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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第三回 北門の鎖鑰

 森鴎外は軍医部長として日露戦争で第二軍に従軍した。第二軍は広島の宇品(現広島港)から出港し、遼東半島に上陸、大連から遼陽へと進軍する。鴎外は征途につく前に広島で「第二軍」という歌をつくっている。1904年(明治37年)3月27日のことだ。太平天国(長髪族)のくだりまでを引く。

 海の氷こごる北国も/春風いまぞ吹きわたる/三百年来跋扈せし/ろしやを討たん時は来ぬ/十六世紀の末つかた/うらるを踰えしむかしより/虚名におごる仇びとの/真相たれかはしらざらん/ぬしなき曠野しべりやを/我物顔に奪ひしは/浮浪無頼のえるまくが/おもひ設けぬいさをのみ/黒龍江畔一帯の/地を略せしも清国が/長髪族の叛乱に/つかれしからの僥倖ぞ……
(森林太郎「第二軍」『うた日記』春陽堂、1907年(明治40年)(復刻版、1971年、日本近代文学館))(漢字かなの旧字体は新字体に改めた)

 「第二軍」には曲がつけられ、戦地に向かう輸送船のなかでうたわれていたという。記者として従軍した田山花袋が書きのこしている(田山花袋『第二軍従征日記』雄山閣、2011年)。『うた日記』は鴎外が日露戦争の心模様を歌でつづったものだ。出征を前にして鴎外は「三百年来跋扈せし/ろしやを討たん時は来ぬ」とうたった。その心理の背後にはいかなる史実があるのだろうか。


現在の宇品港

裏木戸の足音

 イヴァン雷帝の時代、16世紀後半、ロシア派遣軍がウラル山脈をこえてシビル・ハン国をほろぼした。それがロシアのシベリア進出の第一歩であった。その国名がシベリアという地名の由来となり、その故地はシベリア開発の中心となった。その後ロシアは17世紀前半に太平洋岸に達し、シベリア全土を制圧する。
 そのシビル・ハン国を滅亡させたのが、鴎外の言うところの「浮浪無頼のえるまく」、エルマク・チモフェービッチだ。彼はドン・コサックの首領で盗賊だったが、ストロガノフ家の庇護にはいり、帝政が同家にシベリア遠征を命じると、派遣軍の隊長となったのである。コサックとは「自由な人」の謂いで、軍事的共同体を形成していた。ドン・コサックとはドン川に勢力をもったコサックである。「静かなドン」のあのドンだ。ストロガノフ家は16世紀初頭から製塩で業をおこし、雷帝から所領を得て、事業を拡大していった素封家だ。
 ロシア東漸の目的の一つは、商人(冒険者)にとっては、貂、狐などの動物や、アザラシ、ラッコなど海獣の毛皮であり、帝政にとっては、それらに課す毛皮税だった。日本は千島列島沿いに北進し、カムチャッカを征服したロシアと遭遇するのである。
 軍事史研究者の松下芳男は、江戸末期の英仏米などの列強は、通商をもとめたのに対して、ロシアは領土の拡大を欲したのであり、日本への政策は異なったと述べる。
 ロシアがシベリアを征服した後、同地は長い間、流刑地であり、また、近世後期にいたっても奴隷がおり(欧露には農奴制があったが)、また、渡辺京二が「謝肉祭」と呼ぶような大殺戮があり(『黒船前夜』洋泉社、2010年)、シベリアという言葉には陰惨なイメージがつきまとう。ドストエフスキーがえがく人間の悪徳も、彼の流刑と関連づけてよんでしまう。
 帝政ロシアは、国もそして民も、貪欲に東征し、太平洋岸にいたると南にすすみ、千島や北蝦夷(樺太)をのみこもうとしている。その毒牙はいつかは日本におよび、かつてシビル・ハン国をほろぼしたように、日本をほろぼすのではないか――。近世から近代にかけてそのような恐怖をいだいた日本人は少なくなかった。だが、ことはそうとも言えないようだ。
 ロシア人の手になる日本との出会いをえがいた『ロシアの日本発見』の訳者・秋月俊幸は「訳者まえがき」で以下のように書く。

