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新井潤美「ノブレス・オブリージュ——イギリスの上流階級」

第6回 アメリカン・マネー(上)

 アメリカの作家イーディス・ウォートン(1862 – 1937)の小説に『海賊たち』(The Buccaneers)という作品がある。著者が1937年に亡くなったため、未完のまま翌年に出版され、後にウォートンの研究者マリオン・メインウェアリングが加筆して1993年に「完成版」になった。タイトルを見ると冒険小説かと思われるかもしれないがそうではない。小説の舞台は1870年、主人公はアメリカの金持ちの娘ナン・セントジョージで、ナンとその姉妹や友人たちがロンドンの社交界でイギリスの貴族と知り合い、結婚する様を描いている。
 この時代、アメリカの社交界の中心はニューヨークであり、いわゆる「オールド・マネー」が仕切っていた。ニューヨークの社交界から締め出された「ニュー・マネー」は、新参者にはるかに寛容なヨーロッパやロンドンの社交界へと渡っていく。そこで貴族の息子を見つけて結婚し、ニューヨークの社交界を見返すことに成功した若い娘たちが、「海賊」として知られるようになっていたのである。
 『海賊たち』には次のような描写がある。

この「有料舞踏会」はセントジョージ夫人にとって特に苦々しいものだった。入場券を買うことができるはずの催しから、どうして自分の娘たちが閉め出されるのか理解できなかった。舞踏会のことは、出入りの髪結い、名高いケイティ・ウッドからすべて聞かされていたのだ。ケイティは社交界のおもだった人のすべての髪を手がけており、悩めるセントジョージ夫人の胸に、悪気はなくとも次々と剣を突き刺すような言葉を発したのである。「奥様とジニーさんが来週の水曜日に、最初の舞踏会のために髪を結ってほしいなら、今すぐおっしゃってください。すでに午後3時以降は予約でいっぱいですので」とか、「オペラの初日の招待を受けていらっしゃるなら、左の肩の上でカールしてまとめる、今流行のシニヨンを試してみましょうか」とか、もっとひどいのは「ジニーさんは『木曜の夜のダンス』のメンバーでらっしゃいますよね? 今年の冬はデビュタントはリンゴの花輪か、バラのつぼみを身につけることが多いそうですよ。それともジニーさんの目の色にぴったりのわすれな草にしましょうか」
 たしかにぴったりだろう。しかしヴァージニア[愛称ジニー]は招待されていなかった。
(第一巻第六章)

 「有料舞踏会」(subscription ball)とは個人の家ではなく、デルモニコスなどの有名レストランで開かれるものだった。社交界のリーダーが主催し、選ばれた人々に対して「寄付」をしないかと招待をする。招待された人には寄付と引き換えに何枚かの招待状が送られるという仕組みである。公共の場で開かれていても、入場料さえ払えば誰でも参加できるという性質のものではなかったのである。
 十九世紀のニューヨークの社交界を牛耳っていたのは、オランダからの入植者の子孫だった。彼らは先祖の服装からとったニックネーム「ニッカーボッカーズ」として知られ、銀行家、法律家、商人など、勤勉で実直で保守的なミドル・クラスの市民たちだった。彼らはその勤勉さと抜け目なさで多大な富を築き上げても、けっして派手な浪費はしなかった。「ブラウンストーン」と呼ばれる赤褐色砂岩を使った家に住み、互いをディナーに招いても豪華なご馳走を振る舞うこともなく、自宅に舞踏室を設けることなど考えもしなかった。イーディス・ウォートンはこれらの「オールド・マネー」の一員だったのである。
 この小さくて排他的な社交界に乱入してきたのが、南北戦争後に投機、鉱山、鉄道や船舶、そして金融や不動産で巨額の財産を築いた「ニュー・マネー」の人々だった。そしてこれらの「ニュー・マネー」は派手な浪費を恥と思うどころか、それが生きがいであるかのような生活をした。まさに「金ぴか時代」(the Gilded Age)の到来である。しかし、彼らはどんなに金持ちでも、財力だけではニューヨークのトップの社交界に入れないことを悟らされる。
 当時のニューヨークの社交界のリーダーはかの有名なキャロライン・アスター夫人だった(『おだまり、ローズ』でおなじみ、ナンシー・アスターの夫の父は甥にあたる。彼はおばと仲が悪く、アメリカは「紳士の住むところではない」と言ってイギリスに移住した)。もちろん、「ニッカーボッカーズ」の一員である。イギリスの作家アン・デカーシーはその著書『ハズバンド・ハンターズ――ロンドンとニューヨークの社交界における上昇志向』(2017年)で、アスター夫人について「彼女の夫の巨大な財産は五十年以上も前に築かれたので、アスター夫妻は当然「オールド・マネー」に分類されたのだった」と皮肉をきかせて書いている(16ページ)。イギリスのような貴族が存在せず、「オールド・マネー」と「ニュー・マネー」の差がせいぜい五十年しかなく、すべての人間がしょせん「ミドル・クラス」であるこの世界では、とにかく内輪の排他的な「エリート」の世界を築き上げて、新しい「成金」を排除する必要があったのである。アスター夫人は第一代目のオランダからの入植者の子孫だったが、フランス系の学校で教育を受け、フランスを何度か訪問していた。フランスのファッションや料理、家具、絵画、そして建築を好み、夫の財力はそのような派手な趣味を満足させるようなものだった。アスター夫人に存在を認められないとニューヨークの社交界に入ることはできず、ロックフェラー、カーネギー、グールドといった財閥たちも彼女のサークルに入ることはできなかったと、デカーシーは書いている。アスター夫人が無視するのならば、嫌でも目に入るようにと、アスター家の向かいに邸宅を建てた人々までいたが、その試みは失敗に終わった。というのも、フィフス・アヴェニューに群がる物見高い庶民に姿を見せるのが嫌で、アスター夫人は自宅の窓に近づかなかったからだという(『ハズバンド・ハンターズ』18ページ)


