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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第二回 サンクトペテルブルクからの報せ

 札幌にうつり住んだ時、最初におとずれたのが琴似の屯田兵屋だった。琴似駅はJRだと札幌駅から二つ目、地下鉄琴似駅は大通から六駅目になる。JRと地下鉄の駅は少しはなれており、その間に飲食店など店舗がならぶ。札幌の西の繁華街だ。
 琴似は屯田兵の最初の入植地だ。屯田兵の家屋が今ものこっている。札幌の街歩きは屯田兵見聞からはじめねばなるまいと思い、5月の連休にたずねた。札幌は4月でも雪がふり、大型連休前にようやく気温がゆるむ。歩道の雪もなくなり部屋のかたづけがすんだ頃だ。
 屯田兵屋は琴似神社の境内にあり、ほぼ当時の状態のままであった。兵屋を前にして、その粗末なつくりに思わず息をのんだ。間取りは江戸の長屋よりは広いが、壁は薄い板がはりつけてあるだけ、屋根も茅ではなく、これも板で葺いてある(「柾葺き」というのだそうだ)。天井板がなく、床も板張り、囲炉裏が一つあった。5月でも寒々と感じられた。厳しい北国の冬をここで過ごしていたのか。


琴似屯田兵屋

 後に北海道の歴史書で、屯田兵屋は当時の開拓民の家屋としては恵まれたものであったことを知った。家屋の他に開墾地があたえられ、入地のための支度料や旅費、日当が支給され、当初数年間は米の配給もあった。破格の待遇だった。
 そうであるならばなおのこと、明治初年に裸一貫で北海道にうつり住んだ人々の暮らしが偲ばれる。むろんこの地には先住民がおり、気候風土にあった暮らしをしていたのだろうが。
 なお、琴似の屯田兵屋はもう一戸「琴似屯田兵村兵屋跡」として保存されている。こちらも、神社の境内の家と同様、1874年(明治7年)にたてられたものだ。

屯田憲兵

 屯田兵が優遇されていたのは、彼らが「兵」だったからだ。琴似屯田は屯田兵の第一陣で、それゆえ「第一大隊第一中隊」と名づけられていた。彼らは軍事訓練をうけ、田畑を開墾し、養蚕もおこなった。琴似の南では桑が栽培され、その地は「桑園」と名づけられた。
 いま私は「屯田兵」と書いたが、しかし当初の正式な名称は「屯田憲兵」である。1874年(明治7年)に出された「屯田兵例則」にも「屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編制シ」としるされている。屯田兵はシベリアのコサック兵を模して、黒田清隆が進言しできた制度だ。黒田は1870年(明治3年)から開拓使次官をつとめていた。
 屯田兵例則が発布される前、新政府内の議論で「憲兵」という語をつかうことが提案されている。憲兵とし、国内の治安維持を目的とするとしロシアへの配慮をしめしたのである。憲兵なので「準陸軍」と位置づけられた。
 屯田兵には、主に東北諸藩の士族があてられた。戊辰戦争で「逆賊」となった奥羽越列藩同盟の藩は武士を食わすことができなくなっていた。新政府も彼らの授産を兼ねて屯田兵として徴募した。
 屯田兵第一大隊第一中隊として琴似に入植した人々の出自は、青森、宮城、福島、岩手、山形で構成されていた。屯田兵全体でみても、東北出身が全体の半分を占めていた。
 琴似に入植した東北人で一番多かったのが宮城出身者、その多くが亘理の士族だ。仙台藩の亘理は伊達家の一門で、戊辰戦争で幕府につき、戦後、知行のほとんどをとりあげられた。当主・伊達邦成は、北海道開拓に活路を見いだした。胆振地方にある現在の伊達市は彼らが入植した土地だ。それゆえ、他の家臣も屯田兵となることに臆する気持ちがなかったのだろう。屯田兵屋のある琴似神社も、入植時に亘理伊達氏の祖・伊達成実を祭神としてまつりはじまっている。
 明治8年に入植した亘理の屯田兵は、長押に槍をおき、武士言葉をつかい、謹厳な暮らしをしていたという(琴似屯田百年史編纂委員会『琴似屯田百年史』琴似屯田百年記念事業期成会、1974年)。津軽海峡をわたっても、武士の行動様式をまもっていたのである。
 「兵」とはいいつつも、琴似の多くは外征することはなかった。彼らにとって最も大きな戦いは、1877年(明治10年)におこった西南戦争、敵は西郷ひきいる薩摩軍である。東北諸藩出身の屯田兵は果敢に戦ったという。特に会津兵の活躍は目覚しいものがあった。鶴ヶ城を焼き、同胞を塗炭の苦しみにあわせた薩摩に一矢を報いる機会となったからである。