 わが国においては日露の関係をのべた書物は、古くからロシア人の千島南下を北からの脅威と意識しており、この見方は歴史的なものとして今日まで受けつがれている。しかしそこにはいくらかの真実が含まれているにせよ誤解も少なくなく、それが心理的な要素や事実認識の乏しさによっていちじるしく増幅されていることも否めない(S・ズメナンスキー『ロシア人の日本発見』秋月俊幸訳、北海道大学出版会、1979年)。

 渡辺京二も同様のことを述べている。江戸幕府が松前藩からその領地をとりあげ、蝦夷地を幕領化したのは、「ロシアの南進という夢魔」によるものだというのである。
 司馬遼太郎はロシアの南進を称して、「日本の無防備な裏木戸に足音がするという出現の仕方だった」とかたる。さらに「敷石づたいに迫ってくるという実感もあって、出現の最初から好もしい印象はうけなかった」という(『ロシアについて』文藝春秋(文庫)、1989年)。敷石とは、言うまでもなく千島列島のことである。
 『ロシアについて』でも述べられているが、ロシアはウラル越え以前、東方に対して強い恐怖をいだいていた。13世紀前半、チンギス汗の死後、モンゴル族はロシア平原を制圧した。その後259年の長きにわたってロシアを支配したのである。その記憶、いわゆる「タタールのくびき」がロシアの人々の記憶に深い刻印をおした。ロシア東征の背後にはそのような心理も垣間見える。
 では、日本にとって「無防備な裏木戸の足音」とはいかなるものか。「夢魔」はいかに生まれたのか。基本的な史実を確認する。むろん、蝦夷地には先住民がいた。彼らの視点に立てば、ことはまた異なる様相を呈するであろう。

ラクスマン父子と大黒屋光太夫

  四人のロシア人の事績を見る。ラクスマン父子、レザノフ、ゴローニンだ。日本のロシアとの最初の接触は、1792年(寛政4年)のロシア使節・ラクスマンの来航だった。その際帰国を果たした日本人が、大黒屋光太夫だ。光太夫の生涯は、井上靖(『おろしあ国酔夢譚』)も、吉村昭(『大黒屋光太夫』)も小説にしており、また、前者は映画化されているので、ご存知の向きも多いだろう。
 ことの発端は、ラクスマン来航の10年前、1782年(天明2年)の末、光太夫が伊勢の白子(現三重県鈴鹿市)を出航した時にさかのぼる。船頭・光太夫の乗った船は、江戸への航行中に駿河沖で暴風にあい、半年余りの漂流の後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。その4年後、光太夫らはカムチャッカ半島にわたり、日本への帰国をたのみにイルクーツクまで行く。そこでキリル・ラクスマンに出会うのである。ラクスマンは外交官で学者、日本に強い関心をもっていた。ラクスマンの助けにより大黒屋はエカチェリーナ二世に謁見、女帝は大黒屋の日本帰国をみとめるのである。
 1792年(寛政4年)に大黒屋光太夫ら(他に磯吉と小市)を連れて根室に来航したのは、キリルの息子のアダム・ラクスマンだった。彼は日本との通商をもとめるイルクーツク総督の手紙をたずさえていた。接遇した幕府の役人は、ラクスマンを丁重にあつかうが、彼を江戸に来させないよう、通商の議は長崎でと、「信牌」という長崎入港証をわたし、ひきとらせた。
 エカチェリーナ二世は1762年に近衛聯隊のクーデターによって即位、翌年にはプロイセン、オーストリアと提携し、ポーランドの内紛に介入し、独立をうばっている。オスマン帝国との戦争でも勝利し、黒海への進出を実現、南下政策をおしすすめていた。ロシアが西方でおこなった南への侵攻を、東方でもおこなうのではないか――、そのように考えた幕吏も少なくなかったことだろう。
 民間でも海外からの脅威は強く意識されていた。林子平がロシアの南進に対処すべきだとして『三国通覧図説』を出版したのが1785年(天明5年)のことだ。『海国兵談』は1787年(天明7年)から91年(寛政3年)にかけて刊行され、前著同様に強く海防がとかれていた。
 ラクスマン来航の4年後(1796年)には、イギリス人のブロートンが、測量のために室蘭にあらわれている。ブロートンが乗っていたプロヴィデンス号の模型が札幌の北海道博物館に展示されている。実物は全長32メートルを超す。精巧にできた木造の帆船で弁財船にくらべると、技術の差は歴然としている。光太夫が乗っていたのは弁財船だった。日本は鎖国により遠洋航海の船の建造は禁止されていたのである。
 この時期、にわかに蝦夷地の重要性が認識されるようになったと歴史書には書かれているが、当時、あの船を見た人々の驚きはいかほどのものかと想像される。
 1798年(寛政10年)に幕府は近藤重蔵や最上徳内に千島を探索させ、その折に近藤は、択捉(エトロフ)島に「大日本恵登呂府」の標柱をたてた。その翌年に幕府は、東蝦夷地を直轄領とする。東蝦夷地とはおおよそ、松前から知床半島へ線をひいた南側に位置し、現在の胆振、日高、十勝、釧路、根室、そして千島列島がはいる。
 幕府の東蝦夷地直轄化の目的は、南千島へのロシアの南進をくいとめることにあった。なお、蝦夷地という概念は、和人地と対をなすものであり、松前藩の支配地域である渡島半島の一部が和人地、それ以外が蝦夷地となる。
 1800年(寛政12年)には、八王子千人同心という幕臣集団を現在の胆振地方に入植させている。屯田兵の前身ともいえるものだ。幕府はそ2年後に箱館に奉行所をおく。

