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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第七回 第七師団第二十五聯隊の誕生

 永山武四郎が責任者を務めていた屯田兵司令部も札幌の要路・札幌通(北3条通)にあった。現在の住所でいえば北3条東1丁目、つまり創成川を渡ったところである。永山邸はそれよりも東、東6丁目となるので、毎朝自宅から5丁ほどを西に通っていたことになる。
 その屯田兵司令部が、第七師団司令部となったのは、1896年(明治29年)のことだ。そして、その時に兵営が、司令部の東南4キロほどのところにある月寒に置かれたのである。その年号を見れば、屯田兵が師団になった理由がお分かりになるだろう。そう、下関条約が結ばれた翌年のことである。下関条約では、清国から日本へ遼東半島が割譲されたが、ロシア、フランス、ドイツの三国の要求により、その地は清国に返さざるをえなくなった。それを主導したのがロシアだった。三国干渉により、ロシアは再び日本の「仮想敵国」となった。北海道における師団の誕生は、まさしくロシアへの防備のためだった。

13師団体制に

 第七師団創設の話をする前に、日清戦争について述べておいた方がよいだろう。基本的史実をおさえつつ、日清戦後の「北鎮」の意味を確認する。
 明治政府にとって朝鮮は、隣国であり大きな関心事であった。朝鮮が、清国と冊封関係にあったことが一つの理由だ。1876年(明治9年)に日朝修好条規が調印され、朝鮮は開国する。しかし、日本への対応をめぐって政変がおき(壬午軍乱)、一部の勢力があらためて清へと依存する。他方、内部には、日本の力を利用して近代化をはかろうとする勢力もおり、クーデターを起こすが、清軍が出兵する。甲申事変である。
 清国との関係修復のために1885年(明治18年)に交わされたのが天津条約だ。この条約により双方は朝鮮より撤兵し、今後、出兵する際は、事前通告を約束した。日本には、朝鮮の開国を成し遂げたのは自分たちだという自負があった。それゆえに、一連の事件は、朝鮮への影響力の後退として受け止められた。
 1894年(明治27年)に東学という宗教の信徒による反乱が起こった。農民戦争というとらえかたもある。清国は出兵、天津条約に基づき、日本も兵を出した。それを機に、日清は交戦状態となった。
 戦局は日本の有利に展開し、戦線は朝鮮半島から遼東半島へと移り、遼東半島の東の黄海では、清の誇る北洋艦隊が沈没、その根拠地であった山東半島の威海衛を占領し雌雄が決せられた。1895年(明治28年)4月17日、下関で講和条約が締結される。その条約で、朝鮮の独立、遼東半島及び台湾、澎湖島の割譲、さらに賠償金の支払いが決まった。その遼東半島の割譲に、露、独、仏が待ったをかけたのである。
 日本国内では戦争終結前から、戦後の軍備拡大についての議論がなされていた。改進党の総理であった大隈重信は、雑誌に満洲をまもるための軍備増強を投稿している。 山県有朋は、講和条約が締結される二日前の日付で、「兵備ヲ設クルニ付テノ奏議」をあげている(伊藤博文編『秘書類纂 兵政関係資料』原書房、1970年)。
 そこで山県は明治初年以来の軍の整備を振り返り、さらに、ロシア、英国など隣邦の兵備を分析し、日本の軍備が不十分であると主張している。ロシア、英国などを「隣邦」と称していることに違和感をもつ読者もいることと思うが、ロシアがウラジオストクに軍港をおき、イギリスが香港に万の兵を有している周辺環境を指している。
 山県は「今後一タビ平和ノ復スルニ至ラバ復タ現在ノ兵備ヲ以テ満足スル能ハザルヤ明カナリ」という。そして、「我ガ国ハ今回ノ戦争ニヨリテ新領地ヲ海外ニ収得スルナルベシ」というのだ。つまり、海外への拡大を主張するのである。それはなぜか。清国は必ずや軍を整備する。さらに利害を東洋に有する列強も、「悉ク其政策ヲ一変シ、其東洋ニ於ケルノ兵力ヲ増加スベキヤ必セリ」というのだ。そこから、「主権線ノ維持」から「利益線ノ開帳」へという政策転換が示される。主権線とは、現在の日本の領土ということとなる。それをまもるためには、より拡充した兵備をもって、利益線を構築する必要があるというのだ。奏議の後段で、山県は軍備拡大の具体案を示す。山県の中には、この段階で「利益線ノ開帳」を行わねば、「主権線ノ維持」ははかれないという現実認識があった。
 下関条約締結の8日後の4月23日に三国は遼東半島の還付を要求する。そして、同年11月8日に遼東半島還付条約が締結されるのである。そして、日清戦争によって、清国が弱体化していることを知った列強は、清に勢力を拡大、ロシアは日本が返還した遼東半島の旅順、大連を租借する。ロシアへの強い反発が生まれ、「臥薪嘗胆」が叫ばれた。
 日清戦争開戦以前、政党は政府批判をおこない、民権の拡大を主張していたが、開戦後は変心、三国干渉後は、国権の拡張をもとめる世論が沸き起こる。それが、戦争を支持する空気をつくりあげていく。そして、その世論形成の上で、勃興し始めた新聞が大きな役割をはたした(稲垣武「日清戦争前後の世論の推移」『近代日本戦争史 第一編――日清日露戦争』同台経済懇話会、1995年)。そのような構図は、その後の戦争も同様であった。
 軍備の拡大は、山県以外にも児玉源太郎も提案しており、政府部内で検討された。最終的に、近衛師団(御親兵)と六師団(旧六鎮台、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)に加えて、七から十二の師団が増設されることとなった。それが、七師団(札幌)、八師団(弘前)、九師団(金沢)、十師団(姫路)、十一師団(善通寺)、十二師団(小倉)であり、近衛を含めて13師団体制となったのである。
 それが、屯田兵が師団に生まれ変わった経緯だが、実は屯田兵はすぐに第七師団となったわけではない。日清戦争がはじまった折に、臨時第七師団が編成され(明治28年3月4日)、26個中隊、人員4000名が召集されたのだ。臨時師団長を務めたのは永山武四郎だった。
 だが、臨時第七師団が戦場に赴くことはなかった。東京で待機している間に講和条約が結ばれ、1895年(明治28年)5月15日に復員命令が出されることとなる。臨時師団は5月20日に青山練兵場に集められ、復員が告げられた。青山練兵場は、現在の神宮外苑、つまり、聖徳記念絵画館の前の土地である。その後、その場所で明治天皇は、幾度か閲兵を行っている。そこには今も「御観兵榎」がたつ。現在の榎は、後年植え継ぎされたものとのことだが、青山練兵場での観兵の際は、ここに御座所が設けられていたという。


