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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第十五回 小樽・亜港・尼港、朔北三港をつなぐもの

 小樽に手宮という地域がある。鉄道に詳しい向きは、知る方もいるかもしれない。
 観光客があつまる小樽運河から海外線を北へ1、2キロあがったところに手宮はある。ここは北海道の鉄道濫觴の地。1880年(明治13)年にここから鉄路が敷設されたのだ。空知地方の幌内から手宮へ石炭輸送がはじまったのは、その2年後のことだった。この官営幌内鉄道については、連載の第5回で集治監とのかかわりでふれた。
 黒田清隆が招聘した米国農務長官ホーレス・ケプロンは、開拓使に多くの技術者を呼んだが、その一人にジョセフ・ユーリー・クロフォードがいた。鉄道工事を指導した人物だ。日本初の新橋横浜間の開通が明治5年、大阪神戸間が明治7年、幌内鉄道がその6年後、釜石鉄道に続く日本で四番目の鉄道として誕生したのである。新橋横浜間の工事も用地取得などで難渋を極めたそうだが(竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年)、荒野を切り開いての鉄道敷設は、それに倍する困難をともなったことだろう。
 時代はくだって戦後、手宮駅は貨物駅として使われていたが、手宮線(小樽手宮間)が1985年(昭和60年)をもって廃止となり、駅も使われなくなったのである。現在、その跡地は小樽市総合博物館本館となり、幌内鉄道を走っていた米国製の蒸気機関車が展示され、レンガ造りの機関車庫、転車台など鉄道施設が見学できる。夏場は蒸気機関車にも乗れる。正面玄関にはクロフォードの銅像がたつ。

はるか尼港を望む

 その小樽市総合博物館の裏手に錦町という交差点がある。そこから急な坂道をのぼって行くと「尼港殉難者追悼碑」がある。
 日本がシベリアへの出兵を開始したその2年後(1920年=大正9年)、アムール川の河口の街・ニコラエフスク(日本名:尼港)で、日本人がパルチザンによって虐殺されるという事件が起こった。尼港には当時、第十四師団第二聯隊(水戸)が駐屯しており、軍民あわせて日本人700人が殺された。ロシア人も4000人あまりが犠牲になっている。
 1917年、ロシアで十月革命が起こると、英仏は日米に共同出兵を要請、日本は当初、米国の態度を見つつ態度を留保していたが、翌年米国が限定出兵を提案すると、1918年8月、日本はシベリアの地に兵を送り出すのである。司馬遼太郎がこのシベリア出兵をして「瀆武」と呼んだことは、前号で紹介した。「干渉戦争」という名称も地続きのとらえ方である。第十四師団が尼港にいた理由は、このシベリア出兵によるものであった。
 救援のために派遣されたのが第七師団歩兵二十五聯隊だった。尼港の派遣部隊が孤立したことを知った陸軍中央は、旭川の第七師団に部隊の派遣を要請、しかし、冬場で航路は氷で閉ざされ、派遣隊がついた時は、パルチザンは逃げ去った後だった。二十五聯隊が目にしたものは、焦土と化した街並みと捨てさられた遺体であった。
 事件の詳細が日本に伝わるや、政党、新聞、世論は沸騰、政府や軍への批判が高まることとなる。この尼港事件については改めて述べるが、まずはなぜこの碑が手宮の高台にあるのか、そのことを説明しておきたい。

 明治初年、「諸国の敗残者の吹きだまり」(「小樽の町は……」『北海道百年』上、北海道新聞社、1972年)だったこの街が急速な発展をみたのは、鉄道建設によるところが大きかった。開通と同年、函館小樽間に定期航路が開設される。日露戦後には、北洋漁業の拠点として発展、小樽はシベリア、樺太(サハリン)への玄関口となるのである。
 尼港への渡航者の多くはここから旅立っていったのだ。小樽の旅館業者や沖仲仕の中には尼港の被害者を知る人も少なくなかった。そのような縁で、事件から四年が経った1924年(大正13年)、小樽の有志が尼港事件の被害者の遺灰払い下げ運動をおこす。当時、遺灰は樺太のアレクサンドロフスクの軍事施設で保管されていた。アレクサンドロフスクの日本名は「亜港」である。
 日露戦争による講和条約・ポーツマス条約で日本は、北緯50度から南の南樺太を獲得した。尼港事件によって、さらに北樺太を保障占領することとなったのだ。亜港は、北樺太の中心地で、事件後、サガレン州派遣軍が駐屯することとなる。サガレンとは樺太の意である。尼港事件によって日本は、樺太千島交換条約で放棄した樺太全島を占領することとなった。
 小樽の人々は、亜港の軍施設から引き取った遺灰を、市内の寺におさめることとなる。時代はさらにくだって1937年(昭和12年)、小樽の素封家・藤山要吉が私財を投じて、この殉難碑を完成させたのである(石塚経二『アムールのささやき』千軒社(函館)1972年)。
 殉難者追悼碑の横には、町田経宇(陸軍大将)の篆額が掲げられている。 町田は二代目のサガレン州派遣軍司令官だ。その派遣軍にも、歩兵二十五聯隊は参加していたのである。冒頭のみ引用する。読みにくいので、一部ルビをふった。