日露和親条約まで

 ラクスマン来航から10年以上がたった1804年(文化元年)、「信牌」をもって長崎に来航したロシア人がニコライ・レザノフだった。レザノフは通商をもとめたが、長崎で半年も待たされ、結局体よくかえされている。彼はその2年後に没するが、幕府の応対に不満をいだき、生前、日本への軍事的圧力の必要性をといていた。
 レザノフの部下ニコライ・フヴォストフとガブリエール・ダヴィドフは1806年(文化3年)に、樺太の久春古丹(クシュコタン)の松前居留地を、その翌年に択捉島の内保(ナイホ)と紗那(シャナ)を攻撃した。文化露寇(フヴォストフ事件)である。
 しかし、この日本領土への攻撃を帝政ロシアがみとめていたわけではなかった。だがその露寇は、大きな衝撃としてうけとめられたのである。それまで日本人はロシア人を「赤人」と呼んでいたが、事件後、一部の人は「赤鬼」と呼ぶようになったという。「日本人の心理状態に植えつけた恐露病のインパクトは無視しえないほど大きいものであった」(木村汎『新版日露国境交渉史』角川書店、2005年)というのだ。
 海防への意識も高まった。1807年(文化4年)に、幕府は全蝦夷地を直轄領とし、松前奉行をおいた。翌年幕府は、間宮林蔵に樺太探査を命じ、樺太が島であることを確認する。
 幕府の報復の機会はすぐにおとずれた。ロシアはゴローニンに全千島の調査を命じた。国後(クナシリ)島に上陸したゴローニンを幕府はつかまえたのである。1811年(文化8年)のことだ。かわりにロシアは、淡路の商人・高田屋嘉兵衛を捕捉した。1813年(文化10年)に双方が二人を解放し、事件は決着をみる。
 この時期、外からの脅威はたえることはなかった。ゴローニン事件がおこる前、1808年(文化5年)には、イギリス軍艦フェートン号が長崎に来航、オランダ人を人質にとり、食べ物と薪を要求している。
 幕府はこの事件などにより、1825年(文政8年)に異国船打ち払い令をだす。列強の東漸が、日本近海にまでおよぶようになった。鎖国をいかに維持すればよいのか。幕府にとって心痛のたえない問題がたちあらわれてきたのである。但し、日露関係はゴローニン事件の解決で一旦沈静化し、幕府は1821年(文政4年)に再び蝦夷地を松前藩にもどしている。
 時は幕末にうつる。幕府は、1855年(安政元年)に日露和親条約を締結する。それは、前年に米国とむすんだ日米和親条約につづくものだった。日米和親条約は、黒船による砲艦外交と、それに先立つアヘン戦争(1840年~42年)の影響が大であったことはご存知の通りだ。大清国が列強の餌食になった――、幕末の日本人にとってそのショックは察するにあまりあるものだった。
 幕府はその報に接して、異国船打ち払い令をあらため、漂着した異国船に薪や水をあたえてもよいとする天保薪水給与令をだした。ロシアにとっても、アヘン戦争は大きな衝撃であった。他の列強が東方に触手をのばしている。ロシアが和親条約締結をもとめたのも、日本との国境確定と通商にあった。
 日露和親条約で、日露の国境線を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間とし、樺太(サハリン)は国境をさだめず雑居地とした。そのことは前号でふれたが、前者が、現在の北方領土の日本側の主権の根拠となっており、北方領土の日(2月7日)は、この日露和親条約が下田で締結された日とさだめられている。
 ラクスマン父子、レザノフ、ゴローニン、そして、大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛の事績をみるかぎり、近世の日露関係は、インド産アヘンを中国に輸出したことを発端とするアヘン戦争(中英関係)や、遅れてきた資本主義国家・アメリカの力まかせの開国要求(日米関係)とは、いささか趣を異にするものだったのではないかと思えてくる。
 少なくともここで言えることは、秋月のいう「誤解」「心理的な要素」「事実認識の乏しさ」によって、「夢魔」が増幅されたという側面は否めないだろう。「恐露病」発生の由来はかくのごときものであった。