キャロライン・アスターの肖像画、カロリュス=デュラン画、1890年。

 アスター夫人のこの地位は、実は自然に築き上げられたものではなかった。彼女を頂点とするニューヨークの社交界は、ウォード・マカリスターという、アメリカの南部出身者がプロデュースしたものなのである。マカリスターは1852年に財産家の娘と結婚して、ロードアイランド州のニューポートで暮らしていたが、そこの社交界で成功したため、今度はニューヨークを制覇しようと移ってきた。デカーシーはマカリスターについて、「ニュー・マネーの重要性を認識したところに彼の聡明さが見られる」と書いている(20ページ)。彼はすでにその地位が確立していたアスター夫人をトップに据え、「オールド・マネー」と「ニュー・マネー」の中から選び抜いた人々を中心に置いて「社交界」を再構築することにした。小さな「選考委員会」が設立され、委員はマカリスターの家に集まって1、2か月かけて候補者を吟味し、ふるいにかけた末、「オールド・マネー」と「ニュー・マネー」の両方から合計で25人の男性が選ばれた。彼らは「家長」(Patriarchs)として知られるようになったが、その役割はシーズンごとに舞踏会を2つか3つ開催することだった。彼らは125ドルの「寄付金」を支払い、引き換えに4人の女性と5人の男性を舞踏会に招待する権利を得る。つまり、冒頭の引用の中の「有料舞踏会」のもととなった制度である。
 さらにマカリスターは、若い世代が互いを知り合う機会を作るために「ファミリー・サークル・ダンシング・クラス」として知られる、若い人々のためのダンス教室と舞踏会を企画した。社交界にデビューした令嬢たちは全員が白い衣装や、その時に決められた服装で出席する。『海賊たち』の引用の中の「木曜の夜のダンス」とはこのことである。娘のために招待状をなんとかして得ようと必死の母親たちがマカリスターにじかに頼みに来ることが多かったらしいが、もちろん成功の確率は高くなかった。
 この「エリート」の社交界に入れなかった者は、シーズン中は対面を保つためになんらかの言い訳を作ってニューヨークを離れるしかなかった。『海賊たち』でも、なんの催しにも招待されていないセントジョージ夫人は、出入りの髪結いに苦しい言い訳をする。

有料舞踏会の寄付者のリストに名前を載せてもらえなかったし、オペラの初日にボックス席を得ることができなかったセントジョージ夫人には何ができただろう。無頓着を装って、「あら、その頃こちらにいるかどうかはわからないのよ。主人がもし休みがとれたら、家族でフロリダに連れて行ってもらうことも少し考えているのでね」と言うしかなかった。そしてそう言いながらも、自分の言葉を髪結いがどれくらい信じているかもわかっていたのである。
(第一巻第六章)

