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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第十一回 我を屈従せしめんとす

 日露戦争は1904年(明治37年)2月4日の御前会議で開戦が決定し、6日に国交断絶が宣言され、8日の旅順港のロシア艦隊への奇襲攻撃で戦端がひらかれた。10日には開戦の詔勅が発せられている。曰く、

 朕茲ニ露国ニ対シテ戦ヲ宣ス、朕カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露国ト交戦ノ事ニ従フヘク、朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ職務ニ率ヒ、其ノ権能ニ応シテ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ、凡ソ国際条規ノ範圍ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ遺算ナカラムコトヲ期セヨ(旧字は新字に改め、句点をふった。以下同じ)

 詔勅ではその後、「文明ヲ平和ニ求メ、列国ト友誼ヲ篤クシ」、東洋の治安を維持するようつとめてきたが、「今不幸ニシテ露国ト釁端ヲ開クニ至ル、豈朕カ志ナラムヤ」と述べるのである。
 ではなぜ、露国と釁端(きんたん)をひらくに至らねばならなかったのか。詔勅では以下の四点があげられている。

 一、露国ハ其ノ清国トノ明約及列国ニ対スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然滿洲ニ占據シ益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス
 二、若シ滿洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス
 三、半歳ノ久シキニ亙リテ屡次折衝ヲ重ネシメタルモ露国ハ一モ交讓ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス
 四、陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス

満洲の併呑

 一から四までの項目について、日本側の認識を見ておこう。
 一はロシアが清国との協定(明約)及び対外的な宣言を守らず、満洲を占拠しその地を併呑しようとしているとする問題だ。
 その経緯は、1900年(明治33年)の北清事変にさかのぼる。清末の中国において義和団という秘密結社が乱を起こし、そこに清朝の軍隊が合流した。英露独仏米伊墺日の八か国が、在留外国人の保護などを理由に兵を出した。うち日本は最多の2万強の出兵をおこなった。義和団はその八か国連合軍により鎮圧され、七か国は撤兵するが、ロシアのみ兵をひかなかった。
 ロシアは三国干渉の後、清朝から東清鉄道の敷設権を得ていた。19世紀の半ばには、欧露とウラジオストクを結ぶシベリア鉄道の建設を計画、1891年からその工事に着手していた。東清鉄道は、シベリア鉄道とつなげて満洲を横切るもので、それができると、シベリア鉄道は大幅なショートカットとなる。つまり、ロシアがそのヨーロッパ側から、沿海州に軍を出す際に時間を縮めることができるのである。
 1898年になると、旅順と大連を清朝から租借し、東清鉄道の南支線の敷設権も獲得する。旅順、大連のある遼東半島は、日本が日清戦争によって得たが、露独仏により、東洋の安寧をこわすとして返還を強いられた土地である。それをロシアが取得したのだ。東清鉄道のハルビンから、支線が敷設され、長春、奉天(瀋陽)、遼陽を結び、旅順まで鉄道が伸びることとなる。
 ウラジオストク(海参崴)はもともと清朝の領土であり、1860年の北京条約でロシアが獲得し、その後、沿海州の要港となった。但し、ウラジオストクは冬季に凍るという弱点があった。しかし旅順は不凍港だ。
 ロシアはその旅順を軍事拠点として、シベリア鉄道、東清鉄道と結ぼうとした。そうなると、ロシアの影響力が満洲のみならず、黄海、さらには日本海まで伸びることとなる。
 1900年に起こった義和団の話に戻る。その乱で、建設中の鉄道が破壊された。ロシア人の退去も要求された。同年7月にはアムール河を航行していたロシア汽船が清国軍から発砲された。その報復として、ロシアは満洲に侵攻、10月に奉天(瀋陽)を占領した。翌月11月には奉天省の将軍増祺とロシア軍の駐屯権を定める協約を結ぶ。さらにロシアは清朝と幾度か撤兵の協定を結びながら、第二次撤兵からその約束を反故にしつづけた。ロシアの満洲における一連の行為は、日本側から見れば、「其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス」とうつった。

