷地と建物の工事を一手に引きうけたのが大倉土木組であった。関わりはもう一つある。第七師団に隣接する近文の地が、上川に住む先住民に給与されることとなっていた。その土地を、大倉喜八郎が甘言を弄して取得しようとしたのである。近文給与地問題だ。その話をする前に、そもそも、第七師団がなぜ旭川に移駐することとなったのか。さらに、大倉がどのようにして、第七師団の工事を請け負うようになったのか、その話をしておかねばならないだろう。
 第七師団は1896年(明治29年)に月寒の地を衛戍地として誕生した。その3年後に正規師団に改まるのに伴い、移転が決定された。それは前号で触れた第二十五聯隊の聯隊旗授与の前年のことだ。第五回「万やむをえざる政略」で述べた通り、七師団ができる10年前から、屯田兵は順次道東へ入植していた。師団創設の当初から、その衛戍地を札幌にするか、上川にするか議論があった。一旦置いた師団司令部を上川に移した理由は、岩村、永山の上川都府構想もあり、この地が北海道の中央部にあるので、一朝事ある時、沿岸部に出動しやすいという地の利があったと考えられる。
 大倉喜八郎に話を戻す。
 1868年(明治元年)、銃砲店大倉屋は維新政府の兵器糧食の御用達となった。翌年には、津軽藩(官軍)の注文にこたえて、鉄砲を船で津軽まで運んでいる。函館戦争で官軍は勝利、大倉は明治政府の信頼を勝ちえることとなった。大倉は台湾出兵、西南戦争、日清戦争と兵站業務を含めてよろず軍の仕事を請け負うこととなる。
 明治政府との関係は、1872年(明治5年)の彼の洋行で強固なものとした。岩倉使節団の後をおって、大倉も米国、欧州をまわり、パリやロンドンで木戸孝允、大久保利通等と交流を深めたのである。鉄砲での商いの稼ぎを旅費に投じた。その目的には政府高官との関係構築もあったのだろう。
 大倉は土木事業にもいちはやく乗り出していた。明治初年、新橋駅の建設工事を一部請け負い、翌年には銀座大火後の復興にも関わっている。宮城集治監の建設も大倉組がおこなっており、その延長で、北海道の樺戸集治監の建設にも携わった。広く知られている通り、鹿鳴館や帝国ホテルの建設も大倉組であり、後者はその経営も同社である。
 第七師団の建設がはじまったのは、1899年(明治32年)のことだった。すでに上川には支庁ができており、その長が用地買収にあたっていた。明治32年2月に地権者をあつめて、買収の協議をはじめた。それは陸軍省によるかなり強引なものであり、地主側に大きな不満を残したことが記録されている(『新旭川史三』第三巻(通史三)、旭川市、2006年)。
 第七師団の用地は約540万坪という広大なもので、そこに3個の歩兵聯隊(二十六、二十七、二十八)と騎兵、工兵、輜重兵がそれぞれ一聯隊ずつ駐屯するのである。ほかにも、馬場や病院、監獄、憲兵隊、兵器廠などがつくられた。そして、幾度も述べた通り、七師団の隷下の4歩兵聯隊のうち二十五聯隊のみが月寒に残ったのである。旭川市史には「このように大規模な軍団が一ヵ所に集中して存在するのは日本だけでなく世界でもまれなことであった」と記されている。
 明治時代とて、官庁の仕事は入札だ。しかし、この工事は随意契約となった。その理由は、北海道内陸部は交通が不便であり、資材の輸送、労働者の確保が難しいから、とされた(『新旭川史三』第三巻(通史三)、旭川市、2006年)。
 大倉組による独占は、地元の土木建築業者を憤慨させた。東京の大倉組が一括受注したとしても、現場の仕事は、地元の業者が請け負わねばならないからだ。大倉組への発注は事前に決まっていたことなのだろう。喜八郎は、工事契約時の陸軍大臣・桂太郎とも懇意だった。
 第七師団の総工費は1899年(明治32年)から4年間で、約330万円にのぼった。新聞で不正疑惑が報じられ、会計検査院が調査に入り、資材に工事といくつもの問題が指摘された。会計検査院は、最終的に大倉組が130万円あまりの損失を国庫に与えたと判断した。つまり、実際の工費は200万円に過ぎなかったというのである。総理に就任していた桂太郎の責任が追及され、決算委員会は上奏文を可決したが、しかしそれは、うやむやのうちに葬りさられた。戦前に編まれた道庁の通史はこの一件を、「猶一抹の汚点は、消失せざるものがあった」と述べている(『新撰北海道史』第四巻(通説三)、北海道庁、1937年)。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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