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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第二十一信 姜信子より「耳たちの民主主義」

山内さんへ

 長雨、豪雨、コロナの7月が終わろうとしています。今日、7月30日も奈良は雨模様です。ずっと雨です。北陸にも、東北にも、九州にもふたたび不安な激しい雨が降り注いでいます。
 ここ一週間、この雨の中をずいぶんと出歩きました。出歩かずにはいられませんでした。
 まずは、水俣から関西へと対話の旅に出てきた相思社(※)の永野三智(※)さんと、24日に奈良市内某所で私が作った自家製マッコリを飲み、26日に西成・釜ヶ崎でも会い、水俣病の現在をめぐる話を生の声で聞きました。(三智さんは、25日には済州島出身の一族の歴史を聞書きした社会学者朴沙羅さん(※)と、26日には釜ヶ崎を拠点に「さまざまな人々とであい、表現とまなびあいの場作りをおこなう」ココルーム(※)を主宰する詩人上田假名代さんと対話をするために関西にやってきました)。
 それから26日夕には、私は釜ヶ崎から梅田にまわって、「7.26 障碍者大虐殺 4年目の追悼アクション」に参加。街頭スタンディングをしました。この追悼アクションは、相模原の津久井やまゆり園障碍者殺傷事件で殺され,1人を除いては名前すら明かされぬ19人の生に精一杯の想像力で思いを馳せようと、身体障害者の身体表現を追究するパフォーマンスグループ「劇団態変」(※)の主宰者金満里さんらが企画したものです。
 「わたしは7月26日に殺された19人のひとりだ」。これが追悼アクションの合言葉でした。
 雨の中を歩きながら、つくづくと思いました。コロナの脅威が叫ばれ、コロナを弄ぶ者たちに命を弄ばれ、私たちはますます呆れるほどに蔑ろにされ、大事なものをむしりとられ、あまりにも簡単に分断されて切り刻まれている。
 山内さんの言うとおり。近代国家というのは確かに「排他的な愛」で貫かれています。
 排除される他者、在日とかアイヌとか障害者とかハンセン病者とか難民とか、あるいは地域まるごと沖縄とか水俣とか福島とか……、いやなことだけど、「排他的な愛」というやつは、一見かなり分かりやすいですね。それが罠なんですね。自分はそこには当てはまらない、これは他人事だと安心している者たちにも平等に、排他的な愛はますます暴力的に降り注いでいるというのに、それを見えなくさせる。
 いったい、この無惨な雨はいつまで降り続くのでしょうか。
 私たちは、いつまで、こんなとんでもない暴力にさらされながら生きていくのでしょうか。(これもまた、繰り返し二人の間で呟かれてきた問いですね)
 遠い昔、法学部の学生だった頃に「国家とは唯一の合法的暴力装置である」などということを私も抽象的な知識として覚えはしました。実のところ、それは抽象的どころか、生きているかぎり(いや、死んでもなお)日々加えられる暴力であったわけで、しかもそれは構造的なものだから、つまりは日常の中に織り込まれているものだから、その多くは眼には見えない暴力としてやってくる。私たち自身もその構造に織り込まれてしまっていて、暴力をふるわれると同時に、自分も誰かに見えない暴力をふるわざるをえない仕組みになっている。「7月26日に殺された19人のひとり」である私は、同時に、確実に、「7月26日に19人を殺したひとり」でもあるのです。