神宮外苑の観兵の榎

 その復員の翌年1896年(明治29年)5月12日に臨時第七師団が第七師団となったのだ。ただし、屯田兵の全員が師団に移ったわけではない。徴兵で徴募した兵もいた。
 北海道では、本州に遅れて1887年(明治20年)1月に、函館、江差、福山に徴兵令が施行された。1896年(明治29年)1月には、渡島、後志、胆振、石狩にも敷かれた。後者はまさに師団結成のための準備だった。北海道の人口は明治21年に35万人をこえ、開拓使当初から人口は倍増、明治26年には56万人となっている。北海道に徴兵令が施行されたのは、ある程度、壮丁が徴募できるようになったことも一因であった(『新旭川市史』第三巻、通史三、旭川市、2006年)

丘のはずれの下り坂

 ではなぜ七師団の兵営が、札幌の東郊・月寒の地にできたのか。
 札幌は豊平川の扇状地にできた街だ。豊平川は札幌の南西を水源として、市の東を流れ、東北に抜けて石狩川に合流する。中流部にはダムがあり、札幌市民はその水や電気を利用している。札幌にとってなくてはならない川だ。
 現在、月寒がある札幌の豊平区は、豊平川の東に広がる行政区だ。その地区が札幌市に編入されたのは戦後のことである。かつては豊平村だった。豊平村の月寒に開拓民が入植したのは1872年(明治5年)、開拓使が誕生して間もない頃だった。この連載の第二回「サンクトペテルブルクからの報せ」で触れた琴似屯田兵村が開かれる前のことだ。
 岩手県の士族40戸あまりが、千歳道に入植したのである。千歳道とはケプロンが建策しできた札幌本道の一部である。現在の国道36号線のことで、札幌駅を起点とすると、すすきのまで南へすすみ、そこで進路を東にかえて、千歳、室蘭へ至る道路だ。
 つきさっぷ(月寒)という地名は、それがアイヌ語であることはわかっているが、原義には諸説がある。ひとつは、「チ・キ・サ(小さいサ)・プ」というもの。「われらが木をこするもの」という意味で、月寒には、アカダモの木が密生しており、その木片で火をとることができたことが由来だという(豊平町史編纂委員会『豊平町史』、豊平町役場、1959年)。
 もう一つ「チ・ケシ・サプ(プは小さいプ)」は「丘のはずれの下り坂」という意味だ(札幌市教育委員会文化資料室『札幌地名考』さっぽろ文庫、北海道新聞社、1977年)。月寒は高台になっている。軍の施設の多くは高台にある。水害などの自然災害を避けるためである。東豊線の月寒中央駅の一つ手前・美園駅から、月寒へと歩いていくと、室蘭街道(36号線、千歳道)の坂を登らねばならない。月寒が坂の上にできた街だということが実感できる。私の体感としては「丘のはずれの下り坂」のほうが近いように思うのだが、どちらが正しいのかはわからない。
 アイヌ語の名前を付したということは、その地に先住民がいたということだろう。豊平町の歴史をひもとくと、1878年(明治11年)に教育所が誕生、さらに、1882年(明治15年)にはレンガ工場もでき、その2年後に神社が創建され、1885年(明治18年)には戸町役場もできる。小さな町として、都市機能が備わっていくのである。
 月寒に兵営ができたのは、その地にいた開拓民・吉田善太郎が低廉で土地を提供したからと伝えられている。当時編成されたのは、歩、工、砲からなる、野戦独立隊だった。野戦独立隊は、日清戦争の戦時にあわせてつくられたものだ。日清戦後の1899年(明治32年)に野戦隊が解体され歩兵聯隊として生まれ変わるのである。それが、二十五、二十六、二十七、二十八の4聯隊だった。