 大命を奉じて異域に防護の重任に膺(あた)る将士一身を挺して朔北に産業の開拓に従ふ/勇者一朝交通杜塞するや暴戻なる凶徒の襲ふ所となり夐(はるか)に故国の天を仰ぎ空しく恨を呑んで死に就く豈に傷心断腸の極ならずや/大正九年三月十二日我が尼港守備隊及び居留民等六百有余名残忍厭くなき過激派の毒刃に殪れ尋で五月二十四日奸譎(かんけつ)なる魔手に罹り鉄窓の下に屈辱を忍ぼし同胞一百数十名亦鏖殺(おうさつ)の惨に遭ひ天日曛(くら)くして雲囂々(ごうごう)月色淡くして風淅々(せきせき)たり/変を聞き急派せられたる救援軍は万難を排して尼港に突進し直に遺骸を検索拾収す狼藉の迹言語に絶し残虐の状正視するに堪へす乃ち懇に之を荼毘に附し忠魂塔に納めて弔慰す後派遣軍の撤退に伴ひ亜港に安置せしが大正十三年小樽市は軍に請ひ納骨塔を築き之を遷安奉奠(ほうてん)し年次期を定めて祭祀を厳修す蓋し本市は殉難将士及び同胞が足跡を印せる最後の邦土にして事変の惨禍に対し市民の哀愁悽愴充も深刻なればなり(石塚経二前掲書)

 使われている語は難解だが、同胞が惨殺された悲憤慷慨はひしひしと伝わってくる。
 遺灰が尼港から亜港を経て小樽にはこばれたこと、さらに、碑がここに建てられた由縁は、最後の一文「蓋し本市は殉難将士及び同胞が足跡を印せる最後の邦土にして」で明らかだろう。
 石塚前掲書によれば、この碑は「はるか尼港を望む位置に」つくられたという。碑は小樽港を望み、北西を向いている。その先にはるか尼港(ニコラエフスク)があるのだ。
 碑がたって長らくの間、尼港で民間人が惨殺された5月24日には、毎年、追悼式が開かれていた。私が訪れたのは2019年のお盆休みの最後の土曜日だったが、高台の少し下にある公園の運動場ではスポーツ大会がひらかれ、子供の歓声が聞こえてきた。公園の駐車場は車であふれ、追悼碑へつながる道も車で遮断されていた。「壮大にして森厳な碑」は、雑草が生い茂り、尼港を望む高台は、めったに人を寄せつけない空間となっていた。
 ではなぜ、ロシアのアムール川(黒竜江)の河口の街・ニコラエフスク(尼港)に多くの日本人がいたのか。そして、その遺灰は北樺太の港・亜港(アレクサンドロフスク)にあったのか。話の枕が長くなってしまったが、日露戦後の朔北三港の物語を記しておくこととする。

