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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第三信 姜信子より「春なき修羅の歌」

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah 山内さん、気がつけばもう2月、時のたつのははやいはやい!……、「こんや異装のげん月のした、鶏の黒尾を頭巾にかざり、片刃の太刀をひらめかす」……、dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah 昨年末にお手紙いただいてから、私の中でずっと鳴り響く歌ひとつ、ああ、もう、きっとお気づきですね、
 宮沢賢治の詩集『春と修羅』に収められている「原体剣舞連」(1922.8.31作)。そのなかにこんな言葉があったでしょう? 

 Ho! Ho! Ho!
 むかし達谷(たつた)の悪路王 
 まつくらくらの二里の洞 
 わたるは夢と黒夜神 
 首は刻まれ漬けられ
 アンドロメダもかゞりにゆすれ

 これは賢治が呼び出した、遠い昔の東北/蝦夷の虐殺と征服の記憶ですね、悪路王は大和朝廷の征夷大将軍坂上田村麻呂と激しく戦って、敗れて、首を切られて、その魂はそれから1000年もの歳月の間、田村麻呂が戦勝記念に建立したとされる平泉・達谷窟(たっこくのいわや)の毘沙門天に邪鬼のように踏まれつづけている。賢治は原体剣舞連の踊り手たちの彼方に、征服された東北/蝦夷の王・悪路王を幻視している、そしてこの詩の最後をこんな言葉でしめくくっている、

 打つも果てるもひとつのいのち
 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 美しい、そして哀しい。それは生きとし生けるすべてのいのちを貫く哀しみです、でも実のところ初めてこの詩に触れた時、その哀しみを前に途方に暮れる私もいたのです。
 打つも果てるもひとつのいのち、と私も賢治とともに歌ってしまっていいものなのか、そう歌うことができるのはいったい誰なのか、と。

 岩手の花巻に賢治が生まれたのは1896年、日清戦争に勝利して、日本が戦争と植民地の近代へと突き進んでいく、まさにそのはじまりの頃のことです。そんなはじまりの時代に賢治は冷害や飢渇(けがつ)で苦しむ東北の地で「ほんたうのさいはひ」(『銀河鉄道の夜』)を追い求めて、そして1933年、日本がついに無謀な戦争に突入してゆく頃に世を去ります。それは、この日本のさまざまな風土とそこに生きる人びとが、いままさに建設中の「近代」という仕組みの中にぐいぐいと囲い込まれて、一様に作りなおされてゆく時代だったとも言えるでしょう。そのなかにあって、東北の風土を見つめ、そこに息づく記憶を身に宿していた生成中の近代人、賢治がいる。その詩の芯にある「いのち」のことを私はぐるぐると考えているのです。

まるで昔の行者のように山を歩き森をゆく賢治は、たとえば詩集『春と修羅 第二集』で、こんな呟きをもらしています。「祀らざるも神には神の身土がある」(「産業組合青年会」より)。これは、近代が淫祠邪教と名指して殺していった風土の名もなき神々の記憶に触れた言葉。賢治自身、山中の河原の無人の宿坊でひとり夜を過ごしたときに、目には見えぬ昔の行者が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と激しく念仏を唱えて自分を通り過ぎてゆく声と音を聴く、幻視する、このくだりは「河原坊(山脚の黎明)」に記されていること。生成中の近代人賢治の詩(うた)には近代から追われた風土の神々、その神々と深く結ばれて生きていた人びとの記憶が潜んでいる、しかもそれを近代語に置き換えて語ろうとする賢治の言葉にはまだ初々しさが漂っていて、その意味でもまことに面白いのですが、今はそこには深く立ち入りません。風土の神々とその記憶をめぐる話は、私たちのこのやりとりのなかで、とても重要な話題として、おいおい語られてゆくことになるでしょうから。それはともかく、

 賢治の語る「いのち」は、近代の進展とともに見失われていった「いのち」であったことはきっと間違いない。
 近代の真っただ中に生まれ落ちた私が教えこまれてきた「いのち」とは異なるものであることも、きっと間違いない。
 そして、そもそも、こんなことをぐるぐる考えだしたのは、東北のこどもであった山内さんの手紙の中のこの言葉ゆえのことなのです。

