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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第五回 万やむをえざる政略

 札幌の市街地で道に迷うことはない。通りが東西南北に整然とはしっており、番地が、北××条西××丁目というように一目で位置がわかるようになっているからだ。東西をわかつのは創成川、南北は大通公園、その二つが起点となって東西一丁目、南北一条がはじまる。
 札幌の街の設計者は島義勇だ。彼が大通を火防帯とし、その北を官地、南を民地とした。北海道庁、札幌市役所やオフィスビルは大通公園の北にあり、公園の南には、繁華街・大通、その先には、かつての公娼街・すすきのがひろがる。創成川は、江戸時代にできた用水路で、明治時代に拡張され、石狩からの水運として利用されていた。島の都市計画は、いまでも生きているのである。彼が札幌を去った後、佐賀の乱にくわわり、処刑されたことは前号で述べた。
 この「条」と「丁目」からなる番地はいたって便利だ。集合住宅などには、「N××W××コーポ」などと建物名がつけられたものもあり、アパート名を見ただけで、住所がわかる。Nは北、Wは西の意味である。

赤レンガ、サッポロファクトリー、永山武四郎邸

 ただし、このような数字からなる番地は、開拓使ができた当初はなかった。通りには北海道の地名がつけられていたのだ。それが、条、丁目にかわったのは、1881 年(明治14年)の明治天皇の来道を契機とする。京都風を模したと言われている。
 官地札幌の要路はその名の通り「札幌通」だった。現在の北3条通である。JR札幌駅から百メートルほど南を東西に通る。西は北海道庁旧本庁舎(赤レンガ)からはじまる。札幌通には、紡績、製鋼、味噌といった開拓使の官営工場がつくられた。創成川をわたると、開拓使麦酒醸造所があった。現在のサッポロビールである。


北3条通の西の起点、北海道庁旧本庁舎(赤レンガ)


北3条通にあるサッポロファクトリー

 その場所には今、サッポロファクトリーがたつ。ファクトリーは明治時代にたてられたレンガ造りの建物を再利用した複合商業施設だ。東京で言えば、恵比寿のガーデンプレイスといったところか。が、ガーデンプレイスと異なるところは、複数の建物がつながっていること。寒い冬でも外気にふれずに長時間すごせる娯楽施設となっている。
 旧札幌通にたつサッポロファクトリーのすぐ東に、永山武四郎がかつて住んでいた家がのこる。永山邸は、彼の死後、三菱鉱業の手にわたり、増築され同社の寮としてつかわれていた。三菱鉱業はかつて北海道に、夕張をふくめて多くの鉱山を所有していた。旧永山邸は現在、札幌市が管理し、一般公開されている。建物の中には、カフェがあり、サッポロファクトリーに近接しているので、デート組とおぼしき若い男女も集まる、いわば当世風の洒落た空間となっている。
 さて、1875年(明治8年)、琴似に屯田兵が入植した際、遠くサンクトペテルブルクで樺太・千島交換条約が調印されたことを、永山が屯田兵に告げたことは幾度か述べた。その時永山は、開拓使の屯田兵幹部で30代半ばだった。それから彼は一貫して屯田兵の要職(屯田兵本部長、司令官)にあり、第七師団を創設し初代の師団長についている。
 師団の旭川移転も彼の発案だった。師団創設によって、屯田兵はその役割をおえ、奇しくも、屯田兵の現役兵がゼロとなった年(1904年=明治37年)にこの世を去るのである。永山武四郎は、北海道の軍の草創期を生き、その終焉とともにその生涯をとじたのだ。

