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「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第十回 なんじの霊の山

 日露戦後、歩兵二十五聯隊長の渡辺水哉(中佐)は、旅順の絵をもって、乃木希典に讃をもとめた。乃木は忠魂碑にしか揮毫はしないとその依頼をことわったが、渡辺は「二〇三ハ私ノ墳墓デアリマス」と再度もとめ、「サウジャッタ喃(のう)」と応じたという(『歩兵二十五聯隊史』、1936年)。乃木は渡辺が持ってきた旅順の山の絵に、以下の七言絶句を書いた。

 爾霊山険豈難攀 爾霊山(にれいさん)の険、豈(あに)攀(よ)じ難からんや
 男子功名期克艱 男子功名克艱(こくかん)を期す
 鉄血覆山山形改 鉄血山を覆いて山形改まる
 万人斉仰爾霊山 万人斉しく仰ぐ爾霊山

 読み下し文は『西郷隆盛・乃木希典』(「新学社近代浪漫派文庫」新学社、2006年)。

 札幌護国神社に所蔵されているその扁額の讃の末尾には「丙午初春為渡辺水哉兄」としたためられている。乃木の揮毫は丙午(ひのえうま)の年(1906年=明治39年)、講和条約が結ばれた翌年の春のことだった。

「璽霊」の意味するもの

 乃木が司令官をつとめた第三軍が旅順の二〇三高地を攻略したのは1904年(明治37年)12月5日のことだ。二〇三高地への第三回目の総攻撃で山頂に達したのが歩兵二十五聯隊長の渡辺水哉と、同じく第七師団の歩兵二十八聯隊長村上路(大佐)がひきいる部隊であった。渡辺水哉は二十五聯隊の初代の聯隊長で、第七回「第七師団第二十五聯隊の誕生」の聯隊旗拝受の節で触れた。
 「墳墓デアリマス」という言葉は、三回の攻撃で、二〇三高地が屍山血河となり、「鉄血山を覆いて山形改まる」という様相を呈したことを述べているのである。攻略目標を二〇三高地に改める以前の旅順攻略作戦では2万近い死傷者が出ていた。
 「爾霊山」からはじまるこの漢詩は、広く知られた乃木三絶の一つだ。もとは、二〇三高地占領5日後の12月10日の日記に書きつけられており、従軍記者として旅順にいた志賀重昂が乃木からこの詩を見せられ、二〇三高地を「爾(なんじ)の霊の山」とするその表現力に驚かされたという。
 二〇三高地は標高203メートルの小山だが、旅順軍港を見おろすことができた。高地を奪還したことにより山頂に観測所をおき、口径28センチという巨砲で、港内に碇泊していたロシア艦船を沈没させることに成功したのである。
 満洲軍総参謀長の児玉源太郎が、二〇三高地の部隊との交信第一声で、「そこから旅順港が見えるか」と述べた事はつとに有名だ。児玉がその言葉を発したのは交信時ではなかったという説もあるが、児玉の言であることはまちがいないようである。その語が人口に膾炙するようになったのは、その言葉に「明治国家の運命が託されていた」(小林道彦『児玉源太郎』ミネルヴァ書房、2012年)からである。二〇三高地から軍港が観測可能となったことが、旅順攻略の要となり、その後の対馬沖での日本海海戦の勝利につながっていく。旅順要塞をおとせなければ、海軍は旅順港にとどまっていた太平洋艦隊と、バルチック艦隊の挟み撃ちに遭い、勝機は限りなく遠のいていた。
 乃木は旅順に至る南山の戦いで長男勝典を失い、二〇三高地では次男保典が死んでいる。「爾(なんじ)」という二人称には、勝典、保典、さらに、高地占領に至るまでに戦死した多くの将兵がふくまれていたと考えられる。
 二〇三高地は、そのようにしてあまたの将卒の霊がねむる山となった。であるからこそ、「万人は斉しく仰がねばならない」のである。乃木は夫人の静子をともなって、明治天皇をおって自刃した。その尋常ならざる死を経て乃木の神格化はすすみ、各地に神社も生まれた。旅順も「聖地」と化した。
 司馬遼太郎はそのような乃木神話に否定的だった。『坂の上の雲』の旅順のくだりを書く際、「乃木神話の存在がわずらわしかった」とつづっている。くわえて、旅順そのものも「地理的呼称をこえて思想的な磁気を帯びたようであり、その磁気はまだ残っている」と書いている(「あとがき」『坂の上の雲』四、文藝春秋)。
 司馬は、『坂の上の雲』で精神主義者乃木と合理主義者児玉を対置した。「そこから旅順港が見えるか」という言も、合理主義者児玉を語るエピソードとして紹介している。乃木が指揮した第三軍の旅順攻撃が拙劣なものであったという司馬の評価に対しては、いくつかの反論がでているが、ここではその問題には立ち入らない。
 乃木を描いた『殉死』と『坂の上の雲』で愚将乃木のイメージが広がり、彼が発する過剰なストイシズムに、冷静な視点を提示したことは、司馬の功績の一つだろう。そこには、乃木が、大塩平八郎から三島由紀夫に至る陽明学の系譜に属していたという認識が背後にあった。『殉死』は、幼少の頃、学習院で教育を受けた昭和天皇も眼を通し、おおむね自身が接した乃木と相違なかったことを周囲に語っていたという。司馬の乃木像は、学習院院長時代の実像と大きく離れていたわけではないということなのだろう。

