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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第六回 軍人勅諭にこめられたもの

 前回、永山武四郎の忠節について述べた。戊辰戦争で会津攻略を行いながらも、開拓使に出仕してから西南戦争では会津兵を含めた屯田兵を率いて西郷軍と戦った。その後、北海道を永住の地とした。藩から中央政府へ、忠誠の対象が変わったのである。それが、「永山一個ノ身体ニ非ス国家ニ捧ケタル身体也」の意味である。この問題を考える前提として、今号では「北鎮」から少しはなれて、「軍人勅諭」を見ておきたい。軍人勅諭は、その名(「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)の通り、陸海軍人の精神的支柱をなすものだからだ。

兵馬の大権

 旧軍の特徴をひと言でいうと「天皇の軍隊」ということとなる。軍隊の指揮権(兵馬の大権)は天皇に帰属する。明治憲法において天皇の大権は、国務、皇室、統帥、祭祀、栄典授与の五つだ。国務は元首としての統治権である。皇室は、天皇の家長としての権限をいう。そして、統帥は軍人に対する命令権、軍令となる。国務と皇室には輔弼機関がある。国務大臣と宮内大臣である。しかし、統帥権には輔弼機関がなく、政府から独立している。大日本帝国憲法11条では「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とうたっている。
 統帥権と一対となる概念が帷幄上奏権だ。「帷」は垂れ幕、「幄」は引き幕のことで、軍事における陣営、本陣をさす。帷幄上奏権とは、軍部が直接、天皇に奏聞することができる権利をいう。つまり、明治憲法下においては、軍事にかかわる指揮命令権は、軍と天皇が直接につながっていた。日本国憲法66条2項で規定されている文民統制(シビリアンコントロール)とは隔たった考えだが、そのような制度がなぜ生まれたのか。
 この天皇の指揮権・兵馬の大権という概念が提示されたのが、1882年(明治15年)1月に公布された軍人勅諭なのである。勅諭は、太政官から出されたものではなく、天皇が直接下賜するという形式をとった。教育勅語と同じである。それゆえに、後年、勅諭は神格化され、陸軍では全文の暗誦が義務づけられ、「勅諭」という語が上官の口から発せられると不動の姿勢をとらねばならなかった。誤読し自決した将校もいたという(秦郁彦編『日本陸海軍総合事典第2版』東京大学出版会、2005年)。勅諭の神格化は常軌を逸することとなった。

急務だった軍紀の確立

 軍人勅諭の成立の背景に軍紀の確立があったことは、軍事史研究でとかれている(戸部良一『逆説の軍隊』中央公論社、1998年)。ここでは、先行研究と、新政府における明治天皇の位置を確認しながら、兵馬の大権について考えてみたい。
 軍人勅諭は、前文と5つの条文で構成されている。前文の冒頭で「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所そある」と述べる。つまり、神武の代より、軍隊は天皇が掌握してきたというのである。しかし中世にいたると、昇平(代々の太平)がつづき朝廷も文弱にながれ、兵農が分離した。さらに、兵権も武士にうつり、政治の大権も武士にゆだねられた。しかし、明治維新で王政復古となり、兵馬の大権は、改めて「朕か統ふる所」となったというのが前文の趣旨だ。
 後段では、朕(天皇)が軍人に「訓諭(おしえさと)すへき事」として、五つの徳目があげられる。それは、「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」である。軍隊において、忠節や武勇、信義といった徳目が重要であることは容易に理解できる。軍隊はタテの序列の組織で、上官の命令に疑問をもったとしても、その命令に従わないと、軍の作戦行動は実行できないからだ。
 武士の世とて同じではないかというとそうではない。武士には、上下の位階があった。知行によって身分は異なる。隊の編成においても、当然そのような上下関係は影響する。足軽出の上官のいうことを、家老職の家の兵が聞くことはない。そもそもそのような編成にはなりえない。しかし、近代軍は国民軍であり、そのような身分秩序があっては戦えない(ただし皇族軍人は別)。四民平等を旨とし、徴兵令をしいた理由はそこにある。
 新政府は明治初年に御親兵をおいた。それが近衛兵になった。さらに、各地に鎮台をつくった。しかしそれは近代軍といえるものではなかった。西南戦争後におこった竹橋事件を見れば、そのことは明らかだ。竹橋事件とは、西南戦争に参戦した近衛兵が、反乱を起こした事件だ。御親兵を嚆矢とする近衛兵は、徴兵によるものではなく壮兵だった。それゆえ彼らはプライドが高かった。
 その近衛の砲兵が西南戦争の論功行賞に不満を持ち、強訴を計画した。駆けつけた大隊長等は殺された。反乱兵は、近衛歩兵に同調を求めたが、逆に衝突がおこる。行く先を仮皇居がおかれていた赤坂に向けたが、結局とりおさえられた。死刑55名を含む400名近くが処罰されている。
 西南戦争の維新政府軍の勝利は、大砲によるものが大きかったという。近衛砲兵にはみずからの功が大であったという自負があった。しかし、論功行賞は将校が先行され、砲兵にはなかなか来ない、そのことに不満を抱いたのである。新政府は、新たに設置した中央直轄軍の核となる近衛兵から蜂起がおこったことに強い危機感をもった。それが、50名以上の死罪にあらわれている。
 佐賀の乱、西南戦争、そして、竹橋事件から見えることは、新政府にとって軍紀の確立が急務であったということだ。それゆえに、永山武四郎に見られるように、忠節をまっすぐに明治政府に向けるという精神が、なによりも求められたのである。軍人勅諭の力点を時代背景で読むと、それは、前文よりも、後半の五ケ条にこそあると言える。

