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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第四回 「えびす嵐」としての徴兵令

 屯田兵は北海道を「北門の鎖鑰」とするためにとられた制度だ。
 再び軍事史研究者の松下芳男の著述から引く。彼は屯田兵制を「明治軍制に於いてもっとも異色あるもの」とし「変則的兵制」と呼んでいる(「北邊防備と屯田兵」尾佐竹猛編『明治文化の新研究』亜細亜書房、1944年)。
 では明治軍制における「正則的兵制」とは何か。徴兵制である。
 国民皆兵を宗とする徴兵令の発布(1873年(明治6年)1月)は新政府にとって極めて重要な政策転換だった。再度、松下の言葉を借りれば、それは「独り明治軍制史の重要篇をなすのみならず、日本近代史の重要頁を占むべきもの」(松下芳男『明治軍制史論』上巻、有斐閣、1956年)となる。なお、徴兵令は当初、北海道とならんで沖縄、小笠原諸島でも実施されていない。
 徴兵令がなぜ「日本近代史の重要頁」となるのか。屯田兵の歴史に立ち入る前に、徴兵制について述べておく必要があるだろう。

兵馬の権

 徴兵令は、士農工商の身分をとりはらい、満20歳の男子を3年間兵役につかせるものだ。前年の明治5年11月末に出された「徴兵告諭」では以下のようにうたわれている。

 士ハ従前ノ士ニ非ス、民ハ従前ノ民ニ非ス、均シク皇国一般ノ民ニシテ国ニ報スルノ道モ固ヨリソノ別ナカルヘシ

(旧字は改め、句読点を付した。以下同じ)

 ただし、明治6年徴兵令には、戸主や後継ぎ、さらに代人料をおさめたものは兵役が免除されるなど例外措置があったので、真の国民皆兵には遠かった。
 新政府の重要な課題は、これまで藩主が持っていた権力を召し上げ、中央に集中させることにあった。兵馬の権(軍権)も同様だ。そのためにあみだした便法が、「天皇の軍隊」という仮構だった。
 徴兵令発布の2年後に施行された屯田兵制度とは、士族を内地から北海道に移住させ、農業に従事させるとともに、北方防備のための軍事的役割を担わせるというものだ。そのような制度をつくった背景は、蝦夷地から北海道と名をあらためたばかりの北辺の地には人口が少なく、徴兵が不可能であったことがあげられる。同時に士族授産もかねていた。授産とは就業機会の創出のことである。
 津軽海峡の南、つまり内地においては、明治4年、廃藩にともない藩兵が解隊され鎮台となった。それは主に国内の治安維持が目的であった。明治初年に頻発した士族の反乱には、鎮台が対処した。
 1888年(明治21年)に、六つの鎮台が第一から第六の師団へとかわり、その後、屯田兵を母体として第七師団が生まれる。つまり、第六までの師団と、第七師団ではその出自が異なるのである。後に、北海道においても人口が増え、つまり、徴募できる壮丁(20歳以上の男子)が増加し、徴兵令が施行され、屯田兵は師団となる。では、徴兵令は、津軽海峡以南ではどのようにうけとめられていたのか。

特権を失う武士

 新政府はジレンマをかかえていた。維新を実現させたのは西南雄藩だ。国家建設にはもとより国軍が必要となる。しかし、薩長を中心とする雄藩が自分達のささえとなる武士集団をさしだすことはない。諸藩の武士集団を国軍に変えるためには、なんらかの力の後ろ盾がないと実現しない。その構図を、戸部良一は「政府直轄軍創設をめぐるジレンマ」(『逆説の軍隊』中央公論社、1998年)と、とらえた。
 明治政府は、天皇の護衛軍・御親兵をつくるという名目で、薩長土肥に士族の提供をもとめた。キーは西郷隆盛だった。西郷が雄藩の長たる薩摩軍を統率していたからである。西郷を説得して薩摩士族を出させなければ御親兵はできない。
 日本の近代軍制の創始者は大村益次郎であり、その後は、山県有朋がひきついだ。西郷は山県有朋の御親兵創設案に同意した。新政府はその御親兵を威力として、1871年(明治4年)に廃藩置県を断行したのである。同時に、鎮台を創設する。後に、前者が近衛兵となり、後者が師団となった。
 しかしその後、西郷は新政府からはなれ、薩摩兵は御親兵から大挙してぬける。御親兵から離脱した薩摩兵には、薩摩にもどったものと、北海道の開拓使へとうつったものがいた。琴似の屯田兵に「サンクトペテルブルクからの報せ」を告げた永山武四郎は後者だった。
 江戸時代はご存知の通り、士農工商の階層社会だ。徴兵とは、その階層を一律化し、兵として徴募するのである。人が「従前ノ士」「従前ノ民」ではなくなり、あらたな「皇国一般ノ民」となるのである。
 徴兵令の施行は、旧武士階級に何をもたらしたか。それは失業を意味した。兵事(軍事)は武士の専門的な職能だ。それが壮丁に役務として課されるのである。武士(士族)の仕事がなくなるのである。
 くわえて、彼らの矜持にも多大な影響をおよぼした。戦いには修練というものが必要だ。自分達はその修行(武士道)をつんでいる。身分の低い町人や百姓につとまるはずがない。さらに、武士はこれまで最上層にあり、武道とともに、教養(文)も身につけてきた。とりわけ薩長土肥の武士には、維新を達成したのは自分達だという誇りもある。徴兵令によってそのプライドが大きく損なわれたことは想像にかたくない。佐賀の乱(明治7年)から、西南の役(明治10年)で終わる士族の反乱の根元にはそのような新政府への不満があった。
 徴兵告諭には以下のように書かれていた。

