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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第一信 姜信子より「奪われた野にも春は来るのだろうか」

 山内さん!

 今までに何度も会って、一緒に旅をして、東北の出羽三山でともに山伏修行までしたというのに、なんとこれが初めての手紙ですね。
 せっかくだから、あらためてういういしい心持で、と言いたいところなのだけど、いまこの手紙を書いている私の心はごうごうと音を立てて怒りが渦巻いてどうしようもないのです。どうしてあの海にまるで見せしめのように土砂を流し込むのか、言いようのない悔しさ……。

 奪われた野にも春は来るのだろうか
 奪われた島にも春は来るのだろうか
 奪われた声にも春は来るのだろうか

 沖縄の辺野古のことです、今日は2018年12月14日です、わが国は法治国家であると言い、沖縄の人々に寄り添うと繰り返し言い、丁寧に誠実に説明すると再三言いながら、実のところは選挙で示された沖縄の民意など意に介さず、徹底して対話を拒み、国家がすすんで法を曲げ、理を踏みにじり、「全力で埋め立てを進める」という、この力ずくの権力の無惨な光景。
 とはいえ、手足を縛って口を封じて人間の大切なものを押し込み強盗のように奪い取っていくような、この横暴きわまりない光景には既視感があります。わたしたち、それを水俣でも福島でも見ましたよね、東日本大震災のあとの東北でありありと見ましたよね、そうだ、ほんとに既視感だらけだ、足尾で見た、阿賀で見た、筑豊で見た、樺太で見た、朝鮮で見た、数限りなく見た、いったいいつまで私たちはこれを見つづけるんだろう?
 そもそも、沖縄こそが近代日本の最初の植民地でしたね。それを「琉球処分」という矮小化された名称で覆い隠した者たちがいる。1879年の「琉球処分」の経験は、1910年の朝鮮半島の植民地化にも活かされる。「日韓併合」。これもまた力ずくの植民地化を隠蔽する言葉です。(戦いに敗れての退却を「転進」だとか、戦場で兵士を死に絶えさせることを「玉砕」だとか、こういう狡猾な言葉遣いは権力を凶器のように振り回す者たちの悪癖です)
 つくづくと思います。隠蔽する無数の言葉の陰で、近代日本はいったいどれだけの「野」や「山」や「渚」や「島」を奪ってきたのだろう? どれだけの命の「声」が野ごと山ごと島ごと封じられてきたのだろう?
 そんなことを考える私の口から思わずこぼれでた「奪われた野にも春は来るのだろうか……」というつぶやきは、植民地朝鮮の詩人李相和(イ・サンファ)の詩の言葉からやってきています。詩人は記憶の中の春の野の夢のような情景を描いて、その最後にこんな言葉を置いています。
 「しかし、いまは野を奪われ、春さえも奪われようとしているのだ」