旅順という磁気

 旅順攻略が拙いものであったのか否か、参謀の伊地知幸介の作戦は如何、といった戦略にかかわる問題は、軍事に明るくない人間ができるものではない。ただ、司馬の言う旅順の発する「磁気」は戦後生まれの私でも感ずるものがあった。個人的な話となり恐縮だが、サラリーマン時代の経験を書きとどめておく。
 大連でとある大手メーカーの展示会を開催する仕事にたずさわったことがあった。企業展示会は広告会社の主要な業務だ。当時、北京事務所勤務だったので幾度か大連に通い、本社からスタッフが入ってくる前の事前準備をした。展示会の開催は6月はじめに設定されていた。その企業のトップが大連第一中学校の出身であることを知ったのは、展示会がはじまってからのことだった。開催期間が、大連市の市花であるアカシアが咲くころに設定されていた理由はそのあたりにあるのだろうと思った。しかしトップが大連出身者なので、その地で展示会が開かれたわけではないだろう。当該企業は大連の開発区に合弁企業を置いていた。大連は中国東北(旧満洲)の玄関口、東北で販路を拡大する際は、大連でプロモーションを行うことが常道だった。
 展示会開催中、得意先も、また私が働く会社でも、一世代上の人たちが旅順を語る時になにか熱を帯びたものがあることを感ずるようになった。大連と旅順は隣接し、中華人民共和国建国後は「旅大市」として同じ行政区にあった。だが人民共和国でも旅順は軍港として使われていたため、外国人が立ち入ることはできなかった。それだけに、旅順という言葉が発する磁気はより強いものになっていたのかもしれない。
 まだ『坂の上の雲』を読んでいなかったので、むしろ、20世紀初頭のロシアと日本の建築が混在する大連という街並みに魅力を感じ、清岡卓行の『アカシヤの大連』をテキストに、展示会の小休止の合間に街歩きを楽しんだことを覚えている。清岡の父君は満鉄職員で、彼も大連一中の卒業生だった。
 ずいぶん経ってから、大連出張のついでに旅順を訪ねる機会があった。すでに外国人にも門戸を開いていた。二〇三高地の頂上からは確かに旅順港が見えた。高地をくだったところに「乃木保典君戦死之所」という碑を見つけた時は、その磁気に圧倒されてしまった。高台には塹壕の跡が見える。旅順には強力な磁気をはなつ場所が随所に残っていた。


乃木保典戦死碑(乃木保典君戦死之所)