 そして最終的にはセントジョージ夫人はフロリダよりももっと遠い、イギリスに娘たちを連れて行き、そこで立派な結婚相手を見つけることに成功する。実際の「海賊」たちのほとんどがそういった、ニューヨークの社交界から無視された人々だったのである。
 ちなみに、上の引用の「オペラ」とは、アカデミー・オヴ・ミュージック劇場で上演されるものだった。この劇場は1854年にオープンし、ニューヨークの「オールド・マネー」のエリートたちの社交の場となっていた。赤いビロードのクッションが備え付けられた豪華な18個のボックス席はすべて「ニッカーボッカー」が所有していて、彼らが認めた者にしか譲られなかったのである。大のオペラ好きだった「ニュー・マネー」のウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトが、1880年に一シーズンだけでもいいからボックス席を手にいれたいと、3万ドルのオファーをしたが、断られたという。セントジョージ夫人がボックス席を手に入れられないのも当然だった。
 しかし、このオールド・マネーのスノビッシュな排他性から、思わぬ成果が生まれた。業を煮やしたヴァンダービルトが、同じ目にあった「ニュー・マネー」の友人たちに声をかけて新しいオペラハウスの建設に着手したのである。ヴァンダービルト家、アスター家の「中心」からはずれた人々、そしてJ・P・モーガン(モルガン)などが、それぞれ1万ドル以上の資金を出し、1883年に、アカデミー・オヴ・ミュージックよりも大きく、立派で、優れたオペラハウスを建てた。それがメトロポリタン歌劇場である。メトロポリタン歌劇場はすぐにニューヨークのオペラの中心地となり、アカデミー・オヴ・ミュージックは1886年にはオペラの上演をやめて、ヴォードヴィル(踊り、歌、手品、漫才などを盛り込んだ大衆娯楽)に転向し、1926年には取り壊され、現在は高層ビルが建っている。
 そして、「ニュー・マネー」を閉め出そうとしたスノッブな排他性のもうひとつの結果が、「海賊」たちである。なかでも最も有名なのは、後にウィンストン・チャーチルの母親となるジェニー・ジェロームだろう。彼女の父親、レナード・ジェロームは「ニュー・マネー」であり、マディソン・スクェアに派手な金ぴかの屋敷を建てただけでなく、舞台女優と親しくなって自宅に出入りさせていた。当然、妻のクララのところにはアスター夫人からの招待状が届くわけもなく、招待状がなければ三人の娘、クララ、ジェニー、リオニーに良い結婚相手を見つける見込みは皆無と言ってよかった。とうとうジェローム夫人は夫に体調不良を訴え、パリで「療養」する必要があると説得して、1867年に3人の娘たちをひきつれてフランスに渡る。第二帝政下のパリで、彼らはナポレオン三世と皇后ウジェニーを中心とする華やかな社交界に難なく入ることができた。ジェローム姉妹は揃って美しく、教養もあり、父の財産のおかげで最高のファッションに身をつつんで、自分たちの魅力を最大にアピールすることができたのである。このことは、1870年の第二帝政の打倒と共にロンドンに渡ったジェローム姉妹にとって、特に有利なことだった。当時のロンドンのアッパー・クラスでは、アメリカの金持ちの娘ほど洋服に手間とお金をかける人々はいなかったのである。
 バリでの生活で洗練を身につけ、装いのためには金に糸目をつけず、アメリカ人の若い女性に特有の自信と社交性を持った彼女たちが、イギリスの社交界で目立つ存在だったのも無理はない。ジェニーは舞踏会で第七代モルバラ公爵の三男、ロード・ランドルフ・チャーチルに見初められ、出会った三日後にプロポーズされた。この結婚は両家の反対を受けた。モルバラ公爵夫妻が、息子が素性のわからぬアメリカ人の娘と結婚することに反対したのはもちろん、娘たちの社交界での成功に気を良くしたジェローム夫人も、爵位を継ぐ見込みのない三男との結婚を喜ばなかったのである。それでも二人は両家を説得して、1874年に21歳のジェニーはレイディ・ランドルフ・チャーチルとなった。モルバラ公爵の邸宅、ブレナム宮殿に最初につれて来られたジェニーが、壮大な館と敷地に圧倒されるどころか、どこか偉そうな態度をとっていたことが公爵家の人間を苛立たせたと、デカーシーは書いている(55―56ページ)。ジェニーは夫の母や姉妹の洋服や靴の趣味を嘆かわしく思い、実家への手紙に遠慮のない感想を綴った。自分が彼らよりも美しく、知識も教養も持ち合わせていることを十分に自覚していたのである。