 我朝上古ノ制海內挙テ兵ナラサルハナシ。有事ノ日、天子之カ元帥トナリ、丁壮兵役ニ堪ユル者ヲ募リ、以テ不服ヲ征ス

 上古においては、すべての男子が壮兵となり、まつろわぬ(不服)者を征伐した。明治新政府は律令制をとり、上古への回帰をうたっていた。つづいて以下の文言もでてくる。

 固ヨリ後世ノ双刀ヲ帯ヒ武士ト称シ、抗顏坐食シ、甚シキニ至テハ人ヲ殺シ、官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス

 武士をして、二刀をさし傍若無人にふるまい徒食し(抗顔座食)、よからぬ輩は人殺しまでし、しかも罪に問われない、かつてはそのようなことはなかった、というのである。後段には、「世襲坐食ノ士」という言葉も出てくる。この物言いは、士族にとって聞き捨てならないものだったろう。
 徴兵令発布と同時に、東京、大阪、鎮西(熊本)、東北の四鎮台が廃止されて、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本の六鎮台が誕生する。兵を配属する鎮台を拡大したのである。
 徴兵令に士族の一部は強く反発した。西郷の腹心・桐野利秋も、土佐の板垣退助も激烈に批判したという。西南の役の一つの要因として、この問題があったことは多くの識者が指摘する通りだ。また、板垣らがすすめた自由民権運動の背後にも、この武士の特殊権益の喪失という問題があった。

生血を以て国に報ずる

 では、庶民(農工商)は、徴兵令をどのようにとらえたのか。同様に強い反発が生まれている。その一つが血税一揆だった。徴兵令反対一揆とも呼ばれる。徴兵告諭に以下の文言があった。

 則チ人タルモノ、固ヨリ心力ヲ尽シ、国ニ報セサルヘカラス。西人之ヲ称シテ血税ト云フ。其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ

 国への奉仕を「血税」と称している。そして「生血」をもって国に尽さねばならない、というのだ。そこから、徴兵とは生血を抜かれることだとの噂がひろがった。さらに、西洋人は生血を飲んでいる(赤ワイン?)とか、官吏が巡回する姿をみて、その「血税」を実施しにきたのだとかいうデマが起こり、民心が動揺し、騒乱がおこったのである。
 血税一揆のさきがけは岡山県(当時は北条県)美作(みまさか)で発生した。徴兵令が発布された明治6年の5月26日から6日間で、3万人が地域の戸長、学校などを襲撃し、さらに、賎民制廃止に反対し、被差別部落の家屋に押し入り、部落民を殺した。美作の後、血税一揆は西日本各所にひろがった。
 美作一揆の首謀者とされた筆保卯太郎の供述書によれば、事件の原因は「徴兵、地券、学校、屠牛、斬髪、穢多ノ呼称御廃止等」への不満だと述べている。つまり、明治新政府がとった新たな政策全体に対する不信が根底にあった。よって、血税一揆は「新政反対一揆」と位置づけられる。では、「穢多ノ呼称御廃止」という問題をどう考えればよいのか。津川原という部落では20人近くが殺されている。
 被差別部落への襲撃の問題は、屠牛の問題と関連しているという。明治になり、食牛が許されるようになった。西日本では、牛は農耕に用いられてきた。被差別民には、屠牛を生業とするものもいる。牛をめぐる農民の恨みが、そちらに向かう。さらに、解放令(賎民廃止令)によって、自分達(農民)の優越的立場が侵されるという危機感がくわわる。被差別民に暴力が向いた理由はそこにあるという。それは、先に、士族が徴兵令にいだいた感情と近いものだ。
 美作血税一揆では、2万6900人が処罰された。うち15人が処刑されている。死罪となった一人に先の筆保卯太郎がいた。彼は村の総代だった。刑場で詠んだ辞世の歌がある。その一つは以下だ。