 「私は思っています。この土地が歴史を遠くさかのぼったある時点で、かなり凄惨で、深刻なジェノサイドに見舞われたのではないか、と。その記憶に耐えられず、時間の堆積のなかで喪失してしまっているのではないか、ということを。」
 「わたしはしかし、こうも思っています。わたしたちは奴隷であることに耐え切れずに負けて、結局のところ暴力をふるう側にまわってしまったのじゃないか、とも。わたしが皮膚感覚で〈東北〉を感じるとき、それは決して比喩ではなく、そんな気持ちなのです。加害性と被害性を同じ人格のなかに持ちあわせた土地。」

 この言葉に触れた時、嗚呼、私たちはどうしようもなく「近代」の虜なのだ、と痛切に思ったのです。「加害性と被害性を持ちあわせた土地」。これほどに、私たちが生きる「近代」空間の無惨さを語りつくす言葉はないのではなかろうかと。

 となると、まず思い起こされるのはわが一族のこと。言うまでもなく、私は植民地の民の末裔です。私の祖父はまだ二十歳そこそこの青年だった頃、1919年の3・1独立運動のさなかに朝鮮のどこかの街で「独立万歳!」を叫んで、官憲にしたたかに頭を殴られて、その傷跡は終生疼いていたのでした。その一方で、祖父は30代初めに日本に渡ってきて、やがて朝鮮料理屋を営んで、それなりの成功を収めた。そして、戦時中に在日朝鮮人の管理・統制のために作られた官製団体・協和会の川崎支部の役員となる。いわゆる「親日派」ですね。川崎は京浜工業地帯の労働者の町です。ここには多くの朝鮮人労働者がいました。彼らは日本鋼管、石川島播磨、東芝、浅野ゴムといった工場の最底辺労働者です、寄る辺ない朝鮮人労働者がなんらかの問題で警察に拘留されたならば、その身柄を引き受けに行く者が必要で、それが祖父の役割だった、誰かがそれをやらねばならなかったのだ、圧倒的な力を前に断ることなど不可能だったのだ、というのがわが一族に伝わる「親日」の歴史です。確かな主義も信条もなく、ただただ生き抜くことに必死の植民地の民がたやすく日本の「近代」にのまれていく、そんな、小さな歴史……。
 あるいは、2000年代に沖縄八重山群島の石垣島から韓国へと、石垣島の郷土史家大田静男さんとともに、戦時中に石垣島で果てた朝鮮人軍属や慰安婦の魂を運んだ時のことを私は想い起こします。
 戦争末期、石垣島にも日本軍が駐屯し、本土防衛のために陣地や飛行場が構築されていました。そこには数多くの朝鮮人軍属が投入されていた。朝鮮人慰安婦もいた。悲惨な死を遂げた者もいた。異郷にごみを捨てるように放り出された死者たちがいたのです。大田さんはどこで果てたかもわからぬ死者たちの跡を追って山野に深く分け入り、最期の地を突き止めます、骨は朽ち果て跡形もなくとも、せめてその魂を鎮めようと、ついには自宅の庭に慰霊碑を立ててしまう。その魂を、島の慣習に則って、夜明けの渚の波に洗われた清浄なる石に宿らせて、青磁の壺に納めて、死者たちの故郷へと運ぶ、そのお供を私はしたのですが、そのとき大田さんは玄界灘を越える間も、朝鮮半島に降り立った時も、身をこわばらせていた。「いくら沖縄が日本に踏みにじられているとはいえ、僕は朝鮮半島を踏みにじった日本国の国民である以上、韓国の人たちに石を投げられても当然だ、その覚悟をもって僕はここに来た」のだと。

