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新井潤美「ノブレス・オブリージュ——イギリスの上流階級」

第5回 カントリー・ハウスと相続(下)

ノブレス・オブリージュ――貴族の義務と責任
 映画『優しい心と冠』は前に述べたように、第十代チャルフォント公爵が絞首刑になる前夜、独房で手記を読み返すシーンから始まる。そんな彼の様子を看守が外から見て、公爵の落ち着き払った様子を「さすが、ノブレス・オブライジュ」だと感心する。「中には手間をかける奴らがいるからな。ヒステリックになるやつなんかは、本当に迷惑だ。」ここで看守が「ノブレス・オブライジュ」と発音するのはもちろんnoblesse obligeのことである。これはもともとはフランス語の表現で、noblesse「高貴さ」+oblige「(義務を)強制する」、つまり「高い社会的地位は義務を伴う」ことを意味する。この表現はすでに英語の一部になっていて、「ノブレス・オブリージュ」と、フランス語読みをするが、刑務所の看守はその言葉をなんとなく知っていても、obligeの部分は英語の発音にしてしまう。
 発音はともかく、この表現自体は実は広くイギリスで知られていた。たとえば1937年にロンドンのウェスト・エンドで大ヒットしたミュージカル『ミー・アンド・マイ・ガール』には「ノブレス・オブリージュ」というナンバーがある。ヘアフォード伯爵という貴族の家に男性の跡継ぎがいないので、爵位を消滅させないように、屋敷の事務弁護士が必死になって探した結果、ひとりの男性が見つかる。しかしそれは、ロンドンのイースト・エンドで屋台で物を売る気楽なワーキング・クラスのビルだった。ビルは伯爵家に連れて来られて、跡継ぎになるための訓練を受けるが、それに嫌気がさしたうえ、ロンドンに残してきたガールフレンドのもとに帰りたくてしかたがない。そのビルに対して、おばに当たるディーン公爵夫人が、あなたには貴族としての義務があるのだと朗々と歌うのが、「ノブレス・オブリージュ」である。館に飾られた代々の伯爵の肖像が次々と「生き返って」ビルを諫めるという視覚効果もあって、人気のナンバーだ(ちなみに先祖代々の肖像画が生き返って警告を発するというシーンは、ミュージカル『紳士のための愛と殺人の手引き』でも見られる)。このように、貴族や大地主には権利だけでなく義務もあって、決して楽しいことばかりではないという概念が、文学や文化の媒体をとおして広がっていったのも、イギリスのアッパー・クラスを守ってきた大きな要素のひとつだろう。
 アッパー・クラスの「ノブレス・オブリージュ」として、所有している屋敷と土地の管理、そこに暮らすものや近隣の住民の生活を守ること、そして屋敷や土地をそっくりそのまま次の代に受け渡すということがある。この意味では彼らは自らを、「所有者」ではなく「管理者」と呼ぶレトリックを使うことが多い。また、住民が近道などをするために自分の土地に侵入することを許可する「通行権」や、土地と屋敷を一年に何度か公開するというのも「ノブレス・オブリージュ」であり、急に富を得て土地を獲得した「成金地主」たちがこの義務を果たさずに村人の不興をかうというテーマが、十九世紀後半以降の小説によく見られる。
 ここでまたジェイン・オースティンの『自負と偏見』に目を向けてみたい。主人公のエリザベス・ベネットが、爵位こそないが大地主でかなりの財産を持つミスター・ダーシーの人柄を誤解し、彼からのプロポーズをかなりの剣幕で断ったのちに、相手から事態を解明する手紙を受け取り、誤解が解けたあとで、彼の屋敷を「観光」するはめになる場面である。事情を知らないおじとおばは、美しい屋敷と庭園で有名な邸宅ペンバリーを見物に行こうと提案する。エリザベスは最初は躊躇するものの、ダーシーが今は不在だと聞いて、好奇心にかられて同意する。自分がこっぴどく振った相手の屋敷をわざわざ見に行くというエリザベスの行為を不審に思う読者もいるらしく、最近の版では注釈が加えられていることもあるが、当時は屋敷や土地を、直接知らない人間に見せることはよく行なわれていた。もちろん、相手が怪しい人間ではなく、同じ階級に属する紳士淑女の場合に限られていたが、たいていの場合は屋敷のハウスキーパーが判断して、訪問客を招き入れ、ガイドの役を果たしていた。もちろん、知り合い、あるいは知り合いからの紹介状がなければいれないという持ち主もいたし、何曜日の何時から何時までと、時間が区切られている場合もあった。
 エリザベスはこうしてペンバリーの屋敷を訪問し、その内装や家具の趣味の良さに感銘を受ける。そして、ハウスキーパーの言葉に心を打たれる。