複雑な戦い

 東久世通禧が二代目の開拓使長官をしりぞいた後、実質的なトップをつとめたのは黒田清隆だった。黒田は、それに先立つ米国視察中に、農務長官であったホーレス・ケプロンを招聘、ケプロンは北海道開拓のために多くの建策をおこなった。黒田は開拓の礎をきずいた人物だが、同時に、開拓使に薩摩閥をつくったことでも知られている。永山武四郎もその人脈に属する。永山は1837年(天保8年)薩摩に生まれている。
 薩摩藩士として永山は戊辰戦争に参戦している。会津攻略にもくわわっている。御親兵にも参加した。御親兵の薩摩兵は西郷の私兵に近かった。当時、御親兵内部では、兵式をめぐって意見の対立があったという。薩摩はこれまでイギリス式をとっていたので、それを主張した。しかし、長州が推すフランス式が採用された。薩摩兵は御親兵を去った。永山は開拓使にうつる。
 屯田兵制度を建白したのは黒田だ。開拓使は東京・芝の増上寺にあった。増上寺は、上野の寛永寺とならぶ徳川の菩提寺だったので、新政府はその地を接収し、官衙をおいたのである。永山は札幌で屯田兵を創設する仕事をすすめた。
 屯田兵の多くは東北諸藩の「逆賊」が中心であった。彼ら士族屯田兵は、開拓使の薩摩出身者をどのように見ていたのであろうか。さぞやわだかまるものがあったことだろう。
 戊辰戦争に続く永山の戦いは西南戦争だった。彼は屯田兵第一大隊の隊長として、熊本へむかった。この戦いでは、かつての領袖・西郷に弓を引く立場になった。琴似屯田兵入植百年に編まれた『琴似屯田百年史』は、「この出征については色々と複雑な事情があった」と記す(琴似屯田百年史編纂委員会『琴似屯田百年史』琴似屯田百年記念期成会、1984年)。言うまでも無く、薩摩の将校の指揮のもと、東北出身の士族が、西郷軍と戦うという構図が「複雑」なのである。
 戦いにのぞむ永山の心模様をつたえるエピソードが残っている。武四郎の盟友に永山盛弘がいた。盛弘も薩摩の出で、ともに御親兵をはなれ開拓使に出仕し、屯田兵幹部だった。永山盛弘は弥一郎の名で知られている。同じ永山姓だが二人に縁戚関係はない。盛弘は、西南戦争の前年に、父親の病気を理由に薩摩にもどる。そして、西南戦争では、西郷軍の一人として戦うのだ。そのことを知った時、永山武四郎は、居間の床柱をめった切りにしたという。
 『琴似屯田百年史』には「戦闘日記」が掲載されており、武四郎の戦いも記載されている。屯田兵の戦いは総じて、薩摩の指揮官が号令をださずとも、会津兵は西郷軍めがけて向かって行ったという。屯田兵には下士官の負傷者が多く、将校の負傷者がすくなかったことも記されている。
 熊本からもどってすぐに永山は、その戦いの論功行賞で叙勲四等と650円の賜金をうけている。武四郎が買った土地はその賜金からだされたものだ。その土地に札幌通の家がたてられたのである。当時の開拓使は官舎が充実していたという(高安正明『よみがえった「永山邸」――屯田兵の父、永山武四郎の実像』共同文化社、1990年)。しかし、永山はこの地に家をたてた。薩摩から札幌にもどった永山は、もはや故郷には戻れない、と思ったのではなかろうか。


