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青柳いづみこ「ドビュッシー 最後の1年」

第1回 いうにいわれぬもの

ドビュッシーとストラヴィンスキー
ドビュッシーとストラヴィンスキー

 

 クロード・アシル・ドビュッシー Claude Achille Debussy。1862年8月に生まれ、1918年3月に没したフランス近代の大作曲家である。唯一のオペラ《ペレアスとメリザンド》、交響詩《海》、不朽の名作《牧神の午後への前奏曲》、ポピュラーなピアノ曲《月の光》。

 若いときは、音楽家仲間より詩人仲間とつきあっていた。伝説の文学キャバレ「黒猫(シャ・ノワール)」や、リラダンも出入りした「独立芸術書房」の常連で、貧しい屋根裏部屋にマラルメを招いてピアノで《牧神》を弾いてきかせた。ピエール・ルイス『ビリティスの歌』では歌曲、朗読とパントマイムのための音楽、そしてピアノ連弾曲《6つの古代碑銘》と3度も作曲している。

 「音楽になる言葉」にこだわりが強く、詩人たちに何度もテキストを手直しさせたあげく、自分は1音符も書かない名人だった。音楽の文学に対する優位を主張し、言葉がとだえたところから始まる「いうにいわれぬもの」の音楽化をめざした。

 もうすぐドビュッシー没後100年がやってくる。19世紀末には、あまりに前衛的で「1音符書くごとに音楽の国の検閲官に追いかけまわされた」彼も、20世紀にはいると、新ウィーン楽派やストラヴィンスキーの台頭によって「時代遅れ」とみなされるようになる。

 ストラヴィンスキーのことは好きだったが、同時に恐れた。第一次世界大戦が始まったころ、ドビュッシーはある指揮者への手紙で彼のことを「音楽的ではない方法で音楽をつくろうとしている」と評している。「ドイツ人たちが今やおがくずでビフテキをつくることができると表明したのと同じようなものだ」(ドイツではこうして戦争中の食料危機を乗り切るという噂が流れていたらしい)。別の友人には、「ストラヴィンスキーは、危険なほどシェーンベルクの側になびいている」と危惧をもらした。

 ドビュッシーは、前衛的すぎると非難されたころから、いつも自分は「耳のために」作曲すると言っていた。和声の革命家と言われたが、音の多くは高次倍音列に含まれ、「耳に快い」範疇を出ることはなかった。そして、従来の作曲法を次のように批判していた。

 「音楽の書法というものが重視されすぎているのです──書法、方式、技術が。音楽を作ろうとして、観念を心のなかにさぐる。すると、自分のまわりに観念をさがさねばならなくなる[…]。こうして形而上学が作られます」(『コメディア』1909年11月4日)

 ドビュッシーの死後、メシアン、ブーレーズが20世紀音楽を推進し、ケージ、クセナキス、シュトックハウゼンらが前衛芸術のさまざまな実験を行った。トータルセリエリズム、不確定性の原理、ミュージック・コンクレート、図形楽譜、コンピュータ音楽。

 現代音楽界はアイディア合戦の様相を呈し、最先端の語法を用いなければ作曲家ではないとまで思われていた時期もあったが、80年を機に急速に沈静化し、6人組やサティなど中間地点にある作曲家に目が向けられるようになった。

 長らく印象派に組み込まれ、パステルカラーの作曲家だと思われていたドビュッシーも、ブーレーズによって《前奏曲集第2巻》や《12の練習曲》の革新性に光が当てられ、20世紀音楽の扉を開けた存在として評価されるようになった。

 でもドビュッシーは、20世紀音楽に道を開いたのではない。メシアンやブーレーズは移調の限られた旋法などドビュッシー独自の「書法」を発展させたが、かんじんの「いうにいわれぬものの音楽化」のほうは受けつがなかった。最前衛の作曲家たちは、「耳のための音楽」どころか、耳に耐え難い音楽をつくりつづけ、聴衆を置き去りにしてしまった。ドビュッシーの危惧が的中したのだ。

 20世紀初頭にあってドビュッシーは、メシアンもブーレーズも飛び越えた音楽の未来を見ていた。彼の長逝はだから、彼が成し遂げるべき音楽をも葬ったことになる。

 サティはドビュッシーについて、「過大とも思えるほど、大きな自信を抱いていた」と回想している。自らに頼むところの多い作曲家だったが、同時に仕事の遅い怠け者でもあった。才能の大きさ、託されたものの重圧と周囲の無理解、金銭的な困難に苦しんだ。

 健康にも恵まれなかった。1908年から下血に悩まされ、痛みをおさえるためにモルヒネを処方された。ドビュッシー自身は「いつも座っている人のかかる病気」と揶揄していたが、実際には直腸ガンだった。1915年秋に診断を受け、手術。放射線治療を受け、ベッドから起き上がれない時期もあった。

 1917年は、あと1年しか命が残されていないドビュッシーが、ようやくのことで《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》を作曲し、ガストン・プーレとともにパリで初演した年でもある。

 それから100年。ドビュッシー最後の1年をたどりながら、彼がなしとげたこと、なしとげられなかったことの意味を考えていこう。

 

◇初出=『ふらんす』2017年4月号

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著者略歴

  1. 青柳いづみこ(あおやぎ・いづみこ)

    ピアニスト・文筆家。著書『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』『ドビュッシーとの散歩』

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