 いまいちど、今日は2018年12月14日、戦前・戦後の日本人の忠君愛国の一つのモデルでもある「忠臣蔵」の討ち入りの日です、明治150年の冬です。実に厳しい冬です。ちょうど二日前、旧知の比較文学研究者西成彦さんがこの150年を振り返ってfacebookにこんなことを書いていました。
 「日本の近代化は、まさに「奴隷解放の名を借りた新しい奴隷制(=帝国主義的な資本制)」の始まりだったし、それは周縁地域の植民地化や軍事占領を通して、関東大震災のどさくさのなかでの朝鮮人虐殺、あるいは日中戦争における大量虐殺に多くの日本人を駆り立てた。そして、みずから大日本帝国の「奴隷」にも等しかった日本軍人は、「軍需品」としか呼びようのない「二重奴隷」として、「慰安婦の動員」をまでおこなった。」
 よいのは響きばかりの隠蔽する言葉を近代日本から剥ぎ取れば、こうとしか言いようはないかのようです。
(ちなみに西さんは森鴎外研究もしています。中世より語り伝えられた名もなき民の抵抗精神に満ちた物語である説経「山椒太夫」を、近代人鴎外が近代小説「山椒大夫」に書き換えたとき、それは一見民主的な奴隷解放の物語のようであるが、あとに残されたのは抵抗の牙を抜かれて近代空間に放り出された解放奴隷たちなのだ。と、これもまた恐ろしいことを淡々と論じています。)
 しかし、なんだかなぁ、身も蓋もない。奴隷なんだな、奴隷! 奴隷の自由、奴隷の民主主義、奴隷の人権、奴隷の最低生活なんだな。そりゃ、まともな神経を持っていたら、目も背けたくなるよね、忘れたくもなるよね、絶対そうじゃないと自分で自分を騙しもするよね。私たちを取り巻くそういう現実。明治以来150年も続いている直視したくない現実。それでも時には奴隷も反乱を起こすわけで、たとえば、それが100年前の1918年の米騒動だったりするわけです。
 さて、ここで私は幼い頃に夜ごと祖母にせがんで話してもらった昔話をしなければいけません。
 祖母は植民地になる前の朝鮮に生まれました。1931年、一足先に植民地朝鮮から日本に渡ってきていた祖父を追いかけて、ほんの一歳だった私の父を抱いて、慶尚南道晋州をあとに、釜山から連絡船に乗って玄界灘を越えて日本に渡ってきました。やがて祖父母は東京・荒川区の三河島駅前で朝鮮料理屋をはじめる。三河島と言えば今も昔も朝鮮人の町です。祖母が三河島に暮らしはじめたのは1923年の関東大震災から10年も経たない頃のことです。その祖母がこんな昔話をしたんです。大好きだった昭和の煙草、ハイライトを口にくわえながら。

昔々のことだよ、関東大震災って、ものすごく大きな地震があってね、たくさんの朝鮮人が死んだのよ、でもね、地震で死んだんじゃない、地震のあとに殺されたんだよ、あのとき、ひとりの朝鮮のおばあさんがいたのよ、朝鮮の人だから、いつも白いチョゴリを着ていたよ、関東大震災のときも白いチョゴリだったんだよ、おばあさんは地震では死ななかった、地震のあとに死にましたよ、みんながね、そんな恰好で外を出歩いたら危ないと言ったのに、白いチマチョゴリで外に出ていっちゃったんだ、だって朝鮮のおばあさんだからね、そしたら、日本人の男の人たちにつかまってね、その人たちは、生きているのに、おばあさんはまだ生きているのに、生きたまんま、燃えている交番に投げ込んだんだ。

……そうして白いチョゴリを着たおばあさんは死にました。

 これが私が祖母から聞いたただ一つの昔話です。何度もくりかえし聞きました。私のなかには幼いころからずっとメラメラと真っ赤に燃え上がる白いチョゴリのおばあさんがいます。地震がくるたび、私の中のおばあさんが燃え上がります。2011年3月11日午後2時46分、その日もおばあさんは大きく赤く燃え上がりました。そのとき、私は何の因果か、たまたまフィールドワークで三河島の路上にいて、目の前のマンションが今にもぽきりと折れそうな揺れの中で、揺れのあとに続いて起こるかもしれない災禍のほうへと心は既に弾き飛ばされていて、真っ赤に燃えあがる自分自身の幻を観ていたのでした。
 ここから話はようやく米騒動に戻ります。というのも、白いチョゴリのおばあさんも、おばあさんの話を私に語り聞かせた祖母も、米騒動ゆえの「コメ難民」だからなのです。この「コメ難民」という呼び名、そして、ここから先の話は、村井紀さんの『南島イデオロギーの発生 柳田國男と植民地主義』(福武書店、1992年)に教えられたものです。
(20数年前、私は村井さんのこの本を読んで初めて、自分は近代日本最初の難民たる「コメ難民」の一族なのだということを痛切に知りました。「在日」とは単に植民地の民の末裔なのではなく、なによりも近代世界の「難民」なのであり、奪われたままの存在なのだということを。)
 1918年、「米騒動/米よこせ暴動」に大いに震えあがった大日本帝国は、日本人の食する米の安定供給の役割を植民地に担わせます。それが1920年から朝鮮ではじまった産米増殖計画の目的。このあたりの話になると、もう山内さんの専門領域ですね。ざっくりと当時の状況を書くならば、米の増産のためには土地改良やらなにやらお金がかかる、それは植民地の中小規模の自作農には背負いがたい負担となって、多くの農民が土地を手放し、流民化してゆく。こうして日本人に米を食わすために「コメ難民」となった者たちが、生きぬくための職と食を求めて朝鮮から日本へ、安価な労働力となって流れてゆく。その人々が倒錯した被害妄想にとらわれた日本人たちに無惨に殺される。
 1923年の関東大震災当時、8万人あまりの朝鮮人が日本にいたのだそうです。そのほんの3年前の1920年には3万人あまりだった。たった3年で大変な増え方です。そもそも「日韓併合」前年の1909年には日本には790人しか朝鮮人はいなかった。
 今もこの国に生きる「コメ難民」の一族の子である私は、切実にこんなことを思っています。相も変わらず無惨なこの国の移民/難民/外国人労働者の取り扱いも、日本社会にはびこる彼らに対する禍々しい妄想も、その基本形は「コメ難民」からはじまるのではないか、そこにもこの国の近代の隠された実質が潜んでいるではないか、と。

