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根井雅弘「英語原典で読む経済学史」

第3回 アダム・スミス(2)

 スミスというと、self-interest(利己心)とかself-love(自愛心)という言葉が思い浮かぶほど、経済活動の動機として「利己心」や「自愛心」を肯定した経済学者として世間では理解されています。もちろん、各人が利己心や自愛心に衝き動かされて行動するとはいっても、好き勝手をやってもよいのではなく、市民社会のルールを守り、「フェアプレーの精神」を尊重しなければ、他者のsympathy(「共感」とか「同感」と訳されます)を失ってしまうので、その行動は社会的に是認されないでしょう。これは、『国富論』の前の著書『道徳感情論』(1759年)のテーマなのですが、この連載では前者に集中したいので、深入りは避けましょう。ただ、いまだに、スミスの思想を粗雑な「自由放任主義」のように誤解している人が少なくないので、注意を喚起しておきます。

1 関心があれば、堂目卓生氏の『アダム・スミス』中公新書、2008年を参照。拙著『アダム・スミスの影』日本経済評論社、2017年8月、でもこの点に触れておきました。今回も、スミスの英文は、以下から引用します。
http://oll.libertyfund.org/titles/smith-an-inquiry-into-the-nature-and-causes-of-the-wealth-of-nations-cannan-ed-vol-1


 さて、スミスが『国富論』の冒頭で「富」=「消費財」と看破したことは前回触れましたが、そうすると、富を増やすには、一人当たりの消費財の量を増やすことを考えなければなりません。スミスは、そのための方策として、(1)労働の生産力を高める「分業」と、(2)労働人口に占める「生産的労働」の割合を引き上げることの二つを指摘しましたが、まずは、分業を取り上げましょう。
 分業とはdivision of labourの訳語として定着していますが、直訳すれば「労働の分割」となります。分業の例としては、工場内の技術的分業がわかりやすいでしょう。スミスは、ピン製造の例を挙げていますが、それによれば、一人の職人がピン製造の全工程をたった一人でおこなった場合は、一日に一本のピンも作れないものの、10人の職人が分業体制をとれば、一日に一人当たり4800本のピンを作れるということでした。分業という言葉は、工場内の技術的分業の意味のほかにも、「職業の分化」、つまり「社会的分業」の意味でも使われますが、両者はときに混同されています。

 興味深いのは、スミスが分業を人間本性にある「交換性向」から発生するものと捉えていることです。それは動物にはないと。妙に記憶に残っている文章があります。

Nobody ever saw a dog make a fair and deliberate exchange of one bone for another with another dog.


 岩波文庫に、「犬と犬が一本の骨を別の骨と、公正で熟慮した交換をするのをみた人などいない」(『国富論1』、37-38ページ)とある通りの英文です。ところが、人間本性には交換性向があるので、モノとモノとの取引を交換するというプロセスを長い時間をかけて繰り返した結果として分業が生まれてきたという論理です。「文明社会」とは、そのような分業が高度に発達した社会ですが、そこでは、人間は他者の「仁愛」に頼るだけでは十分ではなく、「自愛心」に働きかけなければうまく生きていくことができません。スミスは、そのことを明快に説いています。

[1] In civilized society he stands at all times in need of the co-operation and assistance of great multitudes, while his whole life is scarce sufficient to gain the friendship of a few persons. In almost every other race of animals each individual, when it is grown up to maturity, is entirely independent, and in its natural state has occasion for the assistance of no other living creature. But man has almost constant occasion for the help of his brethren, and it is in vain for him to expect it from their benevolence only. He will be more likely to prevail if he can interest their self-love in his favour, and shew them that it is for their own advantage to do for him what he requires of them.


 最初の英文は、「文明社会では、人間はつねに多数の人々の協力と助力を必要としている。ところが、人間の一生は、少数の人々の友情を得るのにもとうてい十分ではない」という意味ですが、岩波文庫では、his whole lifeの部分が「一生をかけても」というように副詞的に訳されています。これはプロの翻訳家がよく使う手の一つです(安西徹雄『翻訳英文法』参照)。
 次は、「ほとんど他のすべての種の動物の場合、各個体は成熟してしまうと、完全に独立し、その自然の状態では、他の生き物の助力を必要としない」とありますが、ここのindividualは、「個人」ではなく「個体」のことです。「だが、人間は仲間の助力をほとんどつねに必要としており、しかもそれを彼らの仁愛のみから得ようと期待しても無駄である」とあります。benevolenceを、ここでは、「仁愛」と訳しました。
 次の英文は比較的簡単ですが、文章が長めです。定石ではいったん切りますが、切らずに訳せば、「彼が成功する見込みは、自分の有利になるように彼らの自愛心に働きかけ、自分が(彼らに)求めることを(自分のために)してくれることが彼ら自身の利益にもなることを示すことができるならば、さらに高くなるだろう」となるでしょうか。heやtheyは文脈からはっきりわかるなら、日本語では適当に省略してもよいと思います。例えば、( )内はなくても意味は通じます。なお、shewはshowに当たる古英語なので要注意です。
 もう少し砕けた内容なら、私も定石通り切るかもしれません。例えば、「彼は次のようにすればもっとうまくいくだろう。つまり、・・・・・彼ら自身の利益にもなると示すのである」というように。しかし、『国富論』は、経済学の歴史に残る古典の一つなので、あまり砕けた表現を用いるのは憚られます。
 英語を日本語に移すというのは、考えれば考えるほど、難しいものです。やさしい英文ほどなおのこと難しい場合があるので、迷いがあるのは当然です。私は、文脈から誤解を招く心配がないなら、heやtheyは省略した訳し方をしても許されると思いますが、全部丁寧に訳すべきだというのも一つの尊重すべき立場であり、それを否定するつもりはないことを付け加えておきます。