対立する史観

 日露戦争は20世紀の劈頭におこった世界史的事件だ。ここにおいて歩兵二十五聯隊も月寒の地を離れて、世界史の舞台に踊り出ることとなる。
 よって、彼らの日露戦争における戦いというミクロの問題に立ち入る前に、日露戦争を俯瞰的に眺める視点も提示しておいたほうがよいだろう。但しこの連載は二十五聯隊、聯隊駐屯地月寒、また旭川第七師団の史実を追いつつ、「北鎮」の問題を考えることが主題なので、あまり、日露戦争の鳥瞰図を詳細に語ることは本筋から外れることとなる。ここでは大づかみに、この問題を考える枠組みを提示することとする。
 横手慎二はその著『日露戦争史』(中央公論新社、2005年)の冒頭で、日露戦争に対する二つの見方を提示している。一つは「日本という国家の存亡を賭けた戦い」とする解釈と、もう一つは「韓国と満洲の支配をめぐる争い」というものである。歴史学においてその二つの評価は鋭く対立しているというのだ。読者はこの問題についてとうにご存知で、ご自身の評価も、どちらかに近いものをお持ちのことと思う。
 ただ、その二つの解釈の中にもさまざまな分岐点があり、日露戦争をめぐる歴史解釈は容易に断定できるものではないだろう。ここでは上記の定義を借りて、その問題について暫定的な整理をおこなっておきたい。
 前者の代表、というよりも、その歴史解釈を巷間に流布させたのは、先の『坂の上の雲』ということとなろう。司馬は同書の単行本の「あとがき」で、これから語る物語が日本史上類のない楽天家達の物語であり、彼らは前のみを見て歩いたとし、以下のようにつづる。「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」(「あとがき」『坂の上の雲』一)。このフレーズはNHKのドラマの冒頭でも使われていたので、耳に残っている方も多いのではないか。
 最後の単行本の「あとがき」で司馬は、日露戦争を「民族的共同主観」による「祖国防衛戦争」という言葉で表現している。日本の対外戦は少なくとも日露戦争までは祖国を守る戦いであったとするのである。言葉を換えて言えば、あの戦争での勝利がなかったら、満洲、そして朝鮮半島にロシアの巨大な影響力が行使され、そこから、日本の生命線がおびやかされていたかもしれないという主張である。
 「民族的共同主観」が意味することは、明治という国家は「国民」を創造したということだ。司馬の言葉を使えば、明治の日本人は、「不慣れながら「国民」になった」のである。日本人は明治国家の発展に昂揚した。そして「このいたいたしいばかりの昂揚感がわからなければ、この段階の歴史はわからない」と言う(「あとがき」『坂の上の雲』一)。
 ここからは、先の二つの解釈の分岐点となるが、NHKのドラマ化以来、やや彼の執筆意図の重要な点が曖昧になっているように見える。それは、日本が戦争に勝利したがゆえに、その歴史が暗転したという歴史の逆説という問題だ。それは、彼の『「明治」という国家』(上下、日本放送出版協会、1994年)と『「昭和」という国家』(日本放送出版協会、1999年)の筆致の違いを見れば明らかだ。商人的気質を持つ司馬遼太郎は、多くの読者に受けいれられるよう『坂の上の雲』を書いた。乃木や旅順がはなつ「磁気」を一旦は突き放しつつ、それを巧妙に利用してもいる。同時に、司馬はその映像化についぞ頭をタテにふらなかったことに見られるように、戦場体験者として、映像による戦闘場面が持つ怖さを認識してもいた。
 史家の渡辺京二は『坂の上の雲』に批判的だ。「小説と銘打ちながら、講釈につぐ講釈で、その中身もとても本気でつきあえる代物ではない」と言い、多くの史実の誤りを指摘する(渡辺京二「旅順の城は落ちずとも」『幻影の明治』平凡社(文庫)、2018年)。司馬が言わんとしたことは、「明治の軍部は昭和の軍部のような精神主義の阿呆ではなかった。(中略)彼は敗戦によって自己喪失した日本人に自信を取り戻させると同時に、明治期の合理的精神がどうして十五年戦争期の神がかり的精神に退化したのか、現代日本人に反省をつきつけようとした」、しかしそこには彼の創見は皆無だと断ずるのである。
 私も『「明治」という国家』と『「昭和」という国家』を続けて読み、昭和という国家が、司馬の言葉を使えば、「魔法使いが杖をポンとたたい」て「魔法の森にしてしまった」その原因がきちんと書かれていないように感じられた。昭和前期を拘束してはなさなかった悪魔的な力の源から、どこか逃げているような、そんな気持ちがしたのである。