「天皇の軍隊」の成立

 では、それを天皇が「勅諭」という形で下賜するとはどういうことか。明治天皇は京都の御所の大奥で育った。孝明天皇が死去した時わずか14歳だった。
 神宮外苑にある聖徳記念絵画館には、明治天皇と皇后に関わる絵画が80点展示されている。その中の一枚「践祚」(川崎小虎画)に描かれた睦仁の顔には、白粉がぬられている。舞台は1867年(慶応3年)、京都御所、孝明天皇が死んでわずか2週間後のことだ。


明治神宮外苑の聖徳記念絵画館

 同年の「王政復古の大号令」で新政府が樹立されるが、その折の小御所会議で、土佐藩主・山内豊信が「幼冲の天子」と称したことは広く知られた話だ。その幼君が、半世紀あまりの在位で「大帝」と言われるまでになったのである。
 伊藤之雄『明治天皇』(ミネルヴァ書房、2006年)を読み、明治天皇が微妙な立ち位置から調停役として自らの存在をしめしていったその過程が理解できた。明治天皇は大日本帝国憲法の発布までは、国家の意思決定の蚊帳の外におかれていたことも知った。
 先にのべた軍人勅諭発布の前年の東北北海道巡幸と「明治14年の政変」においても明治天皇はいかなるイニシアティブも発揮していない。睦仁は1881年(明治14年)7月30日から10月11日まで、山形、秋田、さらに北海道を巡幸する。随員は350名に上った。その中には黒田清隆も大隈重信もいた。巡幸途中に、明治14年の政変がおきるのである。なお、その北海道巡幸で札幌の町名が改められたことは前号で述べた通りだ。
 明治14年の政変とは、黒田清隆が、開拓使の官有物を彼の部下や政商に低額で売りさばこうとし、それを、新聞や世論が非難した、それが官有物の払い下げ事件だが、結局払い下げは実行されず、新政府は、その機に乗じて議会の早期開設を訴えていた大隈重信を追放し、反対に政府から国会開設の勅諭を出すのである。
 問題が発生し、収束するまで、明治天皇は巡幸中であり、政変の収束過程にはまったく関わっていなかった。大隈罷免の意思決定は、明治天皇が東京にもどる4日前に決せられている。
 聖徳記念絵画館には、この東北北海道巡幸の絵も二点ある。一つが、山鼻屯田兵村を通過する明治天皇だ(「屯田兵御覧」高村真夫画)。もう一つが、秋田の院内鉱山の参観(「鉱山御覧」五味清吉画)である。睦仁が鉱山を見学したのは、1881年(明治14年)9月22日のことだった。鉱山入口に立つ天皇の後方には、大隈重信が描かれている。大隈は睦仁からかなり後ろに立ち、彼の顔には他の人物と異なり光があたっている。画家の五味清吉はそこに、無垢なる睦仁と、深慮遠謀をいだく大隈という対照を描こうとしたのではないかと読める。
 政変が収束し、国会開設の勅諭が出されるのが10月12日だが、それを明治天皇が「嘉納」したのは、帰路についてからのことだった。
 軍人勅諭とて同様だ。勅諭は山県有朋が提案し、西周、井上毅、福地源一郎等が作成した。明治天皇はそれを大山巌に下賜したのである。その時の「軍人勅諭下賜」の絵(寺崎武男画)も聖徳記念絵画館の80点の一つにある。
 軍人勅諭の内容は、竹橋事件の直後に山県自らが発した「軍人訓戒」とほぼ同じものだ。しかしそれを「勅諭」という形で下賜することが、なによりも重要だったのである。それによって、「天皇の軍隊」という仮構が生まれることとなる。

