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山上浩嗣「寝るまえ5分のパスカル『パンセ』入門」

第6回 身体と人間の有限性

 パスカルは、「人間の不均衡」と題された『パンセ』最大の断章のなかで、自然界には人間の想像も及ばぬほど巨大な宇宙空間が存在する一方で、ダニの体液の一滴一滴でさえも無数の極小の世界を包摂していることを指摘している。大小のいわゆる「二つの無限」である。パスカルはその上で、人間をこれら二つの無限の「中間」と位置づけるのである(拙著『パスカル『パンセ』を楽しむ』、12「二つの無限」を参照)。 このとき、人間はこれら「二つの無限」、すなわち「無」(無限小)と「全体」(無限大)という「両極端を理解することから、無限に隔てられている」、とパスカルは言う(S230-L199-B72)。人間に許されているのは、自分と同じく両極端の「中間」に位置する諸事物の(本質ではなく)「見かけapparence」をかいま見ることだけである。

 

 「人間は、ものごとの原初もその終極も知ることのできない永遠の絶望のなかにあって、それらの中間にある何らかの見かけをちらっと見ること以外に、一体何ができるというのか。すべてのものごとは無から発して無限へと運ばれていく。この驚くべき行程に、一体誰がついていけるというのか。これらの奇蹟を創造した者だけがそれを理解する。他の何者にもそれはできないのだ。 これらの無限をはっきりと見つめることができなかったばかりに、人間たちは無謀にも、自然の探求に乗り出してきた。まるで自分たちが自然となんらかの釣り合いをもっているとでもいうように」(S230-L199-B72)

 

 上では、人間の不完全な認識能力が、その「中間」という地位との関連で説明されている。同時に、おのれの無能力を知らずに自然の探求に挑む人間の思い上がりが告発されている。「自然」という「無限」は、その戧造者たる無限なる神だけが理解しうるのであり、中間者たる人間の手の届く対象ではない。上の一節にある「釣り合いproportion」という語は、同じ性質をもつもの同士の関係を意味する。断章の題名に含まれる「不均衡dispropotion」はその対義語である。ゆえにこの語は、人間と自然(そして人間と神)との絶対的な隔絶を表すと考えられる。パスカルがここで、主体が客体を認識するためには、両者の間に「釣り合い」という存在論的な同質性がなければならないという原則を、あたかも自明の真理のように適用していることは注目に値する。これは当時においては通念だったようで、パスカルの盟友でもあったアルノーとニコル両名の著『ポール= ロワイヤル論理学』は、「無限を理解することができないことは、有限の精神の本性に属する」という命題を、「大きな真理に供する原理となりうる重要な公理」のひとつに数えている(1664 年版、第4 部第7 章)。

 ところで、冒頭で見たとおり、パスカルが人間を「中間」に位置づけたのは、人間がもつ身体の大きさのゆえであった。人間の認識能力が有限であるのはその結果である。つまり、人間の限られた認識能力は、何よりも人間が身体をもつという事実に起因しているのである。

 

 「知覚可能な事物の階層のなかでわれわれの知性がもつ地位は、自然の広がりのなかでわれわれの身体がもつ地位と同じである」(S230-L199-B72)

 

 このとき、人間の知的な理解能力だけでなく、その感覚の及ぶ範囲も有限なものとなる。過度に小さな刺激も大きな刺激も人間には感知できないし、過剰な快は不快や疲労の原因になる。次の一節には、誰にも身に覚えがある経験がいくつも並んでいてうなずかされる。「あまりのtrop」という語のくり返しが悲劇性を高めている。

 

 「われわれの感覚は、極端なものを何も知覚しない。あまりにも大きな音はわれわれを聞こえなくするし、あまりにも明るい光はわれわれの目をくらませる。距離が遠すぎても近すぎてもものは見えない。話が長すぎても短すぎても理解ができないし、あまりにも明白な真実はわれわれを驚かせる。[…] 過剰な快楽は不快にもなるし、音楽で和音がありすぎると不快になる。また、過剰な親切にはいらいらさせられる。[…] 極端な熱さも極端な冷たさも感じない。極端な性質はわれわれには敵となるのに、感知できない」(S230-L199-B72)

 

 このように、パスカルにとって、人間の有限性を定めているのは身体である。人間は身体をもつがゆえに、無知であり、脆弱なのだ。『パンセ』のなかには、蚊が人間の魂の活動を妨げる(S56-L22-B367)、風見鶏の音や滑車の音でも人間は思考を邪魔される(S81-L48-B366)、炭が押しつぶされる音によって理性がふっ飛ぶ(S78-L44-B82)、などの記述もある。人間の精神活動は、か弱い身体によってかろうじて支えられているにすぎないのである(上掲拙著、9「蚊の力」を参照)。

 さて、それにもかかわらず、一方でパスカルは、この頼りない身体を、人間が確固たる認識を得る手段として位置づけている。そのことについては、次回に見よう。

 なお、V. カローが言う通り、そもそも「無限のなかの人間」という表現は撞着語法にほかならない。無限大と無限小はともに量である以上、両者の間に位置するのもあくまでも数量でなければならないからだ(V. Carraud, Pascal et la philosophie, 1992)。また、H. ミションは、「可視的かつ理解不能なもの」(すなわち自然)の存在によって、「不可視で理解不能なもの」(すなわち神)の存在を正当化しようとするパスカルの論理を、「既知のもの」としての自然から「未知のもの」としての神を証明しようとする自然神学の論理とは対立するものであると指摘している(H. Michon, L’Ordre du coeur,1996)。パスカルは、あえて無限や中間という斬新な幾何学の用語を用いて、神学の伝統とは一線を画す独自なレトリックを構築したのである。 

 

*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B]の断章番号によって記す。

 

◇初出=『ふらんす』2017年9月号

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著者略歴

  1. 山上浩嗣(やまじょう・ひろつぐ)

    大阪大学教授。著書『パスカルと身体の生』『パスカル「パンセ」を楽しむ』

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