「あの方はこの世で最高の地主であり、最高のご主人です」とハウスキーパーは言った。[中略]あの方の借地人や使用人であの方を悪く言う者は一人もおりません。」
(第3巻第1章)

 ペンバリーを訪問してダーシーの富を再認識したからエリザベスが心変わりする、というシニカルな解釈もされている箇所だが、ここではやはり、エリザベスは屋敷の内装と調度品に反映されているダーシーの趣味の良さ、そして地主としての彼の「ノブレス・オブリージュ」を再評価していると読むのが妥当だろう。

 他人の家を見に行くというエピソードは、オースティンの『マンスフィールド・パーク』(1814年)にも描かれている。ミスター・ラッシュワスという、知性も教養もない人物の屋敷サザトンに、彼の婚約者とその兄妹や親戚、友人の一行が訪れる。ラッシュワスの母親が彼らを迎え、屋敷を案内するが、調度品は「50年前の趣味」であり、飾られている絵の大部分は肖像画で、誰が誰なのかをラッシュワス夫人はハウスキーパーに教わって暗記したと、オースティンは書いている(第1巻第9章)。この記述でサザトンがラッシュワス家に代々伝わる家ではないことがわかり、しかも当人は、自分が今所有する庭園を改装したいのに自分で計画するだけの趣味も気概ももたない。プロの造園家にすべて任せるつもりだという彼に、友人がなにかアドバイスできるかもしれないということで実現したのが、この訪問なのである。この訪問中に物語の展開上重要な出来事がいくつか起こるのだが、その舞台となるサザトンは『自負と偏見』のペンバリーと同様、持ち主の人柄と資質をたっぷりと反映した、効果的な設定となっている。
 カントリー・ハウスはこのように人に見せるものであり、二十世紀になって、その膨大な維持費にあえぐ貴族や地主たちが、自分や家族が暮らしている屋敷の一部や庭園を公開して、その入場料を収入の一貫とするようになったのも、この「カントリー・ハウス訪問」の習慣の延長と言えるかもしれない。じっさい、大きな屋敷や土地を先代から譲り受けた跡継ぎたちは、それをいかに維持して次の代に受け渡すかというのが、たいへんな課題になっていた。

 邸宅の所有者に課せられた義務は、たんなる維持だけではない。屋敷は社交の場でもあり、時には外交や政治の重要な会談の場として提供するものでもあった。アガサ・クリスティの『チムニーズ館の秘密』(1925年)は、クリスティが好んで書いていた、国際的陰謀とスパイが絡んだ長編小説のひとつである。架空のカントリー・ハウス、チムニーズの当主第九代ケイタラム侯爵は、次男なので本来ならば跡継ぎではないのだが、兄が4年前に死んだために、爵位と屋敷を受け継ぐことになった。それは「彼の人生の中の大きな不幸」だった。

というのも先代のケイタラム卿は際だった人物であり、イングランド中に名が知れていた。外務大臣だったこともあり、大英帝国のさまざまな協議に大きく関わっており、彼のカントリー・ハウス、チムニーズは優れたもてなしで有名だった。パース公爵の娘である有能な妻に支えられ、チムニーズでのインフォーマルな週末の集まりでは歴史が作られ、壊された。イングランドの著名人、いやヨーロッパの著名人は誰もがチムニーズに滞在したことがあるほどだった。
(第3章)

 第九代ケイタラム侯爵は兄とは対照的な人物だった。社交が嫌いで、政治に興味がなく、政治家を毛嫌いしていた。それでも社交と会話の場としてチムニーズ館を提供しなければならない。それも「ノブレス・オブリージュ」なのである。ケイタラム卿はしぶしぶそのことを受け入れながらも、納得がいかない。

ケイタラム卿が抗議をしたかったのは、チムニーズが個人のカントリー・ハウスというよりは、国の所有物だという考えに対してだったのだ。
(第3章)

