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ふらんす2011年1月号特集「アンヌ・ヴィアゼムスキー来日レポート」

女優で作家のアンヌ・ヴィアゼムスキーが、2017年10月5日、パリの病院で亡くなりました。
ヴィアゼムスキーは、自伝的小説『少女』邦訳刊行を機に2010年11月に来日し、その模様は雑誌『ふらんす』2011年1月号でも特集しました。
彼女を追悼し、同記事を再掲いたします。
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ふらんす2011年1月号特集
「アンヌ・ヴィアゼムスキー来日レポート」

巨匠ロベール・ブレッソンの傑作『バルタザールどこへ行く』で鮮烈なスクリーンデビューを果たしたフランス映画界の伝説的ミューズ、アンヌ・ヴィアゼムスキー Anne Wiazemsky が、その撮影過程を題材とした小説『少女』(白水社)の翻訳刊行を機に、東京日仏学院「読書の秋」の招きで来日した。(注:東京日仏学院は現在のアンスティチュ・フランセ東京)
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「少女の受難と情熱」
四方田犬彦



東京日仏学院「読書の秋」対談イベントでの四方田犬彦氏とアンヌ・ヴィアゼムスキー氏
(2010年11月17日開催)

 白髪で、長身で、いつももの静かで周囲に威厳を放ち、畏敬されている老人がいる。だが彼は同時に老獪であり、孤独であり、仕事先にわざわざ飼猫を二匹連れてきて、寝る前にはかならず猫と遊んでいる。そしてときに怒りを炸裂させたかと思うと、子供っぽく懇願し、内気にして感傷的である。自分の周囲に対しては帰依を要求する独裁者ではあるが、謎めいていてその人格の深さを見通すことが容易ではない。約(つづ)めていえば、旧約聖書の神様を人間に仕立てあげたような人物である。

 父親の死後、希薄ではあるが恒常的な喪に耽っていた少女の前に、ある日突然、この老人が現われる。それも全世界の映画ファンに畏怖されている監督として。彼は彼女の声を聴きたいといい、ひとたび聴いてしまうと、この声といつもともにいたいという。こうして少女は、演技の経験もないズブの素人であるというのに、彼の新作に主役として抜擢されることとなる。だが真実はやがて表明する。素人だからこそ抜擢されたのだ。職業的な俳優のいかにも演技らしい演技こそ、この監督が憎んでやまないものであった。あらゆる意図も内面的感情も消し去って、無表情のうちに科白を棒読み同然に口にすることこそが、彼の求めるところだったのである。こうしてロベール・ブレッソン監督、アンヌ・ヴィアゼムスキー主演による『バルタザールどこへ行く』Au hasard Barthazar の撮影が、1965年に開始された。

 やがて作家としての地位を確立したヴィアゼムスキーは、60歳のときを待って、この当時の思い出を執筆する。だがその『少女』Jeune fille という書物は、厳密にいうならば回想でもなければ、映画史的記録でもない。ひとりの無垢な少女が映画とセックスという未知の世界へと参入してゆくことを描いた、通過儀礼の物語であり、過ぎ去った人生の時間のなかでもっとも幸福であった日々を若干の虚構を交えながら文学として残しておこうという意志の現われである。

 『バルタザールどこへ行く』というフィルムは、わたしにとって長い間特別の作品であった。ほとんど驢馬と少女しか登場しないフィルムをわたしは、高校生時代に喧騒の新宿で観て、ひどく強い印象を受けたのである。2000年にロンドンの映画雑誌『サイト&サウンド』が世界の映画批評家100人にアンケートを出し、この百年のフィルムから10本を選ぶようにと書いてきたときにも、その1本として取り上げている。だから『少女』が刊行されたときには、ブレッソンの演出術や作品の舞台裏を覗くことができるかもしれないという期待があった。だが読み進めていくうちに、それが軽薄な期待であると判明した。これはそれをはるかに凌駕した小説であったためだ。端的にいってそれは、突然に襲いかかった偶然の受難を何とか運命の必然として受け入れ、読み替えようとする女性の魂の記録なのである。