「露領ニコラエウスク市」の島田商会

 ポーツマス条約で日本が獲得したものは、1、韓国に対する日本の指導監督権、2、旅順大連の租借権と南満洲(長春以南)の鉄道の権利、3、南樺太の割譲、である。さらにもう一つ大きな権利を得ている。それは、沿海州やカムチャツカなどの漁業権だ。講和条約に基づき、日本とロシアは漁業協約を結び、ロシア領における日本の漁業権を保障することとなる。露領漁業である。
 オホーツク海、カムチャツカ水域、ベーリング海などからなる北洋は世界有数の漁場だ。近世以来、その漁場に日本からも多くの漁民が出漁していた。明治となり国境が確定し、北洋への漁業が密漁となっても漁はつづいていた。北洋はサケ、マスが豊富でカニもとれた。小林多喜二の「蟹工船」が書かれたのは、1929年(昭和4年)のことだが、まさに北洋漁業(カムチャツカ近海)のカニを、タコ(他雇)労働者によって密漁させる物語だ。タコ労働は、明治初年の囚人労働が禁じられた後に、非合法となった強制労働であることは以前触れた。
 その北洋漁業にいち早く進出したのが、堤商会だった。堤清六と平塚常次郎は、1906年(明治39年)に北洋のサケ・マス漁を目的として堤商会を設立し、カムチャツカ沿岸の漁業を開始するのである。堤商会が後年の日魯漁業である。
 日本の漁業者は海だけでなく、ユーラシア大陸の沿岸にも出かけていった。アムール川(黒竜江)の河口でも、豊富な漁獲が期待できたからである。その資源を求めてシベリアに渡った一人に島田元太郎がいた。島田はニコラエフスクに貿易会社・島田商会を起こし、尼港きっての経済人となった。金融業も営み自身の顔が印刷されたルーブル札(島田商会札)まで発行している。
 以下、島田の経歴を見ながら、尼港事件発生前のニコラエフスクの情況についてみてみよう。なお資料は主に以下をつかう(森川正七『北海の男――島田元太郎の生涯』私家版、1979年)。
 そもそもこの街にニコラエフスクという地名がついたのは、1850年(嘉永3年)にさかのぼる。ロシア軍が黒竜江の河口に達し、海洋から少し遡上したこの地にニコライ1世の名を借りて、ニコラエフスクと名づけたのを嚆矢とする。それ以前は、ギリヤークなどの先住民の地であった。帝政ロシアはその6年後の1856年(安政3年)に清朝と条約を結び、ウスリー江東岸の地をロシア領に編入、この地がロシア領となったのである。
 その後ニコラエフスクは、漁業、狩猟、また、奥地の砂金採集の基地として発展し、沿海州の中心地となった。それはシベリア鉄道が完成し、州庁がハバロフスクに、軍港がウラジオストクに誕生するまでつづくこととなる。
 島田元太郎は1870年(明治3年)長崎県南高来郡に生まれた。青雲の志をもってウラジオストクへ渡り、そこでロシア語を学んだ。黒田清隆は、欧州視察の折に、ウラジオストクからニコラエフスクへと向かうが、島田はその船に同乗することとなる。島田はニコラエフスクの中国人経営の店で働き、その店を引きついで、1906年(明治39年)に島田商会を設立するのである。
 『富源西伯利』(1919年6月発行)という本がある。
 シベリア出兵の翌年に発行されたシベリア(西伯利)開拓の指南書だ。巻末にシベリアとの取引を行う貿易会社が広告を出しているが、そこには島田商会のものも掲載されている。「露領ニコラエウスク市」とうたわれた島田商会の「営業科目」には、「商業、漁業、銀行業、廻漕業、倉庫業、鉄工業、保険代理業」とならんでいる。廻漕とは船を使った運送の意。今で言えば、総合商社といった多様な業務内容だ。『富源西伯利』の巻末に掲載された他の会社(三井、三菱、大倉商事など)の広告のほとんどが、ウラジオストクの住所を掲載しており、ニコラエフスクの所在地を掲げているのは、島田商会のみだ。つまり、島田商会はニコラエフスク最大の日系商会だったのだ。
 先の『富源西伯利』の発行日1919年6月9日には、日本はすでにシベリアへ出兵し、白軍が善戦していた時期である。同書の出版元は「日露倶楽部」で、日露倶楽部は、白系ロシアの通信社・日露通信社につながる組織だ。つまり、『富源西伯利』は、白系ロシア人と提携しながら、シベリアの「富源開拓」を推奨する書籍なのである。
 話が先走ってしまったが、島田商会は、ニコラエフスクで一、二をあらそう商会となり、そして、ロシア革命が起こり、信用不安が起こると、自らの紙幣を発行し現地の経済を支えることとなる。
 ニコラエフスクの「富源」の柱は、漁業権益だった。アムール川(黒竜江)では、夏から秋にかけて、マス、サケと遡上がつづき、それを網漁で捕獲し、塩蔵、燻製、缶詰にし出荷するのである。アムール河口の漁業はほぼ日本が独占していた。原暉之はそのような漁法による乱獲で、上流でサケ、マスがとれなくなり、それが尼港事件発生の一因となったと指摘している(原暉之『シベリア出兵――革命と干渉1917~1922』筑摩書房、1989年)。
 この問題を別の視点から見れば、日露戦後のシベリアへの進出、出兵という背後に、この権益、つまり当時の言葉を使えば、シベリアの「富源開拓」という問題があったということである。
 シベリアは、漁業以外にも、林業、農業、狩猟、毛皮の捕獲があり、またニコラエフスクからアムール川をさかのぼり、アムグン川の合流点から上流にかけて砂金がとれた。砂金採取は1904年の日露戦争期が最盛期であった。当時、砂金採取会社は300社にのぼった。島田商会はその砂金の鉱業権を得ることはなかったが、その地域への物資の販売などで巨利を得ることとなる。
 つまり、このアムール川の「富源開拓」がまさに、先の追悼文の「朔北に産業の開拓に従ふ」という意味なのである。
 シベリアは、資本主義形成期の日本において、まさに「富源開拓」の地であったのだ。それがまず、シベリア出兵の前提となる。ここからこの連載の主題である「北鎮」の問題を考えると、幕末から明治にかけて北海道がになっていた「北門の鎖鑰」という役割が日露戦争の勝利、帝政ロシアの崩壊でその重要性が減少し、それによって、山県有朋の主権線と利益線という主張も質的な変化をきたすこととなる。日露戦争後、遼東半島、さらにシベリアが巨大な利益機会として立ち現れてきたのである。そして、その利益(富源)を獲得し守るものとして、軍が使われるようになった。「使われる」という表現は正しくなく、軍も「富源」を得るために、みずからも積極的な役割を果たすようになっていく。つまり北の軍隊(北鎮)の変容である。