 そしてこれがカントリー・ハウスの持ち主のジレンマだった。先代のケイタラム卿のように、自分自身が国の政治や外交に関わり、屋敷をそのために使うことにまったく抵抗のない持ち主もいれば、貴族の家に生まれても、そういうことには向かない人間もいる。また、二十世紀になって、カントリー・ハウスが次々と売られたり取り壊されたりして、いよいよその存続が危うくなると、「国の財産」とみなす世論がある一方で、その財産を守るための援助がほとんど得られないという事態に直面するのである。
 カントリー・ハウスは広大な敷地の中に建っていて、部屋もたくさんあり、私的なホテルか合宿所のような感じで、秘密の会議や会合にはもってこいである。しかも、カントリー・ハウスでは「ハウス・パーティ」という習慣があるので、多くの人がそこに集まって数日間一緒に過ごしても不審に思われない。この「ハウス・パーティ」という言葉は「ホーム・パーティ」の同義語と捉えられがちだが、それとは違った特別な意味合いを持つ。『ハウス・パーティ――カントリー・ハウスの週末の余暇と娯楽の短い歴史』(2019年)の著者エイドリアン・ティニスウッドは、「カントリー・ハウス・パーティはイギリスの文化の中で特別な位置を占めている」と書いている。

ハウス・パーティの黄金期はヴィクトリア女王の時代に始まる。女王の長男[後のエドワード7世]と友人たちがイギリス中のカントリー・ハウスで飲酒、博打、密通に夢中になっていた時代だ。そして五十年後、飲酒、博打と密通よりも、ファシズムとの闘いが優先される時代になって幕を閉じた。
(「序章」)

 王室のメンバーや遊び好きのアッパー・クラス、時の有名人などを招いて土曜日の午後から月曜日の午前中まで滞在させ、社交をする。それが「ハウス・パーティ」だった。こうした「ハウス・パーティ」が、たんに社交と娯楽だけではなく、政治や外交をめぐる会談の格好の場であるのも不思議はないだろう。著名人や外交官、政治家が集まっていても「ハウス・パーティ」だからという言い訳がつき、さらに、世間の目をごまかすために、そういった会談とは関係のない社交界の人間を数人招待すれば、たんに華やかなハウス・パーティだということになる。「ハウス・パーティ」に誰が来ているかによって、その屋敷の評価が決まるほどである。著名人や社交界の花形のいない「ハウス・パーティ」は、ホストとホステスにとってあまり名誉なことではなかった。もちろん、なかにはクリスティの第九代ケイタラム侯爵のように派手な社交を嫌い、政治や外交も嫌い、大きな屋敷でこぢんまりと暮らすカントリー・ハウスの持ち主もいた。しかし彼らは「カントリー・ハウスの持ち主としての責任を果たしていない」とみなされがちだった。たとえば二十世紀の小説家イーヴリン・ウォーはカントリー・ハウスを舞台にした小説をいくつか書いているが、そのひとつ『一握の土』(1934年)では、ヘットン・アビーというカントリー・ハウスの持ち主、トニー・ラーストが週末に客を招くのを嫌う様子が描かれている。土曜日の朝、朝食を食べながらトニーは妻のブレンダに語りかける。

「今日は土曜日の朝で、誰も週末にやって来ないのがなんて嬉しいことかと考えていたところだよ」
「そう思うの?」
「君はそう思わないの?」
「そうね、こんなに大きな家を維持しているのに、たまに他の人を招待して泊まらせないのもなんか意味がないように思ったりするわ」
(「イングリッシュ・ゴシック」)