主権線の維持も困難に

 では二の韓国(大韓帝国)への影響力はどうか。もともと朝鮮半島についての日本の認識は詔勅に述べられている通り、「韓国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所」というものであった。ご存知の通り、朝鮮半島は清朝と宗藩関係にあった。それが東アジアの旧来の秩序だった。両国を対等の関係にしたい、できれば、その政権を親日的なものにしたいというのが、明治政府の希望、悪く言えば野望だった。そこには、旧弊にとどまる朝鮮、清朝を近代化すべしという考えも含まれる。福沢諭吉の「脱亜論」も、そのような東アジアの近代化という問題と地続きにある。
 朝鮮王朝は朝鮮王朝自らのよってたつ論拠があり、外交政策の重点を今後どこに置くか、内部の亀裂もあった。清朝を重視する派、日本に重きを置くグループ、さらにロシアとの関係を密にすべしという考えなど思惑が錯綜する。そのようななかで日清戦争が起こった。
 日清戦後、閔妃派による親露派の政権ができた。軍人の三浦梧楼は、その閔妃を殺害する。閔妃暗殺は、ロシアの影響力が朝鮮に及ぶことを不安視した一部軍人の冒険主義的行動であったが、事件によってロシアの影響力はさらに強まることとなる。
 1897年(明治30年)に朝鮮は大韓帝国と国名を変更、清国の宗主権を否定し、独立国家となった。1900年には、ロシアは大韓帝国と協定を結び朝鮮半島南岸の馬山浦を利用することを約す。朝鮮半島南岸は、ウラジオストクと旅順の間の地だ。そこに船舶が停泊できると、ロシア海軍の日本海への影響力が一挙に増すこととなる。韓国の保全を憂慮する日本の認識はこのように生まれた。では、そのような、満洲、大韓帝国の地政学的変化に対して、日本はどのように対処したのか。三の問題である。
 日本はロシア軍の満洲からの撤兵延期に対して幾度か抗議をおこない、1903年(明治36年)になり直接交渉を開始した。日本の主張は、満洲を日本の利益範囲の外と認める代わりに、日本の韓国における優先権をロシアに認めさせる、というものであった。いわゆる「満韓交換論」である。ロシアは、その内部に意見の不一致はあったものの、仮に日本との戦争が起こったとしても、敗北は想定しておらず、大韓帝国の一定の利益は譲れないと考え、朝鮮半島の39度線を境として、その北を中立地帯とする提案を行った。
 日本は、満洲、遼東半島をロシアが掌握した上に、さらに、朝鮮半島にも影響力が及べば、それは、日本にとって死活的な問題になると考えた。さらに、シベリア鉄道の完成は目の前に迫っていた。鉄道が完成すれば、軍の輸送時間は大幅に短縮する。そうなると、かつて山県が述べた「利益線ノ開帳」はおろか、「主権線ノ維持」(第七回第七師団歩兵二十五聯隊の誕生)も困難となる。
 では、四の意味することは何か。すでに旅順港、大連港が開港していた。そこに、ロシアのあらたな軍艦が配備され、さらに、ウラジオストクからも一部軍艦が移送されていた。ウラジオストク、朝鮮半島、旅順を結ぶ線にロシアの海軍力が増強されたのである。
 日本から見れば、匕首を喉元に突きつけられている、そのように感じたことだろう。それが、「我ヲ屈従セシメムトス」という文言の背後にある日本側の認識である。
 永山武四郎は北海道をロシアへの防衛拠点として位置づけ、その生涯を北鎮にささげた。1904年(明治37年)貴族院議会出席のため上京し、その折にたおれた。その年の2月はじめにロシアとの戦いがはじまっていた。医者は、永山には、日露戦での日本の優勢を告げることが、なによりの薬だと語っていたという。永山が息を引き取ったのは5月27日だが、その頃は、乃木第三軍が旅順の攻撃を開始した時期にあたる。永山は自らの遺体を北海道の地に、ロシアへ向けて埋めろと述べていた。永山の中にも、「我ヲ屈従セシメムトス」とする対露観が大きな比重を占めていたのである。当時の明治政府の指導層にとって、帝国ロシアにいかに対処するか、それが最大の課題だった。
 しかし、ロシアの立場に立てば、異なる景色が見えていた。また、ロシア内部もその対日政策は、一枚岩ではなかったという。例えば、先の奉天省増祺とロシアとの軍駐留の約定は、あくまで、現地軍と現地軍閥との協約であったし、撤兵延期も、ロシア内部のさまざまな意見の不一致によるものであった。そこに一貫した政策があったわけではない。もともと、ロシアは日本との戦争を想定してはおらず、日本が牙をむいてくることはないとタカをくくっていた。前回引用した横手慎二の書には以下のようにつづられている。
 ロシアの「十九世紀末の東アジア政策は国内に激しい意見の対立を引き起こしながら積み上げられてきたもので、一貫した目的を追求するものではなかった。にもかかわらず、獲得した成果は外部には狡猾な外交を強く印象付けるものとなった」という。日本の対露観は、近世における認識が前提としてあり、そこに恐露病が発生し、邪悪なロシア像が形成されていった。鴎外がうたった「三百年来跋扈せし/ろしやを討たん時は来ぬ」(第三回北門の鎖鑰)という認識が国民的コンセンサスとなっていた。他方、伊藤博文は現実的な視点をもっていた。一部社会主義者やキリスト教徒は非戦をうったえた。しかし、そのような声は「夢魔」(第三回北門の鎖鑰)にかき消されてしまったのである。ただ、北海道にとっては、その夢魔は故なきことではなかった。最後にその点を見ておきたい。