7・26追悼アクション 殺害された19名のひとりひとりのことを記したのぼりを掲げる。


7・26追悼アクション。ソーシャルディスタンスを保ってのスタンディング

 このことに絶望的に気づくには、それなりの長い時間がかかるでしょう。気づきにいたる長い「時間」もまた、私たちを分断する「時間」にもなりましょう。
 そもそも暴力について。レベッカ・ソルニットがこんなことを言っています。
 「あなたが貧しければ、人をあやめる手段は昔ながらの方法にかぎられる。ローテクの暴力とも呼ぶべき、素手や、ナイフや、こん棒。または近代的な手道具(拳銃や自動車)を使った暴力もある。けれども、あなたがとてつもなく裕福ならば、産業規模の暴力を行使できる。(中略)リスクと利益を計算したうえで、毒物や危険な機械を世に送り出せる。――メーカー各社が日々やっているように。あなたが一国の長ならば宣戦布告して、十万、百万の単位で人を殺すこともできる。(中略)だが、暴力が語られるとき、話題になるのはほとんどつねに下からの暴力でであって、上からの暴力ではない」。(マーク・ボイル『モロトフ・カクテルをガンディーと』より)
 合法的であろうとなかろうと、暴力は暴力。そして、法に守られ、資本と固く結びあって構造化されている上からの暴力ほどたちの悪いものはない。なにより、いま私たちを囲い込んでいる国家ほど理不尽なものはないでしょう。<正義の戦争>で経済をまわし、<愛と憎しみ>で国民を分断して支配する、素晴らしき民主国家。殴られても踏まれてもお行儀よくふるまってきた私たちも、もういいかげん無法な民主主義・・・・・・・に目覚めてもいい頃ではないのだろうか。と、近頃私は真剣に思っています。
 <無法>と<民主主義>なんて、もっとも折り合いのつかないもののようでもありますが、アナーキスト人類学者デヴィッド・グレーバーはなんと18世紀前半の大西洋の海賊を例に挙げつつ、民主主義の起源を語ります。
 国家の外の領域に、さまざまな文化的背景を持ったはみ出し者・荒くれ者どもが乗り合わせた船がある。そこには国家のような圧倒的な暴力装置は存在せず、だからと言って船長(権力者)と乗組員(反逆者たち)が取り分をめぐって互いに暴力をふるいあえば自滅の道しかない。そのような状況だからこそ、平等な取り分(権利)を保障する法外な民主主義が、突如として即興的に編み出された、というのです。
 海賊の、海賊による、海賊のための、暴力装置なき民主主義。真の民主主義とは国家の外でこそ生まれるのである。希望は国家の外にあるのである。われら、無法な民主主義者たれ! そう小声で叫んでみれば、降りやまぬ無惨な雨に打たれつづけて挫けそうな心にも、新たな航海に向かう力が湧きいずるようです。
 思うに、海賊どもの無法な民主主義の合言葉には、青い芝の会の横田弘さんによる「CP者の行動宣言」の断固としたこの一節がなによりふさわしいのではないでしょうか。

 「われらは愛と正義を否定する」。

 前便で山内さんが書き送ってくれた「CP者の行動宣言」の強烈な厳しさは、らい詩人集団が1964年に発表した「宣言」を想い起こさせもしました。

一. 私たちは詩によって自己のらい体験を追及し、また詩をつうじて他者のらい体験を自己の課題とする人々を結集する。

一. 私たちは、私たちの詩がらいとの対決において不充分であり、無力だったことをみとめる。なぜそうであったかの根を洗いざらし、自己につながる病根を摘発することから、私たちは出発するだろう。

一. 私たちは対決するものの根強さをようやく知りはじめたところである。
それは日本の社会と歴史が背負いつづけた課題とひとしいものである。だから私たちはらいに固執するだろう。なぜなら私たち自身の苦痛をはなれて対決の足場は組めないから。