 ブレッソンの作品を何ひとつ観たことがなかった主人公は、クランクインの前日、監督本人に連れられて、パリのとある映画館に前作『ジャンヌ・ダルク裁判』Procès de Jeanne d’Arcを観に行く。スクリーンのなかではジャンヌに扮したフロランス・ドゥレが必死に苦悶を訴え、泣きじゃくっている。

 「私、死んでもいいわ。でも焼かれるのはいや。私の体はけがれてなんていない。この体を消滅させたくないの。灰にしてはだめよ」

 ちなみにフロランスはヴィアゼムスキーをブレッソンに引き合わせた張本人である。この映画鑑賞の場面が告げているのはジャンヌの受難だけではない。それは明日から開始される主人公の受難の予徴でもある。フランス語で受難が情熱と同じpassionという単語であることは、あえていうまでもないだろう。


アンヌ・ヴィアゼムスキー氏(同上イベントにて)

 アンヌ・ヴィアゼムスキーとは一度会って、いろいろと訊ねておきたいことがあった。ゴダールのもっとも過激な時代を共にした証人であり、わたしが長らくその詩の翻訳に携わっていたパゾリーニの作品に2本、出演している女優だからである。このたびの来日で、東京日仏学院の場を借りそれが叶ったことは存外の悦びである。彼女が思慮深く、誠実で、しかもノスタルジアの甘美さを物語にできる才能をもった人物であることは、話していてただちに判った。ブレッソンの映画で主演した女性たちは、その後も小さく親密な共同体を築きあげ、彼が物故した際にも葬礼に参加したという。40歳を過ぎたころから、父方の祖国であったロシアのことが大きな意味をもつようになったともいった。いいことを聞いたと、わたしは思った。『少女』という小説が、ブレッソン的な深さにおいて読まれることを、わたしは期待したく思う。
(よもた・いぬひこ/映画史・比較文学)

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「〈少女〉から女優へ、そして小説家へ」
國分俊宏



東京大学で行なわれたシンポジウム(2010年11月18日開催)。
左から野崎歓氏、堀江敏幸氏、アンヌ・ヴィアゼムスキー氏、ジャン=クロード・ボネ氏

 1965年、一人の少女が老齢の映画監督と出会った。少女は17歳、いまだ自分が何者であるかを知らず、翌年に控えた大学受験のことを気にかけていた。

 いや、高名な文学者の家系に生まれた彼女は、その時むしろ、将来に対して漠然とした不安を抱きながら、作家として名を成す祖父と伯父の重圧から抜け出すために、文学とは違う別の道を、懸命に探していたのだった。監督ロベール・ブレッソンは、そんな彼女に映画女優という最高のプレゼントを与えたのである。

 それから約40年後、少女はその時の経験をもとに一冊の小説を書き上げることになるだろう。そしてその時、少女はもう「少女」ではなく、さらに「女優」でもなく、祖父や伯父と同じ文学の道に転身し、堂々たるキャリアを築き上げた紛れもない小説家となっているだろう。

 そう、それが今われわれの知るアンヌ・ヴィアゼムスキーという女性なのだ。

 その小説のタイトルは『少女』Jeune fille。このたび日本でのこの翻訳の刊行を記念して、著者自身が来日した。訳者である僕も間近で接する機会を得た。

 彼女について、いつも同じ紹介を繰り返すのは気が引けるが、やはり初めて知る方もおられるだろうから、簡単に繰り返しておこう。父はロシアでは知らぬ者はないという家柄の亡命ロシア貴族で、母方の祖父がノーベル賞作家のフランソワ・モーリヤック、伯父クロード・モーリヤックもよく知られた作家である。

 ブレッソンの映画『バルタザールどこへ行く』Au hasard Barthazar(1966)でデビューした後、ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』La Chinoise(1967)に出演、ゴダールの妻ともなった(のちに離婚)。

 そのほか、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『テオレマ』Teorema(1968)やフィリップ・ガレル監督の『秘密の子供』L’Enfant secret(1979)などに出演し、舞台女優としても活躍した後、1988年、短編集Des filles bien élevées で作家デビュー。1993年 Canines で〈高校生ゴンクール賞〉を、1998年 Une poignée de gensでアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞している。