艶めかしい女性の写真

 もう一つ、尼港の日本社会を理解する上で、重要な史実を記しておきたい。1918年(大正7年)の統計でニコラエフスクの日本人居留民は499人だった。男241人、女258人となる。女性で大きな比率をなしているのが、娼妓で90人とされている。但し、漁業にたずさわる季節労働者がいたので、約500人の日本人には非定住者は入っていない。この娼妓の出身者のほとんどが、天草、島原の出身者だった。尼港の街には、日本人遊郭もあった。
 山崎朋子『サンダカン八番娼館』で、「からゆきさん」という言葉が広く知られるようになり、彼女たちの多くの出身地が天草だった。天草からあまたの女性が、朔北へも渡って行ったのである。天草人の尼港渡来の先鞭をつけたのは、1895年(明治28年)、天草の手野部落の池田清人・ユキ夫婦と鬼池部落の池田団造・モカ夫婦が、尼港で水商売をはじめたことをはじめとするという。両池田夫婦は、時折出身地にもどって、女性を募集した。いつのまにか、日本人遊郭がつくられていったのである。
 久世光彦に「尼港の桃」という短編がある。主人公が軍人であった父との思い出を回想する。父は陸軍歩兵大佐・久世彌三吉という設定で、実話に基づいた話と想像される。幼い頃、主人公は父の書斎で「尼港」と書かれたファイルを見つけ、それをのぞき見る。ファイルには、惨殺死体の写真がおさめられていて、その一つに艶かしい女性の姿がうつっていた。その場を父におさえられ、打擲を受けるのだが、その女性の記憶が、主人公をとらえてはなさない……。
 写真の女性は、尼港の娼妓だったのだろう。久世彌三吉は亜港にいた。つまり、サガレン州派遣軍に所属していたのだ。
 熊本県天草郡手野村にも尼港事件の殉難碑がある。手野村は、尼港渡航のさきがけとなった、池田清人・ユキ夫婦の出身地だ。そもそも殉難者の大半が九州出身者だった。貸席以外の仕事も、九州人によってになわれていた。島田元太郎も長崎出身であることは先に書いた。
 事件で多くの出身者を失った僻村の衝撃は大きく、事件後、「パルチザンが来る!」というと、泣く子も黙った、という逸話が残されているという。天草手野村の「尼港事変殉難者碑」は1937年(昭和12年)3月12日に除幕式が行われた。冒頭述べた手宮の追悼碑と同じ年だ。3月12日とは、駐留軍がパルチザンに降伏した日である。再度、小樽の碑文の一部を引く。「大正九年三月十二日我が尼港守備隊及び居留民等六百有余名残忍厭くなき過激派の毒刃に殪れ」たのである。


小樽手宮公園にある尼港殉難者追悼碑

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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