一. 私たちの生の本質と全体性としてのらい、との対決の志向が、集団の最低限の拘束である。サークルと詩誌をその拠点としよう。

 らい詩人集団の同人であった谺雄二は、「らい」に対して「非らい」という言葉を使いました。「人」に対して「非人」と言うように。この「らい-非らい」という対の言葉を最初に口にしたのは、谺雄二ら療養所の若き詩人たちの指導者であった詩人、村松武司です。
 村松は朝鮮に生まれ育った植民者の子でした。朝鮮で村松は多くの「浮浪らい」を見たけれども、そのなかに「日本人らい者」はいなかった。「日本人らい者」に初めて出会ったのは、戦後日本に引き揚げて来てからのことだった。そのとき村松は、同時に、朝鮮では出会うことのなかった「貧しき日本人労働者」にも初めて出会った。そして、大きな衝撃とともに近代国家日本の「構造的暴力」に気づくんです。日本の近代化とは、「らい」と「朝鮮」に象徴される弱きもの遅れたものを切り捨てて、見えないところに押しやって、死屍累々を放置して、辛うじてもたらされたものに過ぎないのだと。
 村松が自身を「非らい」と呼ぶとき、それは「羞恥」の別名です。そして、村松をとおして「らい」―「非らい」という対の言葉を手にした谺雄二がみずからを「らい」と呼ぶとき、それは、自分の立つ場所こそが世界の中心なのであり、そこから「らい」の想像力をもって世界を創造しなおすのだという「矜持」の別名です。
 「人」を中心に置いて、そこから無数のさまざまな「人に非ざる存在/非人」を切り分けて周縁に追いやることで形作られている私たちのこの世界。死屍累々のこの「人」の世界を、「非人」とされて国家の外に放り出されたあらゆる命から立ち上がってくる想像力で反転させて、開いて、再創造するならば、そこにはどんな新しい世界が広がるでしょうか。
 らいの想像力、CPの想像力、障碍者の想像力、在日の想像力、アイヌの想像力、非国民の想像力、沖縄の、福島の、水俣の、東北の、踏みにじられたすべてのものたちの想像力、山川草木虫魚の想像力、ありとあらゆる「人に非ざる存在」の命に宿る無数の想像力を網の目のように結び合わせて、こつこつと編み上げてゆく。そうして生まれいずる、一方的かつ排他的で逃げ場もない暴力装置の想像力を打ち壊す「無法の想像力/無法の民主主義」を私は想い描きます。(きっと山内さんは「また姜さんがふわふわしたことを言いだした」と思っていることでしょうねぇ。笑)。

  さて、ようやくのことで、19信で書きつくせなかった「水俣」の話の続きです。これは、石牟礼さんの『苦海浄土 第二部』の中で語られていた「花非人(はなかんじん)」との出会い直しの話でもあります。
 「花非人」とは、桜の花を乞い求める者。水俣病の公式確認(1956)以前の1953年に5歳で発病し、1956年3月15日に8歳で亡くなった水俣病第1号患者、溝口とよ子ちゃんのお母さんを指す言葉です。
 お母さんは、「あの子はなあ、餓鬼のごたる姿になっても、死ぬ前の日に桜の見えてなあ。手足を持たん虫の死ぬ時のように、這うて出て。この世の名残りに花を見て……うつくしかなあ、ち。かなわぬ口しとって、ああ、かかしゃん、シャクラの花ち、いうて」、と語っては、春に来るたびに花非人になりました。「ああシャクラの花のシャイタ」と、お母さん自身が八つの子になって、花曇りの下を空ばかり見て、漂浪(され)いたのだといいます。
 そして、お母さんだけでなく、死にゆく妹を見つめていた11歳年上の姉、恭子ちゃんもまた、83歳の今までずっとシャクラに焦がれて死んでいった妹の魂に寄り添いつづけてきたようなのでした。
 相思社の近くに住み、年はとっても心は20歳と言って、20代の若い相思社の職員と「恭子ちゃん」「よもぎちゃん」と呼び合って、相思社でなにか催しや宴が開かれれば遊びにやってくる恭子ちゃんは、私が相思社を訪れた折に開かれた5月9日の夜の宴でも当然にそこにいたわけで、共に食べて飲んで踊って遊ぶうちに、妹のとよ子ちゃんのことを、まるで昨日のことのように語って聞かせてくれました。
 「とよ子はなぁ、一日中ひとり横になっていて、体もきつうして、夜も寝られんだったのでしょう。お父さんは仕事でいつも帰りが遅かったんだけど、とよ子ひとりが目を覚まして待っていて、『お父さん、おかえりなさい、今日も一日疲れたろ?』って言うてね、とてもやさしい子だったんです。とっても桜が好きでね、桜の咲くころに小学校にあがるのも楽しみにしていたのにねぇ……」
 だから、恭子ちゃんは、ほんの数年前のことだけど、家の前の道路端の小さな空き地に何本かの桜を植えた。(相思社の敷地にも1本植えました)、そうしたらその空き地は市有地だから桜を伐りますと市役所の職員が訪ねてきて、恭子ちゃんは「トヨコ桜を伐るというなら、私は桜の木に抱きついて離れんから、私を伐ってから桜を伐れぇ」と叫んだのだという。
 そんな話を皆で輪になってしみじみ聞いたその翌日の昼には、ふかしたカライモを持って恭子ちゃんがまた相思社に現れて、「きのう夢にとよ子が出てきて、三味線に合わせて楽しそうに踊っていたよー」と言うんです。恭子ちゃんが踊れば、とよ子ちゃんも一緒に踊る。「とよ子が喜んでいるから、また宴をやりたい、命日の3月15日に毎年とよ子桜の下で供養をするから、そのときにまたみんなで歌い踊りたい」と、恭子ちゃんなのか、とよ子ちゃんなのか、もうどちらが言っているのかわかりません。
 そういうわけで、いきなり、来年の3月14日(とよ子ちゃんの命日に一番近い休日)に、今年乙女塚で果たせなかった祈りの芸能祭を、とよ子桜の下でもやろうということになりました。
 山内さん、これはもう、南三陸の入谷の祭のお囃子の笛を持って駆けつけるしかないですよ。