 そして2007年、ブレッソンに見出されて初めて映画に出演したひと夏の経験を描いた9作目の長編小説『少女』を発表したのである。

 峻厳な、と言ってもよい孤高の作風を持つ有名な映画監督が、うら若き少女に対して、時にはあからさまな、かなりきわどい接触を迫ってくる姿を描いたこともあって、刊行当時はゴシップ的な意味合いでも話題を呼んだ。実際、ブレッソンの未亡人は、この本の出版を差し止めようとしたらしい(これは今回ある夕食の席でヴィアゼムスキーさん本人から聞いた話)。しかし、この本はあくまで小説(フィクション)であることを忘れてはならない。この本はブレッソンを誹謗中傷するようなものではまったくなく、むしろブレッソンへの深い愛と感謝の念から書かれたものなのだ。

 今回の来日中、特にこの小説に焦点を当てたイベントとして、東京大学で野崎歓さんの司会によるヴィアゼムスキーを囲むシンポジウムがあった。その席上、堀江敏幸さんとヴィアゼムスキーさんがともに「書くとは、フィクションを通過するということ」と言っていたことが強く印象に残っている。実際、彼女は当時つけていた日記を、この小説の初稿を書き上げるまでは一切見ないというルールを自分に課していたそうだ。この小説の骨格をなす部分は、ただ記憶だけを頼りに書かれたのである。

 ちなみにこの催しの際、ご本人が座るその背後のスクリーンで、映画『バルタザールどこへ行く』の、穀物商との1シーンが上映された。このなんとも贅沢な、幻想的な光景も忘れられない。

 その翌日、僕はいくつかの雑誌の取材の通訳を務めた。どの社も必ず日記のことを聞き、そのたびに同じ返答が、そしてこの本には創作も交じっているから、という説明が繰り返された。3人目の取材者の時だったか、何度も同じやり取りを通訳させられる僕を気遣って、まだ言ってない新しいことを付け加えるわ、と、ラストのブレッソンとのベンチのシーンが創作であることを打ち明けてくれた。あの感動的なシーンが、である。もちろん僕はそれを取材者に伝えたけれど、その時、彼女は明らかにインタビュアーにではなく、この僕に向かって話してくれていたのだった。

 もう一つ、鳥肌が立った言葉がある。この小説を書こうと思ったいくつかのきっかけについて聞くうち、彼女はこんなことを言った。「偉大な映画監督のブレッソンから、自分はただ与えられるだけだと思っていた。『君がどれだけ僕に多くを与えてくれたか、君ももう少したてばわかる』というブレッソンの言葉がその頃はまだわからなかった。でも今はわかるような気がする。自分もまた彼に多くを与えていたということが。私たちはお互いに与え与えられる、対等の関係だったということが。それもこの小説を書くきっかけになったかもしれません」。この言葉自体、小説的にできすぎた言い回しだとしても、ここにはやはり一つの真実がある。「書くことは不可避的に距離をとること」と、彼女は東大の会場で言ったが、ブレッソンに対してだけでなく、「当時のアンヌ」に対しても距離をとることによって、ヴィアゼムスキーはこの物語を、あくまで小説として、書くことができたのだろう。
(こくぶ・としひろ/青山学院大学教授)

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「純粋な経験としての映画 ——ブレッソンとの出会い」
土田環



『少女』アンヌ・ヴィアゼムスキー著/國分俊宏訳(白水社)


 アンヌ・ヴィアゼムスキーによる小説『少女』Jeune fille は、2004年、ロベール・ブレッソンの長編第1作『罪の天使たち』Les anges du péché(1943)に主演した2人の女優、ジャニー・オルト、ルネ・フォールを著者自身が訪ねる場面から始まる。それが、自身の演出したブレッソンに関するTVドキュメンタリーのためだったのか、この小説を書くためだったのかは分からない。そもそも、小説なのだから、虚構であったとしても、不思議でもなければ問題でもない。しかし、読み手として冒頭から心を震わせずにいられないのは、2人の伝説的な女優との出会いから、映画史の過去へと溯及していくこと以上に、ヴィアゼムスキー本人が、“同じ”映画の女優として、彼女たちの言葉を反復することになるからだ。大学入学資格試験(バカロレア)を控えた17歳の少女は、当時、すでに名の知られた映画監督であったブレッソンに見出され、次作『バルタザールどこへ行く』Au hasard Barthazar(1966)のテストのために、『罪の天使たち』の台詞を朗読することになる。小説にも描かれているこの作業のなかで、著者自身も、幾度となく女優たちの声を聴き、その言葉を自らの身体に刻み込まねばならなかったはずだ。