 トニーは代々ラースト家に伝わるヘットン・アビーを誇りに思っており、自分の亡き後は息子のジョンに屋敷を引き継いでもらいたいと思っているが、それでいてこのような屋敷を所有することに伴う「社交」の義務を果たしていない。週末のハウス・パーティがないことを喜んでいるうちに、以前にロンドンに行った時にたまたま、もののはずみで週末に招待してしまった、ミドル・クラスのジョン・ビーヴァーがやって来ることを知って狼狽する。今からでは他の人を招くには遅すぎるので、ビーヴァーが屋敷に着くとブレンダはまず謝罪の言葉を口にする。「ようこそいらしてくださいました。最初に申し上げなければいけないのですが、申し訳ないことに、パーティがないんです。ものすごく退屈なさるんじゃないかしら。」刺激的で楽しい社交の場を設定するのが、もてなし側の義務でもあるので、ホステスのブレンダはまず客に対して謝り、埋め合わせとして彼を退屈させないように努力するのだが、そうしているうちに、だんだんとビーヴァーにひかれはじめてしまうのである。ブレンダがビーヴァーに会うためにロンドンに遊びに行っている間に、狐狩りの事故で跡取りのジョンが死んでしまう。夫婦の仲は崩壊し、トニーは南米に探検に行って、帰ってこられなくなる。ヘットン・アビーはトニーの遠縁の手に渡り、彼らは狐農場をはじめて金儲けを狙うのである。トニー・ラーストの悲劇とヘットン・アビーの堕落という結末が、彼が館の社交を怠ったことに対する報いだとしたらあまりにも重い罰のように思えるかもしれない。しかし、アッパー・ミドル・クラスのイーヴリン・ウォーが、アッパー・クラスの「義務」を果たしていない地主の家の崩壊を、彼独特の毒とユーモアで描いた作品だとも言えるのである。
 カントリー・ハウスでは、歴史を左右するさまざまな会合が開かれていたのは前に書いたとおりだが、たとえばカズオ・イシグロの『日の名残り』(1989年)の主人公スティーヴンズが勤めるダーリントン・ホールは、まさにそのようなハウス・パーティが開かれる屋敷だった。前にも紹介した、アメリカ生まれのアスター子爵夫妻の屋敷クリーヴデンもそのような政治的なハウス・パーティで有名であり、そこに集う人々は「クリーヴデン・セット」と呼ばれ、マスコミの注目を浴びていた。『日の名残り』のように、ドイツに対する融和主義的な政策が語られた場だということも言われていたが、真偽は定かでない。
 ちなみに、イギリス首相の別邸のチェッカーズは十六世紀に建てられたカントリー・ハウスであり、デイヴィッド・ロイド・ジョージが首相だった1917年にイギリスの首相の別邸として使うということを条件に、正式に国のものとなった。それまではイギリスの首相はアッパー・クラスの出身で、カントリー・ハウスを持っていることが当たり前だったのが、今後はそうではないだろうということで、チェッカーズの持ち主だったサー・アーサー・リーが国に寄付したのである。最初にチェッカーズを別邸として使うという恩恵を被ったのはロイド・ジョージではなく、1929年に首相になったラムジー・マクドナルドだった。歴史研究家のデイヴィッド・キャナダインはマクドナルドについて、「貧しい私生児であり、アウトサイダーらしい熱意でもって上流階級の世界に入っていた(それは彼の政治生命にはひじょうに不利なことだったのだが)」と書いている(『イギリス貴族の衰亡』、228ページ)。チェッカーズというカントリー・ハウスを与えられたことはマクドナルドにとって、さぞかしありがたかっただろう。


イギリス首相別邸 「チェッカーズ」

 相続した屋敷と土地を維持し、社交を怠らず、毎週末にハウス・パーティを招く――このような「ノブレス・オブリージュ」には相当の財力と、それをなしとげるだけの気力、体力と資質が伴わなければならない。しかし十九世紀後半、土地からの収益は減る一方でありながら、屋敷や土地、そして社交に莫大な費用をかけ続けざるを得ない貴族や大地主たちにとって、大きな問題は財力だった。彼らの多くにとって、金持ちの娘と結婚して財産を得ることが生き残る唯一の手段だったのである。しかも結婚相手にはそのような屋敷の女主人として義務を果たし、華やかなハウス・パーティのホステスを務める能力が必要だった。そこで登場するのがアメリカの富豪の娘たちである。次の章ではこういった娘たちがいかにイギリスのアッパー・クラスに入ってきて、どんな影響を及ぼしていったかを見てみたい。

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著者略歴

  1. 新井潤美(あらい・めぐみ)

    東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士号取得(学術博士)。東京大学大学院人文社会系研究科教授。主要著訳書:『執事とメイドの裏表―イギリス文化における使用人のイメージ』(白水社)、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドルクラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』(岩波新書)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳・岩波文庫)

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