 ところで、いま、私たちは、『国富論』の出だしのほうを読んでいます。この辺は、「利己心」や「自愛心」の話がたくさん出てきます。学生時代に『国富論』を英語で読まされた世代は、最初の10ページや20ページで挫折してしまったということはないでしょうか。もしそうなら(勝手な推測で誠に申し訳なく存じますが)、スミスについて、「利己心」や「自愛心」という言葉に彩られたイメージを抱いてしまったとしても不思議ではありません。先の英文のちょっと後に[2]が出てきます。

[2] It is not from the benevolence of the butcher, the brewer, or the baker, that we expect our dinner, but from their regard to their own interest. We address ourselves, not to their humanity but to their self-love, and never talk to them of our own necessities but of their advantages.


 この部分は、岩波文庫にあるように、「われわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである。われわれが呼びかけるのは、彼らの人類愛にたいしてではなく、自愛心にたいしてであり、われわれが彼らに語るのは、けっしてわれわれ自身の必要についてではなく、彼らの利益についてである」(『国富論1』、39ページ)という意味です。ただ、that we expect our dinnerは、「私たちが自分たちの食事をとらせてもらえるのは」と訳してもよいかもしれません。
 これだけ「自愛心」を強調されたら、不注意な読者が誤解しても不思議ではないと思います。もしこの周辺の文章しか読めなかったのだとしたらなおさらです。

 しかし、分業の利益を説いたあと、スミスは重要なことを指摘しています。「分業は市場の大きさによって制限される」(The division of labour is limited by the extent of the market.)というのです。製造工程の分割という意味での分業は、現代風にいえば、「プロセス・イノベーション」に近いものですが、それはもちろん生産力の拡大のためにあります。サプライサイドの拡充といってもよいでしょう。ところが、その分業がどれだけ進むかは、「市場の大きさ」、つまりディマンドサイドがどれほどのものかにかかっているというのです。鋭い指摘です。
 博学なスミスは、その点をいろいろな歴史を引いて例証しています。『国富論』は、単に理論を提示しただけでなく、ほとんどの場合、こういう歴史の話が随所に登場します。この部分は、全部英文で精読する必要はありませんが、せめて翻訳では読んでみることをおすすめします。司馬遼太郎の歴史小説を読んでいたら、脱線に次ぐ脱線で主人公は誰であったか? というような経験はありませんか。それと同じとは言いませんが、優れた文筆家が脱線の名人であることも確かです。
 私も脱線してしまいました。スミスによれば、分業は人間本性にある交換性向から発生したものでしたが、他方で、分業は市場の大きさによって制限されると。これは、スミスが、当時勃興しつつあった資本主義という経済システムが、サプライサイド(供給面)とディマンドサイド(需要面)の相互作用によって発展していくことを明確に理解していたことを示しています。「需要と供給の好循環」といってもよいでしょう。生産力を拡大するために分業を進めたとしても、商品に対する需要がついてこないなら、このシステムはうまく運行しません。のちに、ポスト・ケインジアンのニコラス・カルドアは、アリン・ヤングの論文「収穫逓増と経済進歩」(1928年)の先見性を再評価し、市場の大きさ→分業→生産性の上昇→市場の大きさの拡大、というヤングの視点が、もともとスミスの『国富論』のなかにあることに気づきました。カルドアは、それをみずからの視点(製造業における収穫逓増の重要性)の方向に利用していくのですが、「ケインジアン」だからディマンドサイドにしか関心がないという教科書的な理解をしている人たちには啓発的な指摘でした。
 スミスもまた「分業」だけの経済学者というような理解は避けることにしましょう。

2 Allyn A. Young ,” Increasing Returns and Economic Progress,” Economic Journal, vol.38, no.152(December 1928) 晩年のカルドアは、アリン・ヤング絶賛といってよいほど彼を高く買っていましたが、初期のカルドアが新古典派の優秀な理論家だったことも現代経済思想史に関心があれば、ご存じでしょう。拙著『現代イギリス経済学の群像』(岩波書店、1989年)参照。

<参考訳>

岩波文庫(水田洋監訳・杉山忠平訳、全4巻、2000-2001年)

 「文明社会では、人はつねに多数の人びとの協力と援助を必要としているのに、一生をかけても何人かの人びとの友情を得るのにたりない。ほとんど他の動物のすべては、いったん成熟すれば、完全に独立し、その自然の状態にあっては、他の動物の助力を必要としない。しかし人は仲間の助力をほとんどつねに必要としており、しかもそれを彼らの慈悲心だけから期待しても無駄である。自分の有利になるように彼らの自愛心に働きかけ、自分が彼らに求めることを自分のためにしてくれることが、彼ら自身の利益になるということを、彼らに示すことのほうが、有効だろう。」(『国富論1』、38ページ)

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著者略歴

  1. 根井雅弘(ねい・まさひろ)

    1962年生まれ。1985年早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。1990年京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。現在、京都大学大学院経済学研究科教授。専門は現代経済思想史。『現代イギリス経済学の群像』(岩波書店)、『経済学の歴史』(講談社学術文庫)、『シュンペーター』(講談社学術文庫)、『サムエルソン 『経済学』の時代』(中公選書)、『経済学再入門』(講談社学術文庫)、『ガルブレイス』『ケインズを読み直す』(白水社)、『企業家精神とは何か』(平凡社新書)、『アダム・スミスの影』(日本経済評論社)他多数。

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