 王政に復へるといふはことはりてえびす嵐で一新となる

 徴兵告諭と同時に出された徴兵詔書は以下のように宣言した。

 今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各国ノ式ヲ斟酌シ、全国募兵ノ法ヲ設ケ、国家保護ノ基ヲ立タント欲ス

 明治新政府は自らの政治を王政復古(「古昔ノ制」)とした。太政官制だ。しかし筆保卯太郎は、徴兵令をはじめとする新政は、西洋(「海外各国ノ式」)を模倣した欧化(=「えびす嵐」)にすぎないというのである。
 血税一揆を起こした民は「頑民」と称されていたが、この歌を見るかぎり、筆保卯太郎はことの本質を見ぬいていたように思える。
 徴兵令は一部にこのように受けとられ、大きな抵抗を受けながら断行されたのである。それゆえに、「近代史の重要頁」と位置づけられるのだ。

北海道に集治監がつくられた理由

 明治政府は、新政反対一揆、士族の反乱、それに続く自由民権運動にくわわった反逆者をきびしく処罰した。札幌にゆかりのある人物を例にあげると、開拓使長官・鍋島直正(肥前藩主)のもとで判官としてつかえ、札幌の都市計画の青写真をつくった島義勇は、後に江藤新平とともに佐賀の乱をおこす。敗北後、助命嘆願をするも、許されず斬刑となり、梟首(さらし首)にされている。
 幕末から明治初年に生きた武士は、紙一重で、生きのこるか、殺されるかが決まった。幕臣・榎本武揚と佐賀藩士・島義勇の運命などは、まさにその典型だろう。
 彼ら反逆の徒を収監するために、1879年(明治12年)に小菅集治監(東京)と宮城集治監(仙台)が建てられた。二つの集治監とも、じきに囚人を収容しきれなくなる。そのため、北海道での集治監建設が提案された。
 1881年(明治14年)に樺戸集治監、1882年(明治15年)に空知集治監、そして、1885年(明治18年)に釧路集治監ができ、釧路の分監として、1890年(明治23年)に網走囚徒外役所がつくられる。それが後の網走刑務所となる。
 北海道に集治監をあいついで建てた理由は、囚人労働にあった。囚人に道路の開削や、炭鉱労働など北海道開拓の一翼を担わせるのだ。
 樺戸集治監と空知集治監の囚人がひらいた道路が、樺戸集治監のある月形から旭川へぬける上川道路だ。その道は後に、札幌から旭川に至る国道12号線の一部となった。屯田兵の旭川入植も、第七師団の移駐もその道路によって実現した。
 北海道の各地には、そのような囚人が開削した道路がのこる。その道を通じて、屯田兵は沿岸部に入植していく。むろん、その目的は北方防衛にあった。「えびす嵐」としての徴兵令、そして新政への不満から起こった騒擾は、こうして「北鎮」へとつながっていくのである。


国道12号線の札幌の起点、北1条西2丁目交差点。左に見えるのが時計台

追記

 第二回「サンクトペテルブルクからの報せ」で、1875 年(明治8年)に樺太・千島交換条約が調印され、日露の緊張が一旦緩和された、と書いた。では、古くから樺太と千島に住んでいた人々(先住民)に、この条約は何をもたらしたのか。
 樺太・千島交換条約では、ロシア人と日本人は、国籍を変えず双方の土地への定住がみとめられた。信仰の自由も保障された。しかし、先住民は国籍を維持するため当該国の領土への移住がもとめられた。
 樺太南部に住むアイヌのうち3分の1ほどが、北海道にうつり、さらに、札幌近郊の対雁(ついしかり)で農業についている。対雁の樺太アイヌは明治10年代にはやったコレラによって多数が死んだという(樺太アイヌ史研究会『対雁の碑——樺太アイヌ強制移住の歴史』北海道出版企画センター、1992年)。
 占守島には100人ほどの先住民が暮らしていた。彼らはロシア正教を信仰していた。明治政府は、条約調印から10年後に、色丹(シコタン)島へ移住させた。太平洋戦争末期のソ連の参戦、その後の、樺太、千島への侵攻により、樺太アイヌも、千島アイヌも散り散りになり、流亡の民となったという(小坂洋右『流亡——日露に追われた北千島アイヌ』北海道新聞社、1992年)。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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