永山武四郎邸

 私が以前会社につとめていた時の上司は、会津藩士の末裔だった。祖先は、戊辰敗戦後、胆振に入植した。苫小牧から東京の大学にはいり、卒業後、東京で会社員となった。一族の長老である大叔父に結婚の許しを乞うため、苫小牧にかえった。大叔父は一言「まさか薩摩もんではあるまいな?」と問うた。彼は「違います!」と言下に答え、祝儀はみとめられたという。
 その後、『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(中公新書、1971年)を読み、その話が理解できた。同書は、斗南藩に移封され塗炭の苦しみを味わい、その後軍人となった会津人・柴五郎の回想を石光真人がまとめたものである。白虎隊や多くの婦女子を死においやった薩摩の所業は、会津人には、とうてい許すことのできないものだろう。
 永山は会津若松の鶴ヶ城攻撃に参戦している。さきの琴似屯田兵の回想録によれば、東北諸藩の兵の間でも、出身が異なると、言葉が通じなかったという。東北の屯田兵は、そもそも永山の薩摩弁を理解できたのか、その言葉をどのように聞いたのか。
 西南戦争で永山は東北士族をひきいて、西郷軍と戦った。敵方には同郷の永山弥一郎もいた。栃内元吉は、永山が戦いにのぞむときの言を書きのこしている。「永山一個ノ身体ニ非ス国家ニ捧ケタル身体也」と語っていたというのだ(『男爵 長山将軍略伝』1940年、出版元不明=北海道大学図書館蔵)。
 栃内元吉は南部藩の出身で、1871年(明治4年)から開拓使つとめをし、後に永山に仕えるようになる。西南戦争にも参戦している。1886年(明治19年)に永山がロシア、アメリカ、清国を視察したときも、随行している。永山を深く知る人物である(北海道総務部行政資料室編「屯田兵村の建設/栃内元吉」『開拓の群像』中、北海道、1969年)。
 永山武四郎にも柴五郎に通じる明治人の精神を感ずる。

金子堅太郎の建策

 ここからは、前号でふれた囚人労役の話を続けてみることにする。北海道の囚人労働の物語は吉村昭の『赤い人』でえがかれているのでお読みになった方もおられるだろう。私はこちらに来た早々に読んだ。自分がこれから住む土地に、このような歴史があったのかと深い感慨をおぼえたことを記憶している。赤とは囚人服の色、『赤い人』は樺戸集治監の囚人の物語だ。
 戦後、北見の近郊・端野でみつかった「鎖塚」については、『鎖塚』(小池喜孝、岩波現代文庫、2018年)のほかにもいくつかの論考がある。北海道の歴史概説書の多くでも、頁がさかれている。鎖塚は道路開削で死んだ囚人が、鎖をつけられたまま埋められていた土まんじゅう(墳墓)のことだ。鎖塚は、北見近郊だけでなく、釧路近郊でも見つかっている。
 北海道の囚人外役は、1881年(明治14年)からはじまり、1892年(明治25年)の第四回帝国議会で議論がなされ、明治27年度をもって廃止された。その後、囚人には農業などの内役労働しか認められなくなった。しかし、北海道における強制労働は地下にもぐり、「タコ部屋」という形で戦後まで生きつづけた。朝鮮人、中国人の強制労働もその系譜に属すると理解してよいだろう。強制労働という負の歴史は北海道を語る上で欠かせない史実だ。
 北海道の集治監には女囚はおくられなかったので、もともと外役を目的としたものだった。樺戸集治監開庁の翌年にできた空知集治監は、幌内炭鉱の労働力の供給源としてつくられている。幌内炭鉱の8割の労働力は空知集治監の囚人によってまかなわれていた。
 北海道初の鉄道となり、石炭をはこぶために設置された官営幌内鉄道(手宮(小樽)=幌内間)も、空知集治監の創設と同じ年に開通している。北海道の鉄道も、囚人労働と無縁ではないのだ(北海道開拓博物館編『集治監――開拓と囚人労働』北海道開拓記念館、1989年)。
 釧路集治監は跡佐登(あとさのぼり)硫黄山の労働力の供給源だった。明治初期、硫黄は火薬の材料として有力な輸出商品であった。その後、その硫黄山を買ったのが、安田善次郎だ。息子の善之助の名義で購入している。安田はすでに自身の資産保全会社・保善社をもっていた。安田善次郎は、硫黄鉱山を含む釧路の商いから、巨大な資産をつくり、それが後の安田財閥に発展する。
 囚人による道路開削は、1887年(明治20年)からおこなわれる。その方針をしめしたのが金子堅太郎だ。金子は1885年(明治18年)に「集治監ノ囚徒ヲ道路開削ノ事業ニ使役スル事」を提案している。金子の「道路開削ノ議」には、囚人を道路開削に使う理由が以下のように記されている。

