書評
【書評】セリエ『聖書入門』 [評者]山上浩嗣
2017年05月22日
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『聖書入門』
フィリップ・セリエ 著/支倉崇晴・支倉寿子 訳
講談社選書メチエ 2200円+税

 

[評者]山上浩嗣

 

聖書と聖書文化の全貌

 旧約46と新約27、合わせて73もの文書からなる聖書の各部分の内容を紹介し、それぞれの登場人物やエピソードが西洋の文学、造形芸術、音楽、映画に与えた影響について解説する本。全体をもれなく網羅しているため、本書一冊で聖書と聖書文化の全貌を知ることができるが、単なる情報の羅列ではなく、各文書にまつわる意外な逸話や、著者独自の美的・文学的評価が記されていて、これまで聖書を敬遠していた者も楽しみながら読み進められる。『ヨナ書』が鯨(一般的には魚)に呑みこまれて三日後に吐き出される預言者の話だとか、17世紀の一部の修道女は『雅歌』を読むことを禁じられていたなどと聞くと、どんな文書かと興味をもたずにはいられないだろう。

 聖書から文学や芸術への影響についての記述では、著者の碩学ぶりに驚嘆させられる。著者はパスカル研究の泰斗にしてフランス17世紀文学の専門家であるが、古今の西洋の文芸、音楽、造形芸術のすべてに通暁している。とくに、言及される絵画の数が圧倒的で、美術史の学生はこの情報のためだけでも本書を読む価値がある。掲載されている図版は少ないが、多くの作品はネット上で閲覧できるだろう。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、『ベルリン天使の詩』などの現代の映画作品も取り上げられている。

 聖書に典拠をもつ数々の日常表現や常識について学べるのも楽しい。「目から鱗が落ちる」「ダマスコへの道を見つける」「日ごとの糧」「やもめのオボル」など。gêner(邪魔する)の語源は、地獄を意味するヘブライ語「ゲヘンナ」だそうだ。私はとりわけ、「スケープゴート」という現象の普遍性、マグダラのマリアのもつ聖俗の両義性、聖書における「天使」と「サタン」のさまざまな役割についての論述に目を開かされた。

 著者は、このように聖書の魅力を多角的に論じながらも、キリスト教をめぐる悲惨な歴史も無視せず、狂信への批判も忘れない。私はかつてソルボンヌ大学で数年間、著者のフィリップ・セリエ先生の授業に出席した。いつも厳粛だが和気藹々とした雰囲気だった。ときおり聖書にまつわる冗談で教室がわいたものだった。本書には、深い学識と洒脱なユーモアを備えたフランス的良識が響きわたっている。そして、達意の訳文が、この名著の価値をさらに高めている。

(やまじょう・ひろつぐ)

 

◇初出=『ふらんす』2017年6月号

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