樺太・千島交換条約

 屯田兵設置の目的はロシアへの守り、つまり北鎮であるが、その重要度はこの琴似屯田兵の入植と同時に一旦緩和されることとなる。
 琴似屯田の家屋は、1874年(明治7年)11月に完成し、翌年の5月17日に第一陣が入地した。琴似屯田兵の全戸198戸、965人の入植が完了するのは5月下旬だった。完了時に永山武四郎が屯田兵につたえたことがあった。永山は黒田清隆と同じ薩摩人で、当時、屯田兵幹部だった。後に永山は第七師団の創設に深くかかわるがその話はあらためてする。
 さる5月7日にロシアの首都・サンクトペテルブルクで、樺太と千島の交換条約が調印されたことを告げたのである(松下芳男『屯田兵制史』五月書房、1981年)。1000人近くの屯田兵とその家族は、ほっと胸をなでおろしたことだろう。これで当面、ロシアの脅威はやみ、ロシアとの戦いは遠のく、と。
 幕末の1855年(安政元年)にむすばれた日露和親条約で、千島(クリル)においては、日本は択捉島、ロシアはウルップ島を領土の境界とした。樺太(サハリン)は、日露の雑居地域とされた。条約締結後に日本は幾度か樺太の南北の中間に国境線をおくことを提案したが、ロシアはサハリンの領有を頑強に主張した。江戸末期には樺太の南にある日本の施設がロシアによって襲撃されている。
 対露外交をひきついだ新政府は、当初樺太開拓使をおいて開発にあたったが、同地の扱いには意見の相違があった。その一つが放棄論だった。
 明治政府は新国家の建設に汲々としており、北蝦夷(樺太)にまで手がまわらないというのが実情だったのだろう。放棄論をとなえた黒田清隆の考えは、北海道開拓に傾注すべきというものだった。
 サンクトペテルブルクで条約交渉にあたったのは榎本武揚だ。榎本はさきの琴似屯田兵と同様、かつて幕府側にあって戊辰戦争を戦った「朝敵」だ。
 幕臣の家に生まれた榎本は長じて幕府の長崎海軍伝習所にはいり、オランダに留学、開陽丸で帰朝するが、時は御一新となり、その開陽丸をひきいて蝦夷地に逃れることとなる。捲土重来を期し、箱館戦争で「官軍」と戦ったことはご存知の通りだ。
 榎本は3年あまり入牢した後、1872年(明治5年)に赦免され、開拓使に出仕することとなる。榎本が死罪をまぬがれたのは、黒田清隆のとりなしだった。榎本は5年に及ぶ留学で、軍事知識はもちろんのこと、化学、鉱物学、電信技術、さらに国際法をまなんでいた。
 箱館戦争の折に、オランダから持ちかえった国際法の書籍(『海律全書』)を黒田清隆に託した逸話はつとに有名だ。当時の新政府の課題は、不平等条約の改正であり、自らの死後、その知識を新政府で活かしてほしいという思いからだったという。また榎本はオランダ語以外に複数の言語に通じていた。
 榎本は当時の日本にあって一、二をあらそう有為な人材だったのだろう。そのような非凡さゆえに、かつて幕臣ながら、対露交渉の特命全権公使に任ぜられたのだ。その折に海軍中将になっている。榎本は1874年(明治7年)6月にサンクトペテルブルクに到着し、交渉を開始、10カ月あまりの協議の末に、樺太・千島交換条約が交わされるのである。