 彼等ハ、固ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪へズ、斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ、妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、又今日ノ如ク、重罪犯人多クシテ、徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ、是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪ヘズ斃レ死シテ、其人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告グル、今日ニ於テ、萬已ムヲ得ザル政略ナリ(「北海道三県巡視復命書」『新撰北海道史』第六巻、史料2、北海道庁、1936年)。(一部旧字を新字に改めた、以下同じ)

 一般労働者(尋常ノ工夫)が死ぬのは困るが、囚人(暴戻ノ悪徒)であれば死んでもかまわない。彼らが死ねば、監獄費の軽減につながり、まさに一挙両得というのである。
 今の時代の眼から見れば、とうてい許されない発言だが、明治という時代にあっては、理にかなったことだった。

「三県一局」時代の弊害

 そのような建策がおこなわれた歴史的背景を知るためには、まず、この「北海道三県巡視復命書」が出された経緯を知る必要がある。少し時間をもどし、復命書が提出された四年前から史実を確認しておきたい。
 1881年(明治14年)に開拓使は廃止が予定されていた。その目前に、その官有物を、官吏や政商に払い下げるとして、世論の批判をうけ撤回するという事件がおこっていた。「開拓使官有物払い下げ事件」である。日本史で習ったという記憶をお持ちの方も少なくないだろう。
 払い下げを決めたのは黒田清隆だ。開拓使が廃止となり、黒田王国も解体する。そこから、北海道史にいう「三県一局」時代がはじまる。三県一局時代とは、1882年(明治15年)から1886年(明治19年)、北海道庁の創設までをいう。三県とは、函館、札幌、根室だ。一局とは、農商務省に属する北海道事業監理局である。「札幌通」にあった開拓使の官営工場もその事業監理局に引きつがれた。
 三県一局の分権体制はさまざまな弊害を生んだ。所管事業が重複し、それぞれが同種の事業をおこなっていた。そもそも、地方行政(三県)と事業局の政策の方針は異なっていた。前者は牧民政策をとり、後者は営業政策をとっていた。三県一局の課題をさぐるためにおくりこまれたのが、金子堅太郎だった。
 金子はハーヴァート大学を卒業した俊才で、新政府の官僚だった。ご存知の通り、彼は大日本帝国憲法の起草にかかわっている。1885年(明治18年)の7月下旬から10月はじめまでの2カ月強、北海道各地をまわり、政策の問題点をまとめた。それが、「北海道三県巡視復命書」である。
 復命書の要点は、三県一局行政は弊害が多い、統一した機関(殖民局)をつくるべきだ、というものだ。帝国議会の開設の準備のために、1885年(明治18年)末には、これまでの太政官制度を廃止し、内閣制度が予定されていた。その制度変更にあわせた、北海道行政の新体制がもとめられていたのだ。結論は先にあったのではないか。
 その復命書で、「道路開削ノ議」に一節がさかれている。その主張は以下のようなものだ。北海道には物流のための道路が必要だが、現在は、函館=札幌間にしかまともな道路はない。まずは札幌=根室間の道路が重要だ。根室への道路は、札幌から北上し中央部(上川つまり旭川)で東進し、根室へいたるというもの。しかし、そのような道路を開削するためには巨額な費用を必要とする。それゆえに、囚人を使え、というのが金子の提言だった。

もし一朝ことあるに際せば

 ではなぜ根室なのか。先に述べた通り、根室にはすでに「県」が置かれていた。当時の根室への交通は船だった。根室は千島列島に通じる。札幌=根室間の道路開削の目的を物流にもとめる以外に、金子は以下のように説く。