 私は植民地からの「コメ難民」の一族の子として、遅すぎる自己紹介のつもりで山内さんにこの往復書簡の第一信を書きました。私にとって「コメ」といえば、なんといってもまずは山内さんですから。寒冷地で稲作には不向きのはずの東北がコメの最大供給地になったのは戦後のことで、それは植民地を失ったからなのだ、東北が失われた植民地の代わりの役割を担ったのだという事実を、東日本大震災の直後に山内さんが出された『こども東北学』(イーストプレス、2011年)で知ったとき、私はさらにもう一歩、深く、日本の近代の秘密に触れたように思ったのでした。
 私たちが郷愁を覚える東北の水田風景、あれこそがまさに近代的風景なのだ、あれは何かを隠して、何かを忘れてしまっている風景なのだ、と語る山内さんの東北の風土に育まれた声に、本当に目からも耳からもウロコの落ちる思いがしたのでした。
 それは、私にとって、風土を奪われ風土を忘れ都市に生きる「コメ難民」の閉ざされた近代が、風土に生きながら風土を奪われゆく日本の「内なる植民地」の民の近代とひとつながりの大きな流れとなる、今までとはちがう近代の風景が開かれてゆく、そんな鮮やかな体験でもありました。
 しかし、まあ、私たちの近代には、隠ぺいする言葉、刷り込まれた郷愁、見えない植民地、忘却の風景、牙をもがれた解放奴隷の民主主義、ウロコ、ウロコ、ウロコがいっぱい。
 私は、『こども東北学』を読んだ2011年からずっと山内さんに出会いたかったのです。
 「奪われた野」に生きる私たちの「春」を山内さんと語り合いたいとずっと思っていたのです。

2018年12月14日
姜信子     


祖父・姜斗星、祖母・徐日善。撮影はおそらく戦前と思われる。

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著者略歴

  1. 姜信子(きょう・のぶこ)

    1961年、横浜市生まれ。著書に『棄郷ノート』(作品社)、『ノレ・ノスタルギーヤ』『ナミイ 八重山のおばあの歌物語』『イリオモテ』(岩波書店)、『はじまれ』(サウダージブックス)、『生きとし生ける空白の物語』(港の人)、『声 千年先に届くほどに』『現代説経集』(ぷねうま舎)、『平成山椒大夫 あんじゅあんじゅさまよい安寿』(せりか書房)など多数。訳書に、李清俊『あなたたちの天国』、カニー・カン『遥かなる静けき朝の国』、編著に『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房)など。17年『声 千年先に届くほどに』で鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。路傍の声に耳傾けて読む書く歌う旅をする日々。

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