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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第四信 山内明美より「大津波から8年目の朝に」

姜さん

  雪に埋もれて、長く辛い冬の後に、きっとやって来る春を待ち望んでいるのは、この列島の何処よりも東北人なのでした。冷害だらけなのに、ほとんど精神主義でコメを実らせてきたといっても、決して言い過ぎではないと思います。もっとも、昨今は気候温暖化で、北海道のコメの方が美味しいと言われるようにさえなりましたけれども……。そうやって季節さえ変わってゆきます。

 何をぐずぐずしているんだよ、汽車が出発しちまうじゃねぇか ですよね。

 「そうだよな」とわたしも思います。
 宮沢賢治が、徹頭徹尾この「近代」のただ中でもがき死んでいったように、加害者でない人間などただの一人も存在しない世界で、わたしたちは今、生きています。賢治の作品の中で、最も理解が困難と思われる「農民芸術概論綱要」の、あの際どい一節。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

 賢治の死後、五族協和と八紘一宇のスローガンと共に、この賢治の言葉は瞬く間に広がってゆきました。花巻の無名詩人は、戦争に突き進んだ「近代」の中で増幅され、故郷から切り放たれ、〈わたしたち〉のもとから連れ去られました。この言葉はまだ、「近代」の旋風に巻き込まれたままです。わたしは、一連の「綱要」を読み兼ねています。銀河系を自らの中に意識して応じていく「ぜんたい幸福」という文字の前で、「求道」のない自分はぐずぐずしています。
 とはいえ、賢治は、〈うた〉や〈かたり〉を、この時代に再生させようと必死だったのではないかと、姜さんを通じて思っています。
 「唄えない」こと、「語れない」ことは、恐ろしく苦しいことです。「近代」とは、そんな時代だと思います。このことにようやく気がついたのは、あの大津波の後でした。もっとも、わたしの場合は、棄郷する気はなくて、今暮らしている場所でとりあえずは、《近代を包み込んでも余りある世界》について考えたいと思っています。それくらい大きな津波でしたから。そしてまだ、傷は生々しく、これからこの《身体》がどうなってしまうのか、全貌が見えていません。

 姜さんからの第二信を受け取った後、わたしは今、韓国にいます。姜さんの御祖父さんが「独立万歳」を叫んでから100年後の3月1日の光化門に、わたしは立っています。道ゆくひとびとがわたし個人を責めることはないけれど、否応無く、わたしはひとりの日本人です。それこそが「近代」。光化門の世宗像を前に、大掛かりな舞台が組まれ、日韓共同での市民宣言を聞きました。
 ここまで来て、つくづく思いました。姜さんの御祖父さんも叫んだ「独立万歳」とは、来たるべき未来への《予祝》だったのだと。今立っている、あれから100年目。そしてここから100年後。だから今日は「統一万歳」なのだと。このアジアで使われてきた《万歳》の意味が、日本では変質しています。この《予祝》もまた、〈うた〉と〈かたり〉の線上にあるはずです。
 実は、今回の渡韓の目的は、独立宣言100年を迎えることもさることながら、慶尚北道星州にある人口100人ばかりのソソンリ村を訪ねることでした。2年前、この小さな村に、巨大なミサイルが米軍によって持ち込まれました。村人たちは、文字通り命がけで抵抗しました。2年経った今も持ち回りで、土曜日と水曜日に集会が開催されていると聞きました。
 ソソンリが今どうなっているのかを、知りたいと思いました。
 3月2日にソウルからKTXで東大邱まで行き、そこで円光大学の元永常先生の車で案内いただき、わたしは星州のソソンリへ入りました。ここでも独立宣言100年目の集会と共に、「ソソンリは大韓民国だ!」「THAAD撤去 万歳!」「米軍撤退 万歳!」が叫ばれていました。もうすでにTHAADが配備されてしまった、このどうしようもない世界で《万歳》が轟いていました。しかも、若い女性たちが先陣を切って太鼓や鉦を打ち鳴らしています。やがて来るべき未来を祝福する「声」に効力があることを、この村の皆が知っているのです。そのことを知ることができただけで、来てよかったと思いました。
 集会とデモが終わってから、ソソンリ村の集会所で、村長さんらと懇談し、村で収穫された野菜やイチゴ、それとサンギョプサルをご相伴にあずかりました。村の人々が土地の生り物を一緒に食べる姿も、これだって日本ではすでに失われているでしょう。その後、だいぶ暗くなっていたのですがTHAAD(ミサイル迎撃設備)が配備されている山のふもとの小さなテントを訪ねました。テントの前には「サード反対 平和を耕せ 722日」と書かれた看板が置かれています。わたしが訪ねた日は、配備から722日目でした。小さくとも、最前線の団結小屋です。このテントは、警察のテントのすぐ隣に置かれているのですが、この日は男性が一人、当番で座り込みをしていました。(実際は、パソコンで仕事をしたり、お茶を飲んでいる。)もしこのテントが撤去されるようなことがあれば、100人のソソンリ村民は、国と戦争を辞さない最後の砦なのだと聞きました。たぶんここには、《近代を包み込んでも余りある何か》があるのです。
 姜さんからの手紙に緒方正人さんのことが書かれていました。

