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小沼純一「詩(うた)と歌(うた)のあわいで」

第11回 ゲンズブールと女たち(の声)

 1950 年代末から 80 年代まで、ゲンズブール自身が自らの名を冠したアルバムはそれほど多くない。でも 1 枚 1 枚はそのときどきの時代のスタイルを持っていて、そのサウンドだけですぐ“アレ”と、“あの時代”とわかる。(比較的穏健で伝統的なと呼んでもいいだろう)シャンソンの、イェイェの、ロックの、レゲエの。音楽の、サウンドのスタイルはことばと、語られていることと連動している。

 楽曲の提供が多いのはよく知られている。特に女性たち。歌手もいれば女優もいる。生粋のフランス人もいれば外国からやってきた人もいる。アイドルもいる。ときには一緒に歌う。何よりも歌う女性それぞれのキャラクター、声が楽曲にフィットしている。あ、この女性、というイメージが声とことば、曲調とサウンドでたちあげられる。うまい人もいればそうでない人もいる。「こんなんでレコードだすんだ(笑)」というのだってある。ルックスと歌声が背きあったり、外見のイメージがこわれたり。

 ジュリエット・グレコ、ジジ・ジャンメール、カトリーヌ・ソヴァージュ、マリアンヌ・フェイスフル。フランス・ギャル、フランソワーズ・アルディ、シャルロット・ゲンズブール、バンブー、ヴァネッサ・パラディ。カトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジット・バルドー、アンナ・カリーナ。ジェーン・バーキン、イザベル・アジャーニ、ミシェル・アルノー……。

 でも逆にそれこそがひとつの新たなイメージになる。自らのイメージを意識してつくりあげ、それを亡くなるまで持続したゲンズブールだからこそ、女性たちそれぞれをうたで造形することができたのだろう。うたは歌い手を描きだす。声は噓が苦手だ。だが一方、ことばとサウンドはいくらでも噓がつける、というより、それじたいフィクションだ。それらがあわさって、一体化して、切り離しがたくなってこそのうた=歌い手なのだ。

 もしゲンズブールが活躍していた時代にそのうたを聴いていなかったとしても、おなじ時代の極東における歌謡曲を耳にしていたら、これは!とおもうものがいくつもあることだろう。単純にカヴァーされていたというだけではなく、サウンドが、曲調が、あるいはうたというには妙にすかすかしているけれど妙に艶っぽいスタイルが模倣されたりしていた。映画をとおしてはいってきた曲調もある。そうだよな、このリズムってあったよな、とあらためてわたし自身気づいたりすることしばしばなのだ。

 ゲンズブールは、だが一方、他者とのずれを、人と人とが最終的にコミュニケーションしきれないことをよく理解していた。理解していたけれど、憧れつづけ、うまくいかないことに傷つきつづけた。だからこそ、うたを書いたといえるかもしれない。うたは人と近くなるひとつの大事な媒体だった。意味を何重にももつことばが、ことばにならない声が、声にならない息があり、さまざまなニュアンスがこめられ、時間のながれのなかで変化するひとつのフレーズこそがうたなのだから。

 ジェーン・バーキンと一緒に歌った《Je t’aime..., moi non plus》。放送禁止になったりしたというこのうた、いわゆるメロディーなどではなく、女性が声をだし、ため息をつく、喘ぐ、息とともにかろうじて声がでる、それに対して男はピッチがあっているのかはずれているのかわざとなのかまんまなのかわからずに歌う。ここにはことばの意味以上の、うたでこそのものがある。まったくフランス語がわからなかったって、わかる、わかってしまう。

 できるだけ正確なフランス語を読み・書くことを躾けられてきた高校生の身に、この「non plus」は喉にひっかかった骨みたいなものだった。文法的にどうのという以上に、こうした言い方をしてしまうかもしれない現実の世界に震撼させられたと言ったら誇張だろうか。それにこれを正確に翻訳できるのかという問いはずっと自分のなかにある。「おれもそうじゃない」でいいのか、ほんとに? 

 「moi non plus」という言い方。女性のストレートなメッセージに対しての応答。凡庸なラヴ・ソングなんかじゃない。たぶんからみあっているであろう二人のあいだ、睦言が交わされているであろうあいだに、でも、心身のあいだのずれが表出する。それこそ正直で率直な。あまりに有名なスティーヴンソンの小説を書き換えた《Docteur Jekill et Monsieur Hyde》はといえば文字どおり内実とイメージとのずれ、その古典的なありようへの批評ともなっていよう。

 「ほんとのゲンズブール」なんかいるのかといえば、それはわからない。というか、そんな問いは馬鹿げている。あなた、あなた・たち、ひとりずつ、誰だってそんな「ほんと」を持っている、信じているとしたら、かえって驚きだ。ゲンズブールの時代よりずっとずっと「わたし」がメディア環境の変化にともなって分化しているいまでは。とはいえ、ゲンズブールがときどきふとだしてくる古いシャンソンの歌い回しとかミュージック・ホール風の陽気さとかクラシック音楽をわざとつかったものとかは、この多彩な人物のなかにある古層がふとあらわれて、とみることができるようにおもうのだが……。

 

◇初出=『ふらんす』2017年2月号

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著者略歴

  1. 小沼純一(こぬま・じゅんいち)

    音楽・文芸評論家。早稲田大学教授。著書『ミニマル・ミュージック』『音楽に自然を聴く』

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