この地一旦露人に犯さるる時は

 北門の鎖鑰(ほくもんのさやく)という言葉がある。恐露病から生まれた言葉だ。鎖鑰とは錠と鍵という意味だ。出入りの要所、肝要な場所、要害という意味もある。
 明治初年、ロシアへの防備としてこの言葉はしばしばつかわれた。榎本武揚は蝦夷地へ向かう際の陳情書にこの語をもちいている。蝦夷地は日本の北門であり、「先年来魯人之窺窬ハ人々既ニ所知ニテ、此地一旦魯人ニ被犯ルル時ハ、全国之大患」としている。そして、「北門之鎖鑰相堅メ、決テ他人之鼻息ヲ容ルル事ナク」と自らの使命を述べているのだ。榎本は幕臣であり、オランダ留学後に海軍奉行をつとめていたが、戊辰戦争の折、幕府軍艦をひきいて箱館で新政府軍とたたかった。そのことは前号で述べた。
 すでに幕府側の反攻の機はたたれていた。それゆえ、「北門之鎖鑰」としてこの地をかためねばならないという決意には、蝦夷地逃避行に自らの正当性をこめる意図もあったのだろう。
 箱館戦争で榎本が敗北するのが1869年(明治2年)、その年に蝦夷地が北海道と名をあらため開拓使がおかれた。初代の開拓使長官は佐賀藩主・鍋島直正だった。鍋島直正は間もなく退任し、二代目長官に任ぜられたのは公家の東久世通禧だ。その任命の御沙汰書にもこの言葉がでてくる。「就ては向後、土地墾開、人民蕃殖、北門之鎖鑰に樹立し、皇威御更張之基と可相成様、勉励尽力可有之旨、御沙汰事」。
 土地をひらき、人口を増やし、この地を北門の鎖鑰とするというのである。旧幕も、新政府も、蝦夷地開拓の目的は同じ、北方防衛だったのである。

 箱館戦争の前、蝦夷地を「一旦露人に犯さるる時は全国の大患」「決して他人の鼻息を容るる事なく」と述べていた榎本だったが、しかし、1874年(明治7年)からロシア公使としてアレクサンドル二世をはじめとした、ロシアの要路と接するうちに、その考えはかわったようだ。1877年(明治10年)1月1日、妻タツ宛の手紙には以下の通りかかれているという。