相思社の集会棟に飾られている写真。
前列向かって右から二人目が、溝口とよ子ちゃんのお母さんと、とよ子ちゃんの遺影。

 もちろん、相思社にやってくるのは恭子ちゃんだけではありません。1956年に水俣病は公式確認されたというのに、実は戦前から水銀被害はあったに違いないとも言われているというのに、「自分は水俣病ではないか」といまなお悩み苦しみ、その末に、チッソ城下町の水俣では「ニセ患者製造所」と揶揄されることすらある相思社へと、水俣の街から長い坂をのぼってやってくる人々がいる。差別を恐れ、どこにも誰にも話せず、時には家族にすら隠したまま、最後の最後に相思社に相談にやってくるんです。相思社では、われらの乙女塚芸能祭の企みの首謀者のひとりだった永野三智さんが、そんな人々を大きく耳を開いて待っている。
 切り捨てられてきた被害者たちの話を聞きつづけきた永野さんは、水俣にはいくつもの「水俣病」があると言います。本来ならば、水銀汚染の時期に不知火海沿岸に住んでいて魚介類を食べた人々はすべて水俣病と診断すべきであるのに、加害側である行政が誰が患者なのかを認定する。可能なかぎり患者認定をしないことで被害実態を隠蔽する。そのうえで、水俣病患者ではないけれども健康不安を抱える「被害者」というグレーゾーンの分類項を立てて、恩恵としての救済を図る。同時に、認定申請を取り下げる方向へと人びとを誘導していく。こうして人々は見事に、本当の患者と、患者ならぬ被害者に分断され、そのうえさらに、もしかしたらニセ患者、もしかしたらニセ被害者という相互不信が覆いかぶさってくるわけです。
 永野さんから聞きました。50年前に魚の行商さんから日々魚を買って食べていたというなら、そのときの領収書を持って来いと担当の熊本県職員が言うんだそうです。認定申請のための疫学調査の日程変更をお願いしたら、親切にも県職員のほうから、それならば認定申請の取り下げ書を送りましょう、そうすればこんな面倒なことをしなくてすみますから、と切り出してくるんだそうです。そして、その事実を永野さんがSNSや相思社の機関紙で発信すると、業務時間内・・・・・に県職員が「永野が行政批判をやめないと大変なことになる」という警告めいた助言を、本人にではなく、相思社の支援者に囁く。おのずとその意を汲んで支援者もまた相思社の他の職員にこの助言をそっと・・・伝える。とはいえ、結局、ひそかな助言は本人にも届くわけで、永野さんが当の職員に「助言」について尋ねれば、「だからどうにかしてほしい、ということではない」。要は、「忖度せよ」ということですね。こうして支援者も相思社も揺さぶられる。行政/加害者/権力側にからめとられそうになる。分断の線が走りそうになる。
 長い年月にわたる沈黙の末に意を決して、やっとのことで相思社までの長い坂をのぼってきた人びとにとっては、いまようやく水俣病がはじまったばかりだというのに、「水俣病を終わらせようとする力は以前よりずっと強く、その終わりを行政に決められてしまおうとしている現状の恐ろしさ」を永野さんは語ります。
 この、上からの、隠微ですさまじい組織的構造的暴力。
 こんなことが、きっと沖縄でも、福島でも、復興途上の東北でも、かつての植民地でも繰り広げられてきたのでしょう。そして、人々は口を塞がれ、分断され、動きを封じられてきたのでしょう。