聯隊旗奉迎

 ここで前回触れた「軍人勅諭とならぶもうひとつの装置」の続きをする。第二十五聯隊が「天皇の軍隊」となるのは、1900年(明治33年)のことだった。その年の12月22日に、明治天皇から聯隊旗(軍旗)を受け取るのである。
 第二十五聯隊の歴史をつづった『歩兵第二十五聯隊史』(1936年)の最初の記述は、この「軍旗拝受ノ次第」である。聯隊旗手・松本小次郎を含めた5名は、軍旗を受け取るため12月13日の朝、札幌を離れた。上野に到着したのは2日後の15日だった。18日に陸軍省に赴き、授与式に関する達文を受ける。12月22日、一行は「斎戒沐浴シテ正装ヲナシ」皇居へ出向く。「天朗カニ、気清ク、天亦此佳辰ヲ祝スルモノノ如シ」だったという。
 聯隊旗は天皇から「親授」されるものだ。陸軍の軍旗、つまり旭日旗が、法令として制定されたのは、1874年(明治7年)のことだ。その「親授」は、その年の1月23日、近衛歩兵第一、二聯隊に対しておこなわれたのが最初だ。場所は、日比谷の操練所、現在の日比谷公園である。
 聯隊旗には、聯隊の番号も「親筆」されている。第二十五聯隊に授与された際も、明治天皇は聯隊旗に会釈し、さらに、旗頭より旗尾までを熟視の上に総務長官に渡し、それを旗手・松本小次郎が受け取ったと書かれている。つまり、軍旗は天皇の分身とも言えるものなのだ。それゆえに、聯隊旗も軍人勅諭と同様に、後年その神格化が深まっていくことになる。
 拝受した軍旗をもって一行は、上野駅から帰路についたと「軍旗拝受ノ次第」は述べる。「沿道至ル所盛ナル奉迎送ヲ受ケ」たという。一行は、青森から船で函館を経て室蘭へ。室蘭から炭鉱鉄道で札幌へ向かった。沿道は、「各駅至ル所村民総代小学生徒其他地方有志家ノ奉迎アラザルハナク、或ハ君ケ代ヲ唱歌シ或ハ万歳ヲ三唱シ実ニ誠意ヲ以テ我軍旗ヲ迎へタリ」という様相であった。
 師団長の大迫尚敏は途中駅まで迎えに来ていた。大迫尚敏はその年の4月に、永山武四郎の後任として第七師団長に就いていた。大迫も、永山同様薩摩人だ。永山武四郎は札幌駅で待っていた。当時の人々が軍をさらに軍旗をどのように認識していたのか、その一端が理解できるので、長くなるが、札幌駅で軍旗が「奉迎」された折のくだりを引用する。