 一体、日本人はロシアを大いに恐れ、今にも北海道へ攻め入るであろうと考えているものが多いが、それはハシにも棒にもかからぬ当推量にて……

 この書信は『榎本武揚―資料』には収録されておらず、『榎本武揚シベリア日記』(諏訪部揚子、中村喜和編、平凡社、2010年)の「解説2」(中村喜和)に引かれている(表記も改められている)。
 榎本はその「当推量」を払拭するために、「ロシアの領地を旅行して、日本人の臆病を覚まし、かつは将来の為を思いて実地を踏査して一書をあらわす心組にて御座候」としたためているのである。
 実際に榎本は、1878年(明治11年)の帰任の際に、シベリアを横断して日本にもどっており、その見聞を「シベリア日記」としてのこしている。しかし、その日記は、彼の生前に公開されることはなかった。日本からながめたロシアの姿と、実際に接したロシアの人々には、かなりの径庭があった。榎本は手紙のなかで、山県有朋もロシアの実状に強い関心を抱いていることをつづっている。
 帰国後榎本は、外務大輔や、海軍卿をつとめ、1885年(明治18年)に内閣制度が発足し伊藤博文が日本で最初の総理大臣となった時、逓信大臣についている。榎本は旧幕臣として異例の出世をし、明治天皇や伊藤からの信頼もあつかった。明治天皇や伊藤にもロシアでの見聞をかたっていたのではないか。
 だが、その後のロシアの東方への強い姿勢により、日本人の恐露病はおさまることはなかった。その病は「裏木戸の足音」を耳にしたことによる「夢魔」と、それを土台とした「当推量」によるものであったのかもしれない。しかし、現代を生きる私達がその是非を論じることはフェアとは言えないだろう。その恐露病ゆえに、「北門の鎖鑰」としての北海道の役割は重要になっていくのである。その話はこれから述べてゆくこととなる。

付記

 森鴎外や田山花袋が戦地にむかった宇品の写真を二枚ご紹介する。日清戦争の折に広島に大本営がおかれたことは第一回でふれた。当時、山陽線の終点が広島であったからだ。広島から宇品には軍用鉄道が敷かれ、日清戦争以後、多くの将卒がここから大陸へと出征していった。戦後、軍用線は国鉄にかわり、1986年(昭和61年)に廃線となる。宇品には線路がのこっている。その横に近藤芳美の歌碑がたつ。 


旧宇品線の線路


近藤芳美の歌碑

 太平洋戦争時、宇品線は昼夜を問わず30分おきに兵士と軍事物資をはこんだ。宇品駅のプラットホームは560メートルと日本で一番長かった。兵士はそのホームから征途についたのである。「還らぬ死に兵ら発ちにき」はそのような意味である。近藤は広島で育ち、中国戦線に召集された経験を持つ。
 旧宇品駅のプラットホームの一部は2000年代にはいってもあった。北海道根室出身の芸術家・岡部昌生はその遺構を、拓本のように、そのデコボコを筆記具で紙にうつしとる技法で作品としてのこしている。岡部はそのフロッタージュという技法で、欧州や日本の負の歴史を紙にきざみつける活動をしている。岡部は以下のように書く。

 かつての軍港宇品港(現広島港)に繋がる宇品駅は、4つの大きな戦争で夥しい兵士と兵器をアジアに送りだし、結果、ヒロシマの悲劇を呼びこんだ。560mの威容を誇示したプラットホームは、わずか60mと30mに分断され、とり残されている。瀕死の巨体が横たわっているかに見えても、ここに居残ることで、加害と被害、被爆都市ヒロシマと軍都広島の境界線を象徴するモニュメントとして、強く、低く、重く問いのことばを発していた(岡部昌生『わたしたちの過去に、未来はあるのか』東京大学出版会、2007年)。

 岡部は、原爆でも消えなかったこの構築物が、高速道路建設のためにとりこわされたことを、「問いのかたちの喪失」と断じている。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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