龍宮のご馳走

 私は条約が数カ月の交渉の後に調印された事実を知った時、榎本は大国ロシア相手にずいぶん苦労したのであろうと想像をしていたが、後に彼のサンクトペテルブルクからの手紙に接し、いささか拍子ぬけの感をいだいた。
 そこにしたためられているのは、皇帝アレクサンドル二世と親しく接し、宮中の舞踏会にまねかれて、その踊りや女性たちの容姿を軽口で批評し、宮殿の豪壮さに手放しで感嘆する、そんな榎本の姿だったからだ。宴席で供された食事を、「浦島太郎の龍宮にて姫と住みし時とても斯る金のかかつた御ちそふはあらざりしなるべし」と評している。「龍宮のご馳走」という表現に思わず笑いを禁じえなかった。くわえて、自分にあたえられた仕事を、「御用向は重き事なれどもつまり人間のする仕事なれば人の思ふほど六ケ敷事には無之候」とも述べているのである(一部カタカナはひらがなに改めた)。どちらも、妻タツ宛の手紙(明治8年2月14日)の一節だ(加茂儀一編「書翰編」『榎本武揚―資料』新人物往来社、1969年)。
 そのような軽みのある表現は、異郷で大任をおびる夫を案ずる妻への配慮からと思われるが、巨大帝国ロシアのその頂点にたつツァーリ周辺や、大国との外交交渉(御用向)を、このように軽妙に描くところに、幕末から明治を生きた人間の器の大きさを感じてしまうのだ。
 サンクトペテルブルクでの榎本の手紙を読んで驚きの感情をもったのは、恐らくはその後の、日露関係が頭にあったからだろう。
 アレクサンドル二世没後、帝位をついだ次男アレクサンドル三世は、シベリア鉄道の敷設を決定し、極東への進出をはかる。鉄道は軍隊を迅速にはこべる。シベリア鉄道は当時の日本人にとってとてつもない威喝にうつった。皇太子ニコライが大津で巡査・津田三蔵に襲われた事件は、その恐露の感情がふきだしたものだ。日露戦争はそのニコライが在位中におこる。
 その後の日露関係については、あらためてふれるが、榎本の闊達さは、やはり、アレクサンドル二世治世下の時代の空気が関係していたのではないかと思えてしまうのだ。榎本は1878年(明治11年)にシベリア経由で帰国するが、シベリアでもサンクトペテルブルクからの指示により丁重な扱いをうけている(加茂儀一編「シベリア日記」『榎本武揚―資料』新人物往来社、1969年)。
 アレクサンドル二世の治世とは、クリミア戦争(1853-56)での敗北後、近代化の遅れを自覚したロシアが、1861年に農奴解放令を出し、「大改革」をおこなった時代だ。欧州諸国を模倣した近代化を、皇帝の権力のもと、上からおしすすめたそのような治世だった。東方での対外政策では強硬路線を排し、1867年にはアラスカを米国に売却している。その8年後に樺太と千島は交換されたのである。

占守海峡を以て、両国の境界とす

条文には、以下のように書かれている。

 柬察加地方「ラパッカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス

 カムチャッカ(柬察加(かむさっか)地方)のロポトカ岬(ラパッカ岬)と占守島の間の占守海峡はわずか13キロメートルだ。その海峡が日露の境界線となった。
 このサンクトペテルブルクでの調印の70年後に、まさにこの場所で日本とロシアとの間で戦闘がはじまるのである。占守島の北岸の竹田浜にソ連軍が侵攻する。1945年8月18日の未明のことだった。「占守島の戦い」である。日本はポツダム宣言を受諾し、終戦の詔書もだされていた。
 ただし、この国境画定と占守島の戦いが一直線でつながっているわけではない。至極当たり前のことを述べることとなるが、帝政ロシア(ロマノフ朝)は、大津事件で凶刃をあびたニコライ二世を最後のツァーリとして崩壊、ロシア革命をになった一勢力ボルシェビキが権力を奪取し、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生した。1945年8月9日未明からのソ連軍の侵攻はスターリンのもとでおこったものだ。日露の関係を考える場合、20世紀初頭のロシアにおけるこの体制の一大転換は、まずもっておさえておかねばならない史実だろう。

 実は、「占守島の戦い」の指揮は、この連載の「主人公」である札幌の月寒(第五方面軍司令部)でとられた。アッツ島の戦い、キスカ島からの撤退も同様である。占守島で戦った日本兵は投降し、シベリアにつれてゆかれ、長きにわたって労働を強いられる。その地に没した兵士も少なくない。これもまた、戦後につづく「北鎮」の物語である。
 第五方面軍司令部の司令官邸が今ものこっている。真珠湾攻撃の年、1941年(昭和16年)にたてられたもの。同官邸は占領軍の接収の後、独立後は北海道大学の学生寮となり、現在は「つきさっぷ郷土資料館」としてつかわれている。


つきさっぷ郷土資料館

 1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約は、帝政ロシアと帝国日本にとって、江戸期からはじまった領土問題の当面の解決となった。それによってロシアは、力を西に傾注し、トルコとの戦いに勝利した。日本は国内建設に力をそそぎ、相次ぐ士族の反乱をおさえ、殖産興業、富国強兵へと邁進していく。
 ではなぜ、明治政府は蝦夷地を北海道とあらため、屯田兵をおき、対露のまもりとしたのか。そのことを知るためには、近世以来の日本とロシアとの関係をふりかえっておく必要があるだろう。次回は時間を数百年もどし、16世紀からの日露関係を見ることとする。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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