 だけど、われらは海賊だ! 
 と、ここで私は言うわけです。そして永野さんに語りかけるのです。
 あなたはすでに小学校4年生にして学校という制度を飛び出した子じゃないか。
 水俣病がいやで、水俣出身であることを隠す人や水俣から逃げた人は数あれど、あなたのように乳飲み子とたった二人でヒッチハイクの旅に出て、ついには東南アジアまで行ってしまうような大胆な逃亡を企てた人が他にいただろうか?
 あなたは、そうして旅先で出会った人たちに助けられて生きのびて、迷惑をかけあい支えあって生きる「もうひとつのこの世」が確かにあることを知って、水俣のなかの「もうひとつのこの世/じゃなかしゃば」へと舞い戻ってきた人。
 なによりあなたは大きな耳の持ち主。
 あなたはひたすら問うて、ひたすら聞いて、ひたすら書いて、伝えて、大きな耳の力でつながっていく。 

 2007年についに水俣に舞い戻ってきた頃にはまだ水俣病のこともよく知らず、胎児性水俣病患者の母であり自身も水俣病であった坂本フジエさんに、「どうして見舞金契約を受け容れたのですか」と素朴に尋ねたのだそうです。1959年に「水俣病患者家庭互助会」とチッソの間で結ばれた、あのとんでもない契約のことです。あのときチッソは自社が原因企業であることを隠蔽したまま、温情として、しかも将来チッソが原因だとわかってもこれが最終解決だとして、死者には30万円と葬祭料2万円、成人の患者には年に10万円、未成年患者には年3万円の見舞金・・・を支払う契約を提示した。こんな「契約」にどうして判を押したのか? その問いにフジエさんはこう答えました。「だって字が読めんだったもん」。

 ああ、自分はこんなことも知らなかったんだ、と永野さんはショックを受けた。そして、知らないことはこれからはどんどん聞いていくことにした。加害の側の声も被害の側の声も聞くことにした。そんな決意と覚悟を宿した「耳」が、それまで何も語らなかった人々の声を引き出してきた。この世の小さき声は、大きな耳を待っているんですね。
 思うに、巨大な暴力装置に風穴を開ける「無法の想像力」「無法の民主主義」は、愚直にひたすらに他者の声に耳を開いて聞いていくことからしか生まれてこないのでしょう。「無法の民主主義」とは、きっと「耳たちの民主主義」なのでしょう。
 それは、相思社という小さな「場」で、永野三智というひとりの「耳」に出会い、そしてまた関西で、その「耳」が済州や在日や釜ヶ崎やさまざまな辺境の「耳」たちと声を交わす小さな「場」に引き寄せられて、語らって、つながっていくさまを見るうちに、私の中であらためて確かめられていった思いなのです。