 「近代」の仕組みでは「いのち」への責任など誰も取ることができないのだ

 緒方さんは、そのことに気がついたとき、ご自分のことを「狂った」と語りました。もはや、「近代」では通用しない場所まで行き着いたその日、自分はとうとう娑婆では通用しない(話の通じない)ところまで来てしまった。
 東日本大震災から2年後に、緒方正人さんを訪ねて水俣市の隣にある芦北町女島へ行きました。ご自宅を訪ねるといっても、緒方さんはどうも住所というものを持っていなくて、お家を探すのに難儀したのです。(いえ、実際に家を探し当ててくれたのは、一緒に同行した編集者の野本さんですけれども…。)
 「緒方さん家は無番地なんですよ。」話には聞いていました。でも、それを聞いたわたしが即座に思い浮かんだのは、あろうことか「網走番外地」でした……。そして、緒方さんのお家にたどり着いたとき、少しほっとして、そして網元の立派なお家で、緒方さんの書斎と思しき広い仕事部屋でお話しを伺ったのでした。すると、「登記しとらんのですよ」と言うのでした。「この家の下のコンクリートなんかの隙間から、ゴボゴボ海水が湧きよるとです。それは、ここが元は海だったということですから、海のもんです。」そのような趣旨のことを語りよったとです。それでもう、わたしは「ここへ来てよかったな。緒方さんに会えてよかったな。」と思いました。

 そろそろ、春の《予祝》を、しましょうか。

2019年3月11日
石牟礼道子さんの生まれた日に、そして大津波から8年目の朝に。
山内明美


ソソンリ村。正面の山にTHAADが配備されている。


3月2日の3.1独立宣言とTHAAD反対集会の様子。女性たちが多い。


星州の農村部は〝チャメ〟(マクワウリ)の産地で、ハウス栽培されている。農道でTHAAD反対デモ。

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著者略歴

  1. 山内明美(やまうち・あけみ)

    1976年、宮城県南三陸町生まれ。宮城教育大学教育学部准教授。専攻は歴史社会学、農村社会学。日本の東北地方と旧植民地地域の双方をフィールドに、稲作とナショナリズムをテーマとする文化的政治にまつわる研究をしている。東日本大震災以後は、郷里の南三陸での農村調査も行っている。著書『こども東北学』(イースト・プレス)、共著『「辺境」からはじまる――東京/東北論』(明石書店)、共著『グローバル化の中の政治 岩波講座 現代4』(岩波書店)、共著『ひとびとの精神史 第3巻』(岩波書店)など。

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