 殊ニ其管轄ナル千島群島ノ如キハ、警備未ダ毫モ着手セザルナリ。故ニ若シ一朝事アルニ際セバ、其危険ナル蓋シ云フべカラザルナリ

 千島への防備としても、道路開削は必要だというのである。屯田兵にも言及している。

 新開ノ道路ニ沿ヒ屯田兵ヲ置ク事

 以下の文言もある。

 屯田兵ハ、帝室附属ノ兵員ニシテ、北門ノ鎖鑰ヲ守ルモノトシ、其開墾地ハ、着手後十ヶ年間除税シ

 その後は土地を帝室(皇室)のものとし、屯田兵にも帝室の恩栄を与える、としている。その考えは、その後、皇室の御料地、御料林へとつながっていく。
 この「道路開削ノ議」は、北海道庁によってとりいれられ、翌年、1886年(明治19年)に、北海道庁の初代長官・岩村通俊が、月形(市来知)から旭川(忠別太)への仮道の開削を指示、1887年(明治20年)にもその施政方針で道路の整備に言及している。その後、旭川から網走にかけても、道路がつくられた。金子が提案した中央道路は、そのようにしてできあがったのである。
 この囚人労働で大幅に予算削減が可能になった。函館と札幌をむすぶ札幌本道の建設費は、当時の金額で85万円におよんだ。かかわった職工と労働者は、5300人をこえた。それはケプロンが構想したもので、最初の外国式の道路だった(井黒弥太郎、片山敬次『北海道のいしづえ四人』みやま書房、1967年)。
 それに比して、月形から旭川への仮道の建設費はわずか3789円だった。1887年からはじまる本道路の開削も2万2108円で済んだという。函館=札幌と月形=旭川の二つの道路は長さが異なる。前者は45里、後者は22里だが、この建設費の差は尋常ではない。
 そもそも、開拓使が廃止となったのは予算の無駄遣いにあった。開拓使十年計画は、1871年(明治4年)からの10年で、1000万円という巨費がついやされている。それゆえに、開拓使は解体されたのである。だからこそ、伊藤博文の懐刀たる金子堅太郎は、囚人労働と言う大胆な予算削減案を提示したのである。
 新たな屯田兵の入植は、その道路(中央道路)に沿っておこなわれた。そもそも、金子の復命書以前、屯田兵は現在の札幌市と札幌近郊にしかいなかった。
 「北門ノ鎖鑰」のために、道東にも屯田兵は入植した。現在の根室のそばの和田には、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)にかけて屯田兵が入植している。厚岸近郊の太田には1890年(明治23年)に屯田兵がはいった。しかし、この二つの屯田兵村は「あまりに国防的な位置として之を選定した」ことにより、その自然条件もくわわって、期待した収穫があがらなかった(『新撰北海道史』第四巻、北海道庁、1937年)。
 オホーツク海に近い場所としては、野付牛(1897年~1898年)、さらに湧別(上湧別)にも兵村がおかれた。野付牛の屯田兵村の「下野付牛兵村」は、鎖塚が発見された端野にある。金子の復命書以降にできた屯田兵村は、彼の提言通りに、囚人が開削した中央道路沿いにつくられたのである。
 金子は、その「道路開削ノ議」の最後に以下のように書く。

 北海道開拓ノ事業ハ、大ニ其局面ヲ改メテ、将来ノ進歩、蓋シ是レヨリ其基ヲ開カンコト 堅太郎信ジテ疑ハザル所ナリ(引用者注:堅太郎の文字は原文通り小さなフォントを使用)

 金子のなかでこの復命書は、「萬已ムヲ得ザル政略」だった。その目的は、北海道開拓であり、その根本には、「若シ一朝事アルニ際セバ、其危険ナル蓋シ云フべカラザルナリ」という強い危機意識があったのである。
 永山武四郎とて同様だ。岩村通俊のあとをうけ北海道庁長官となり、道路開削をすすめ、屯田兵の上川(旭川)入植を決定した。
 囚人労働の最盛期は、1887年(明治20年)から1892年(明治25年)だが、その時期に永山は、屯田本部長、屯田司令官をつとめ、金子の提案通りに囚人による道路開削を認め、道路沿いの兵村建設をおこなっている。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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