 母方の祖父フランソワ・モーリヤックの勧めもあり、撮影のあいだも日記を付け続けていたというヴィアゼムスキーは、『少女』を書き終えるまで、それを参照することはなかったという。40年ほどの月日を経て、かつての女優たちの息づかいを見守り、相手の言葉を待ち続けながらそのうえに自身の呼吸をぴったりと重ねあわせていく彼女にとって、この小説は、映画史の証言というべきものでもなければ、回想やルポルタージュにとどまるものでもない。むしろ、ひとりの少女が、ロベール・ブレッソンあるいは映画(シネマトグラフ)という出会いを通じて、どのように成長し、変化し、世界を開いていくのか、経験そのものが純粋な結晶として私たちに差し出されているのだ。

 撮影現場ではやり場のない怒りをロバのバルタザールにぶつけ、宿泊先の家に戻れば猫たちと戯れる人間味のある側面を見せながらも、威厳というよりはむしろ、謎に包まれた存在として小説のなかで描かれるブレッソン。1999年に開催された東京国際映画祭ロベール・ブレッソン特集のために『ジャンヌ・ダルク裁判』の女優フロランス・ドゥレと共に初来日したヴィアゼムスキーは、カタログに次のような言葉を寄せている。

 「ロベール・ブレッソンと撮影を行ない、彼とつき合うことで、私は根本的に変わった。彼は、美と無理な要求が相伴うような豊かな世界への窓を開いてくれた。彼は、私に映画への愛と、映画に携わる人々への愛を育んでくれた。なんだかまるで彼がこう言ってくれたかのようだった。『さあ、突然だが、今こそどこへ行くべきかを知るときだよ……』。こうした経験は比類のないものだけれど、彼の映画に出演した他の役者もそれを分かち持っていることがわかる。そもそも私たちは、そうした冒険の生き生きした想い出で今もなお結ばれて、互いに知り合っているような人種なのだ。合い言葉のある秘密結社みたいなものだ」

 ブレッソンの映画に出演した人々にとって、彼の映画とはすべて、自身が成長し変化するための通過儀礼のようなものであるのかもしれない。だが、それは「自分探し」や「アイデンティティの確立」といったやさしい言葉ですまされるものではない。自分が自分であることの苛酷さ、残酷さを引き受けることなしには、世界に存在することができないことを示すのがブレッソンの映画(シネマトグラフ)にほかならない。

 「俳優の自信に対立するものとして、自分が何者なのかわからないモデルの魅力を取れ」「モデル。自動的になることで、いかなる思考の介入からも身を守ることができる」。出演する役者を「モデル」と呼ぶ、独自の映画的手法を構築していったブレッソンの映画において、役者は演劇のように誰かに成りすますことが求められているのではない。自らの意識を最小限に減らすことによって、もはや役者が自分自身でしかない状況を生きざるを得ないのである。

 「君のモデルたちにこう言うのは馬鹿気たことではない――『あなたのあるがままの姿にあなたを創造してあげましょう』と」

 今回、2度目の来日を果たしたヴィアゼムスキーが、折に触れて引用していたブレッソンの言葉は、彼と出会い、創造のために時間を共有したものだけが、いまだからこそ、ひそやかに口にすることのできるものなのかもしれない。日本で最もブレッソンの映画に魅せられた映画監督、筒井武文、万田邦敏のお二方を聞き手として迎えて行なわれた映画美学校特別講義のなかでも、ブレッソンの存在が、彼女のこれまでの歩みにとって、決定的なものであったことをうかがい知ることができた。カメラを通すことでしか発見できない、自分すら知らなかったものへの出会い、そして、その時間を生きることが彼女にとっての「冒険」なのであり、ブレッソンの映画を経験として通過したあとにしか、そのことを見つめることはできない。その意味で、映画から『少女』に至る40年という月日は、小説が作品として生み出されるためにもふさわしい時間だったのかもしれない。「もう少し経てば君もわかる……。もう少し経てばね」というブレッソンの残した呟きから逃れられなかったかのように。
(つちだ・たまき/早稲田大学講師)

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