 軍旗ノ停車場ヲ出ズルヤ停車場前ハ奉迎市民恰モ堵ノ如ク、而モ喧騒ニ亘ラズ粛然トシテ敬意ヲ表シ実ニ誠意ヲ以テ神聖ナル軍旗ヲ奉迎スルノ状ヲ呈セリ。東側ニハ隊外将校及歩兵第二五(=二十五‐引用者)聯隊西側ニハ各学校生徒列ヲ正シ嚠喨タル「足曳」ノ喇叭ト共ニ軍隊ハ軍旗ニ対スル敬礼ヲ行ヒ、各学校ハ亦最敬礼ヲナス。全市街ハ戸毎ニ国旗ヲ掲揚シテ敬意ヲ表シ或ハ大緑門ヲ造ル等実ニ市民ノ歓呼シテ然モ厳粛ニ軍旗ヲ迎フルノ状壮観ヲ極ム。軍旗ハ停車場通北一条通リ右へ聯隊区司令部ニ至リ是ニ旗手ハ軍旗並ニ勅語書ヲ師団長ニ呈ス。聯隊長渡邊中佐ハ札幌練兵場ニ於テ雪積ヲ踏ミテ師団長ヨリ軍旗及勅語ヲ受ケ聯隊長又奉答シ是ニ芽出度軍旗授与式ヲ終リ聯隊ハ軍旗ヲ押シ立テ第五中隊軍旗中隊トナリ堂々兵営ニ帰還ス。此レ正ニ明治三十三年十二月二十五日ナリ(歩兵第二十五聯隊『歩兵第二十五聯隊史』1936年、旧字は改めた)

 「足曳」は陸軍の軍旗に関わる儀式で演奏される敬礼曲である。緑門とは、昔の写真などで目にした方も多いと思うが、祝賀時に青葉でアーチをかざった門のことである。
 「軍旗ヲ押シ立テ……堂々兵営ニ帰還ス。此レ正ニ明治三十三年十二月二十五日ナリ」、そのようにして、第七師団歩兵第二十五聯隊は月寒の地に誕生したのである。聯隊長渡邊中佐は、その後、日露戦争で二〇三高地の突撃をはかる渡邊水哉だが、その話は後日することとなる。

北に向けて葬れ

 最後に、永山の末期についても触れておきたい。永山は第七師団創設後、1902年(明治35年)に後備役につき第一線からはずれる。翌年には貴族院議員となる。その翌年(1904年、明治37年)、貴族院議会出席のため上京した折に倒れ、息をひきとるのである。永山はかねてから、遺体は北海道に埋葬しろと述べていた。しかし、どのように語ったのか一次資料はみつからなかった。高安正明の書には以下のよう書かれている。

 おれの遺骸は札幌の豊平墓地に北に向けて葬れ。北海道の土となってロシアから守るのである(高安正明『よみがえった「永山邸」――屯田兵の父・永山武四郎の実像』共同文化社、1990年)

 北3条通にある永山邸内におかれた説明パネルには、以下のように書かれている。

 屯田兵に対して「お前たちは北海道の土になれ、私も土になる」と常日頃から励ましてきた、「死後わが身を札幌に生めよ、死してなお北方を守らん」と語っていた。

 さすがに札幌市運営の施設なので、具体的な国名はあげていない。

 栃内元吉が著した「略伝」には、永山が「北海道ヲ以テ埋骨ノ地ト定メ」ていたことは述べられているが、それ以上の記載はない。
 豊平墓地は後に再開発で掘り返され、その一部が里塚霊園に改葬されたが、豊平墓地の永山の遺体は確かに北に向けて葬られていたという。
 上記の話が本当であれば、永山の後半生は「北鎮」を目的としたと言える。というよりも、薩摩人・永山は開拓使の官吏として、東北諸藩の士族(屯田兵)を従えて、かつての領袖西郷と戦わざるをえなかった。その矛盾を超えるためには、「北海道ヲ以テ埋骨ノ地ト定メ」るしか、自らを律する道はなかったのだろう。永山武四郎は北海道を「墳墓の地」としたのである。
 永山の葬儀は、「永山邸ヨリ豊平橋ニ至ル十数町ノ道筋ハ人垣ヲ作リ、往来途絶スルニ至ル」という様子だったという。続けて栃内元吉は以下のように書いている。「会葬セル故老感極リ涙ニ咽ヒテ曰ク、徳孤ナラス、之レ将軍ノ謂ヒナリ、今日此盛葬ヲ見ル要スルニ皆故将軍カ遺徳ニ外ナラス」(『男爵 永山将軍伝』北海道大学図書館蔵、1940年)。当時の札幌の人々にとって、北海道開拓における永山の功績は大であり、それは彼の人徳によるものという認識があったのではないか。
 1900年(明治33年)12月25日、札幌駅にたつ永山武四郎が、明治天皇の親筆のある聯隊旗の背後に見たものは何か。西郷隆盛や盟友・永山弥一郎の姿ではなかったか。
 北海道を墳墓の地としたのは他の開拓民も同様であり、さらに、集治監の囚人も同じであった。北海道を「北門の鎖鑰」とするため外役を強いられた囚人が、鎖をつけられたまま道端に埋められていたことは、第五回「万やむをえざる政略」で述べた通りである。


里塚霊園の永山武四郎の墓

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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