 私たちの生きる、明治150年のこの「近代」社会には、<勝者>と<敗者>がいます、それは<植民者>と<植民地の民>であったり、<加害者>」と<被害者>であったり、<支配者>と<奴隷>であったり、<多数者>と<少数者>であったり。ここでは<生>と<死>もまた截然と分かたれています。でも事態は単純な二項対立で終始しているわけではない。敗者/植民地の民/奴隷/少数者は、勝者/植民者/支配者/多数者を真ん中に置いた仕組みの中に再配置されて、抗いようもなく、おのずと「近代」社会の無力な共犯者になる。
 思うに、そのことを見事に射抜いたのが、水俣病患者である緒方正人さんが放った「チッソは私であった」という驚くべき言葉だったのではないでしょうか。
 資本主義経済のもと、企業利益も公害被害も失われた命もなにもかもがお金で換算される「近代」の思考と仕組みの中に住まいつづけるかぎり、好むと好まざるにかかわらず、私たちは「加害性と被害性を持ちあわせた土地」に生きる「加害性と被害性のからまる鎖でつながれた共犯者」でしかありえない。チッソは私である、私こそが近代そのものである、抜き差しならない近代、それが私である。
 もはや近代そのものである私たちが「打つも果てるもひとつのいのち」と歌えば、それは共倒れの「近代」賛歌、「春」なき「修羅」の歌でしかないでしょう。
 じゃ、どうする?
 水俣病の認定申請運動の先頭に立っていた緒方さんが、「近代」の仕組みの中では「いのち」への責任など誰も取ることができないのだとついに見切ったときに、「近代」の論理自体を斥け、申請を取り下げ、石牟礼道子さんとともに「もうひとつの世/常世」へと向かう魂の運動へとシフトしていったように、私たちもまた、近代を越えてゆく私たち自身の道を切り拓いていくほかはありますまい。
 いつか山内さんと石牟礼文学のことを話したときに、私は「石牟礼さんを越えたい」と口走って、ひどく山内さんを驚かせましたよね。あれは、つまりは、石牟礼さんや緒方さんのようには近代を越えることはできない私が、石牟礼さんが呼び出してきた「もうひとつの世」に寄りかかって、そこにとどまるわけにはいかない、ということなのでした。私は私なりの「もうひとつの世」を呼び出すほかはないのだし、私には私なりの「打つも果てるもひとつのいのち」の世界への出発点があるはずなのです。
 だから最後にもう一つ。とても大事なこと。胸に刺さった山内さんの言葉をここに書き写します。

 「あの3月12日から〈傷〉はさらに深くなりました。〈傷〉は治癒されないまま深くえぐられ、さらなる〈存在の接木〉が起こっています。次々と、しかも激烈に。忘却に忘却が重ねられ、誰も損なわれた事実を知らず、もはや自分自身が何であったのかさえ分からないのです。」

 そのとおりです。私たちは何を忘れ、何が損なわれてきたのか、いまいちど私たちの「近代」を、つまりは私たち自身を見つめ直さぬかぎりは旅立ちようもない。なるほど、実に厳しい出発点だ。でもね、山内さん、今の私はこんな心持ちなんです。
 「僕、もうあんな大きな闇の中だってこはくない、きつとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く、どこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」(『銀河鉄道の夜』)

2019年2月10日 石牟礼道子さん一周忌の夜に。
姜信子


石垣島の郷土史家、大田静男さんの家の庭に建てられた慰霊碑。


石垣島から運ばれて、韓国の寺に安置された朝鮮人軍属・慰安婦の魂(祭壇上の青磁の壺)。

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著者略歴

  1. 姜信子(きょう・のぶこ)

    1961年、横浜市生まれ。著書に『棄郷ノート』(作品社)、『ノレ・ノスタルギーヤ』『ナミイ 八重山のおばあの歌物語』『イリオモテ』(岩波書店)、『はじまれ』(サウダージブックス)、『生きとし生ける空白の物語』(港の人)、『声 千年先に届くほどに』『現代説経集』(ぷねうま舎)、『平成山椒大夫 あんじゅあんじゅさまよい安寿』(せりか書房)など多数。訳書に、ピョン・へヨン『モンスーン』、李清俊『あなたたちの天国』、カニー・カン『遥かなる静けき朝の国』、編著に『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房)など。17年『声 千年先に届くほどに』で鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。路傍の声に耳傾けて読む書く歌う旅をする日々。

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