 それゆえに、渡辺京二の指摘も多少納得できるものがあった。ただ、司馬が40代のほぼ10年をかけて、同作品を書いたその情念は、戦争体験に由来するものであり、そこには、切迫した感情があったはずだとも感じられたのである。
 渡辺京二はその「坂の上の雲論」の末尾で以下のように書く。「われわれの本来の生活は国家と無縁であるべき個の位相にあるはずなのに、国家のうちに包摂されてそれと関係を持たざるをえない必然に責任を負うてゆかねばならない。この根本的な裂け目に架橋しつつ生きてゆかねばならぬのが、現代人たるわれわれの運命なのか」とし、『坂の上の雲』が問いかけているのはその一事だというのである。
 この問題は、司馬の言う「民族的共同主観」「祖国防衛戦争」と深く関係していることは言うまでもない。渡辺京二のこの批評は、巷間言われる「司馬史観」を一旦はなみする態度を示しつつ、他方、彼の可能性の中心を拾い出しているように読め、私には得心のいくものだった。
 ここから、議論はあらたな地平に入るのだが、そうなると本論から外れることとなるので、日露戦争を「日本という国家の存亡を賭けた戦い」とする解釈についての自分なりの理解はここで止めておくことにする。
 では次に「韓国と満洲の支配をめぐる争い」という歴史解釈に触れておきたい。その解釈を論じたものは多々あり、代表を選ぶのは難しいが、自分が眼にしたものからランダムに選ばせていただくと、川村湊の「日清日露のダイショーリの蔭に」をあげておく。これは集英社の「コレクション戦争×文学」の第六巻『日清日露の戦争』(2011年)の解説として書かれたものだ。「ダイショーリの蔭に」という言葉に表れている通り、司馬の言う「楽天家達の物語」とは真逆のものだ。戦争による被害を直接的、間接的に受けた人々に焦点をあてた批評である。
 川村の日清戦争、日露戦争の歴史解釈は、そこに中黒(・)を置かないことに雄弁に語られている。それは一貫した「帝国主義による戦争」であったという視点だ。日清戦争においては、中国や朝鮮に対する民族的差別感情を生み出し増幅させたとするのである。日清戦争以降、「台湾征服戦争」さらに「朝鮮征服戦争(東学党の乱=甲午農民戦争から韓国併合)」、そして日露戦争が続き、「日独戦争(第一次世界大戦)」があり、「日ソ戦争(シベリア出兵)」に継続していく、それが、日本の戦争の実相だというのである。
 川村の見方は、日本の近代のある側面を映し出している。「日清日露の戦争」は、所詮、ロシアとの間の韓国と満洲の支配をめぐる争いであり、「国民」になった日本人が、戦争に借り出され、侵略に加担したというものである。ここで私は、この二つの歴史解釈の正否を問おうとしているのではない。「祖国防衛戦争」という解釈も、また中黒のない連続した帝国主義による侵略戦争という解釈も、成り立ちうることだろう。但し、少なくとも『坂の上の雲』がそのような批判を想定したものだったという事実は、抑えておかねばならないことだ。
 日露戦争は、明治政府の衝にあたる人々にとっては、辛勝以外のなにものでもなかった。しかし民衆は「ダイショーリ」と認識し、政府もそのようにとりつくろわざるをえなくなった。新聞はそれを後押しした。その齟齬がその後の不幸を準備していくのである。
 ただ上記は歴史が過ぎ去った後の見方である。その時代を生きるものにとって歴史はそのようには見えなかったはずだ。司馬がいう「昂揚感」を抱いたものにとっては、戦争はもっと切迫したものとしてうつっていた。
 歴史の見方を「期待の次元」と「回想の次元」にわけて論ずることを提起したのは鶴見俊輔だ。これまで、日露戦争を雑駁ながら、「回想の次元」で見てきたので、次に当時の人々の視点である「期待の次元」で歴史を修復する作業をおこなっておかねばならないだろう。次回は、あの戦争を明治政府の要路がどのように認識していたのか、「北鎮」の視点をくわえて整理をおこなってみる。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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