陰険の挙

 王政復古の大号令が話し合われた小御所会議で、山内豊信は新政府が、大政奉還を表明した徳川慶喜を排除したことに憤り、以下のように発言したという。「幼冲の天子」のくだりを含めて引く。

 慶喜、祖先依頼の覇業を擲ちて大権を奉還す、その功実に大なり、然るに二三の公家、幼冲の天子を擁し、陰険の挙を行はんとし、全く慶喜の功を没せんとするは何ぞや(『明治天皇紀』第一巻、吉川弘文館、2000年)旧字は新字に改めた

 対して、岩倉具視は以下のように反論した。

 今日の挙は一に皆聖断に出でざるはなし、何ぞ其の言を慎まざるや

 その後岩倉は、慶喜は政権の空名のみを奉還しただけで、領地人民は有している。「其の心術尚許し難きものあり」というのである。
 岩倉の死後、1906年(明治39年)にあまれた『岩倉公實記』には、小御所会議で、岩倉が山内豊信に以下のように語ったと記載されている。

 聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ今日ノ挙ハ悉ク宸断二出ツ妄二幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ竊取セントノ言ヲ作ス何ソ其レ亡礼ノ甚シキヤ

 豊信はその言に「恐悚シ失言ノ罪ヲ謝ス」と書かれている(多田好聞編『岩倉公實記』中巻、原書房、1968年)

 しかしこの「岩倉の一喝」は、後年の捏造の可能性が高いというのである(高橋秀直「『公議政体派』と薩摩倒幕派」京都大學文學部研究紀要41号、2002年
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/73103/1/KJ00000077891.pdf)。
 聖徳記念絵画館には、この小御所会議を描いた絵(王政復古)もある。右方に坐る岩倉具視が右手を伸ばして、左方に坐る山内豊信に詰めよっている。山内豊信はいささか動揺した様子だ。作者の島田墨仙はこの『岩倉公實記』の「亡礼」のくだりを描いたのだろう。中央の御簾の奥には、幼少の明治天皇が座っているが、強調された遠近法で描かれており、その表情は判じがたい。
 王政復古の大号令が宸断、つまり睦仁の裁断によってなされたとはとうてい考えられない。山内豊信が述べる通りに、二、三の公家と大久保利通等の「陰険の挙」という謗りを受けてもしかたのないものだろう。そして、その場に「幼冲の天子」はいたのである。睦仁とていたたまれないものがあったのではないか。「英材」であればなおのこと、自分が単に利用されているだけ、ということは分かっていたはずだ。

世論に惑はず政治にかかわらず

 「軍人勅諭」の第一の「忠節」のくだりには以下のような文がある。

 世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ

 前年の官有物払い下げ事件の折に、谷干城、鳥尾小弥太、曾我祐準、三浦梧楼らの軍人が、議会開設、憲法制定の建白書を提出していた。軍人が大隈重信と同様の行動をとったのである。「世論に惑はす政治に拘らす」という文言は、そのような、軍人が政治に関与することを牽制する意味があったという(『逆説の軍隊』)。
 軍における政治の関与を禁じ(よい意味にとれば、軍の中立を保ち)、さらに、軍の忠節を一つの方向に束ねるために、なんらかの行動規範が必要だった。しかし、明治初年以来、政権内部にはさまざまな亀裂が生じ、それを一元的に管理することは困難をきわめた。それゆえに、「天皇の軍隊」という仮構をたて、軍紀を確立し、中央直轄軍を統率しようとはかったのだ。そして、軍人勅諭とならぶもう一つの装置が、天皇の親筆のある軍旗(旭日旗)であった。次回は、その軍旗を明治天皇が歩兵25聯隊に親授するまでを見る。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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