レイディ・ランドルフ・チャーチルのポートレート、1880年ごろ。

 じっさい、この時期にアメリカの富豪の娘たちが次から次とイギリスの貴族との結婚を達成したのは、持参金だけでなく、彼女たちの育てられ方からくる魅力が要因であったことも否定できない。デカーシーによると、1870年から1914年の間にイギリスの貴族と結婚したアメリカ人女性の数は100人以上にのぼる(1ページ)。イギリスのアッパー・クラスの娘たちと比べて、彼女たちは外見にお金をかけていただけでなく、ジェニー・ジェロームのように、社交的で自信にあふれ、ヨーロッパの社交界に入っても臆することはなかった。彼女たちの自信はどこから来たのであろうか。
 大きな要因としては、アメリカの富豪の娘はイギリスと違い、女性だから、あるいは長男ではないからといって、相続からはずされることがなかったのである。イギリスの人気ドラマ『ダウントン・アビー』で、グランサム伯爵夫人コーラがアメリカ人という設定であることはすでに述べたが、あるエピソードで、伯爵の母親がアメリカから訪問にきたコーラの母親に、「イギリスには女相続人という概念はないのです」と言う場面がある。このシリーズの制作者であるジュリアン・フェロウズは、このアメリカ人の伯爵夫人について、シカゴの不動産投機家の娘でスカースデイル子爵と結婚してレイディ・カーゾンとなった、メアリー・ライターからアイディアを得ている(ジェシカ・フェロウズ、『ダウントン・アビーの世界』56ページ)。メアリーの母親は品のなさで有名だったそうだが(『ダウントン・アビー』ではアメリカの女優シャーリー・マクレーンがその役を演じている)、娘の魅力は母親の悪い評判をも乗り越えるものだったという。前の章にも書いたとおり、イギリスのアッパー・クラスの女性は、父親の爵位、屋敷や土地と財産を相続できないだけではなく、相続人やその「スペア」の教育に金と時間をかける父親によって、教育さえもおろそかにされていたのである。女性の目的は「良い」結婚をするだけだが、結婚してしまうと自分の財産はすべて夫のものとなった。
 これに対してアメリカの女性は、この意味では男性と同等であった。これは、開拓時代に女性が夫と共同で生活を切り開いていったなごりだろうと、デカーシーは推測している(29ページ)。しかもアメリカ人の夫は、そのような妻を大事にして、仕事以外のことに関しては妻の決断に任せていた。ニューヨークの社交界を牛耳っていたのがアスター夫人を中心とする「奥様方」であることもその現れである。夫はひたすら仕事に打ち込み、金を儲け、必要な時に小切手を書く。いかにも「ミドル・クラス」的な図式だったのである。ジェニー・ジェロームの父親もしたがって、妻と三人の娘が、自分を置いてヨーロッパに行ってしまうことに何の抗議もせず、乞われるままに小切手を送っていた。美しく洗練された娘たちは、このような父親に溺愛された。アメリカ人の父親は娘のことを「プリンセス」と呼ぶことが多いが、まさに彼女たちは小さな王女のように育てられていたのである。
 さらに、乳母の手を離れたとたんに息子を寄宿学校に入れる習慣のイギリスのアッパー・クラスでは、兄妹であっても学校の休暇の時くらいしか異性と接する機会がない。一方でアメリカの子供は早い時期から異性と接し、社交ダンスのクラスなどで男女の役割を幼い頃からたたきこまれる。その結果、はしたなくならない程の適度な媚びをもって男性と接するという「技」を得るのである。ウォートンの『海賊たち』では、「媚びを売ること(flirt)は私たちの血の中にある性質なのね」と登場人物のひとりが笑いながら言う場面があるが(第十七章)、アメリカ人の女性が生まれつきコケティッシュであるというイメージもたしかに存在していたようだ。自分の財産を持ち、装いにたっぷりとお金をかけ、子供の頃から大事にされて、自分に自信があり、男性との社交にも慣れている――アメリカのプリンセスたちはそうした「武器」を備えて、イギリスの社交界へ乗り込んでいったのである。

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著者略歴

  1. 新井潤美(あらい・めぐみ)

    東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士号取得(学術博士)。東京大学大学院人文社会系研究科教授。主要著訳書:『執事とメイドの裏表―イギリス文化における使用人のイメージ』(白水社)、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドルクラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』(岩波新書)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳・岩波文庫)

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