 そういえば、この手紙の最初のほうで、奈良で永野三智さんと私の手作りのマッコリを飲んだと書きましたね。それもそもそもは、永野さんの耳が聞き取ってきたかつての水俣の風景の中に、マッコリを作って売っていた朝鮮人がいたからなんです。ならば、そのマッコリを私が永野さんのために作ってあげようと。横浜で密造マッコリを作って売っていたうちのハンメ(おばあちゃん)を想い起こしつつ作りましたよ。
 水俣の海辺の漁民と朝鮮人は、魚とマッコリを交換していたのだそうです。あの朝鮮の人たちも毒入りの魚を食べたんだねぇ、とその話を永野さんにしたおばさんは言ったのだそうです。その瞬間から、それまでまったく目に見えていなかった水俣の朝鮮人の声を、永野さんの「耳」はもう探しはじめていたのでした。ああ、そういえば、海の水俣と山の水俣を結ぶ鉄路、山野線を敷いたのは朝鮮人の工夫たちですよ。水俣の八幡神社の土手のところには朝鮮部落もありましたね。マッコリを飲みつつ、永野さんと私はそんな会話をしていました。

 「耳」はじっと待つもの。命の声はじっと時を待って聞くものなのだ。そんなことも話し合ったかもしれません。
 酵母を起こして、米を炊いて、水と麹と混ぜ合わせて、じっと待っていると、やがてブツブツブツと音を立てて米が酒へと生まれ変わってゆくんですよ、命の音がブツブツブツとね。そんな話もしたかもしれません。
 いま、ふっと思ったのですが、気づきにいたる「時間」のあまりの長さが「分断」を呼ぶのではなく、そのまえに、そもそも命というのは、生まれるのも、育まれるのも、出会うのも、その声を聞くのも、じっと待つことなのだということを、私たちがすっかり忘れてしまっている(忘れさせられている)から、容易に分断されるのかもしれません。
 われらは、時間をかけて、時を待って、命の声のほうへと漂浪いてゆく「耳非人/みみかんじん」なのだ、と、これはいまこの手紙を書いている私ひとりの呟きです。
 そして、最後に、この言葉。
 「私たちの希望を溜めておくことのできる小さな場所をいくつか持つのでないかぎり、近代と対抗することはできない」(ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』より)
 また、書きすぎちゃったね。


自家製マッコリ 登美乃河(←家の近くを流れる富雄川の古名にちなんで)

                              

2020年7月30日
姜信子

※参考

永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる――水俣病患者相談のいま』(ころから)
http://korocolor.com/book/minasaka.html

朴沙羅『家の歴史を書く』(筑摩書房)
https://www.chikumashobo.co.jp/special/chibenorekishi/

COCOROOM(ココルーム)
https://cocoroom.org/cocoroom/jp/


西成・釜ヶ崎「ココルーム入口」

劇団態変
http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/jtop.htm

金満里『生きることのはじまり』(筑摩書房)*在庫切れ
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480042033/

詩人村松武司の著作『遥かなる故郷』
昨年この増補版が皓星より新たに刊行されています。
http://www.libro-koseisha.co.jp/leprosy/harukanarukokyo-40th/

5月の水俣行きのあとに、来年3月のためにすぐに作った祭文版「花非人」
(原作:石牟礼道子 翻案:旅するカタリ 語り&三味線 渡部八太夫)
https://youtu.be/7qu02vE8KSg

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著者略歴

  1. 姜信子(きょう・のぶこ)

    1961年、横浜市生まれ。著書に『棄郷ノート』(作品社)、『ノレ・ノスタルギーヤ』『ナミイ 八重山のおばあの歌物語』『イリオモテ』(岩波書店)、『はじまれ』(サウダージブックス)、『生きとし生ける空白の物語』(港の人)、『声 千年先に届くほどに』『現代説経集』(ぷねうま舎)、『平成山椒大夫 あんじゅあんじゅさまよい安寿』(せりか書房)など多数。訳書に、ピョン・へヨン『モンスーン』、李清俊『あなたたちの天国』、カニー・カン『遥かなる静けき朝の国』、編著に『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房)など。17年『声 千年先に届くほどに』で鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。路傍の声に耳傾けて読む書く歌う旅をする日々。

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