北海道が切り捨てられる

 他の師団と異なり、北海道の第七師団にはなかなか動員命令がおりなかった。2月4日の御前会議での開戦決定後、七師団に日露戦争参戦への下命があったのは、それから半年たった8月4日のことだった。さらに、七師団が乃木の指揮下の第三軍に編入されたのはその3か月先の11月11日のことだった。他の師団には続々と動員命令がくだされる中で、なぜ七師団は北海道で待機させられたのか。それは、開戦後、北海道がロシアの攻撃を受ける危険性が高かったからである。
 開戦後に発せられた七師団への命令は沿岸警備だった。小樽(二十五聯隊)、室蘭(二十六聯隊)、函館(二十八聯隊)の守備が下命された(『新撰北海道史』第四巻、通説三、北海道庁、1937年)。ロシアの太平洋艦隊の一部は、ウラジオストクから旅順にうつっていたが、ウラジオストクにも軍艦はとどまっていた。ウラジオストク艦隊である。ウラジオストクの緯度は北緯43度、ほぼ札幌と同じだ。つまり、ウラジオから東征すれば、札幌近海に軍を動かせるのである。
 2月10日の詔勅発布の翌日にウラジオ艦隊の4隻が津軽海峡の西口にあらわれる。この時、酒田から小樽に向かっていた商船・奈古浦丸が撃沈され乗組員2名が溺死する。同じく全勝丸も砲撃され、福山(松前)に逃れている。ロシアの目的は、通商破壊にあった。日本海軍は遼東半島への対応にあたらねばならず、北方まで手が回らなかった。
 奈古浦丸撃沈の報が伝わると、函館には騒擾が起こった。銀行では取付け騒ぎが発生し、多数が近在に避難したことが、奈古浦丸砲撃の記事と同じ紙面に掲載されている(『北海タイムス』明治37年2月13日)。福山がロシア艦隊に砲撃されたとするデマがながれる。奈古浦丸撃沈後、北海タイムス(札幌)、函館新聞は日本軍優勢を報ずるが、その合間に流言飛語を打ち消す記事が載っている。奈古浦丸沈没5日後の函館新聞には「何故に我陸海軍を信頼せさる」という時論(社説)が掲載される。そこでは、帝国陸海軍の善戦をつたえ、翻って函館においては、ほとんどの商店が扉を閉め、都市機能が失われたことを嘆き、函館の人々の「静考」をうながすものだ(『函館新聞』明治37年2月16日)。
 ウラジオストク艦隊は幾度か津軽海峡を通過している。7月には九十九里浜から下田沖にまで至り、周辺にいた船を次々に臨検する。津軽海峡の制海権はロシアに握られた。政府は北海道の放棄を意図しているという噂が流れ、北海道が切り捨てられるのではないかと道民は恐慌に陥った(『新撰北海道史』第四巻、通説三、北海道庁、1937年)。
 そのような不安は、その年の8月の黄海海戦、蔚山沖海戦までつづくこととなる。開戦当初、七師団が北海道から離れられなかったのはかくの如き理由によるものだった。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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